水素爆弾の父(エドワード・テラーさん):アルケーを知りたい(369)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

▼今回は、水素爆弾の父 father of H-bomb とされるエドワード・テラーさん(35)の話。フリッシュさん(39)、パイエルスさん
(36)の本でテラーさんの能力・個性・ピアノ演奏に触れた部分をピックアップした。

フリッシュ本:フリッシュ本にはテラーさんの顔写真と次のキャプションが載っている。「エドワード・テラー ハンガリー生まれの水素爆弾の父。広範な能力と想像力を持つ理論物理学者でもあった。(2003.9.9死去 95歳)(p.217)」

フリッシュさんはテラーさんと一緒に旅行したことがある。列車の中でフリッシュさんが疲れ果てるまで議論したという。「もう一人の注目すべきハンガリー人は、デンマークでもちょっと会ったことのあるエドワード・テラーである。テラーはいつも、難しい問題、議論、目隠しチェスゲームなど、何か挑戦するものを探すタイプの頭脳を持っていた(p.217)」

テラーさんはピアノが上手だった。フリッシュさんもピアノを演奏するので、ピアニストとしてのフリッシュさんから見たテラーさんの演奏評が次だ。「私は、技術の欠けているところを天性の音楽性と、純粋な意思の力で置き代えたテラーのピアノ演奏も好きで、称賛していた(pp.217-218)」

テラーさんの行動を決める原体験を解説した箇所が次だ。「テラーは故郷のハンガリーが共産主義者に占領されるのを見て以来、狂信的な反共主義者となり、共産主義者との闘争を不可避のものと思いこんで、アメリカはそのために武装すべきだと強く信じていた。ウランまたはプルトニウムの核分裂の力を利用する原子爆弾は、テラーにとっては、ほんの始まりだった(p.218)」

パイエルス本:ロスアラモスの研究所でテラーさんは流体力学グループのリーダーを務めるはずだった。しかしテラーさんは、ウランやプルトニウムを使った原爆では威力がまだ物足りなかった。もっと強力な水素爆弾の開発を主張。「爆発波と衝撃波の安定性に関する理論面の考察については、理論家のグループである『流体力学グループ』が対応した。このグループはエドワード・テラーが指導者のはずだったが、テラーは長期的な課題である後の水素爆弾、当時の『スーパー』の研究に専念したいと主張した(p.300)」
結局、流体力学グループのリーダーはテラーさんに代わってパイエルスさんになった。

パイエルスさんによるテラーさんの能力評とピアノ評が次。「スーパーの開発はまさにテラーの性格に合致したものだった。テラーの思考はこつこつと努力する同僚たちの考えをしばしば飛び越した。テラーの思考は常に独創的であり、多くの場合に輝かしいものだったが、必ずしも現実的であり時宜を得たものとは言えなかった。(中略)仕事を離れるとテラーは繊細で情熱的なピアニストだった(pp.300-301)」

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Teller
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.
ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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