パウリさんの助手になったとき「本当はベーテがよかった」と言われた(ビクター・ワイスコップさん):アルケーを知りたい(371)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

▼今回は、ビクター・ワイスコップさん。ワイスコップさんは、フリッシュさんの同級生の弟で、物理学を知りたがる少年だった。パイエルスさんとは大人になってからの付き合い。パウリさんの助手になると決まったとき、パウリさんの辛辣さが不安になったワイスコップさんはパウリさんの下で働いた経験のあるパイエルスさんに様子を聞いた。しかし実際にパウリさんに会うと、のっけから「本当はベーテがよかった」と言われた。ワイスコップさんのせっかくの予習もパウリさんには通用しなかった。

フリッシュ本:ワイスコップさんの写真が出ている。そのキャプションが次。「ビクター・F・ワイスコップ オーストリア生まれの理論物理学者で、今はMITを引退している。彼の偉大な経歴には、ジュネーブのCERN(原子力研究のヨーロッパのセンター)の所長を数年間務めたことも含まれている(p.193)」

フリッシュさんがウィーンで高校生か大学生だった時の話。「ビッキー・ワイスコップは何年も前から知っていた。ビッキーの兄は私と一緒の学校に通っていたことがあり、あるとき、弟が、自分には答えられない物理学の質問をたくさんするので、と言って、私をお茶に誘った。ビッキーより二歳年上だったので、私は、その当時、いくつかのビッキーの質問に答えられた。そのときが、ビッキーより私の方が物理学を知っていると感じられた最後の時だった(p.193)」

パイエルス本:パイエルスさんとワイスコップさんとの人間関係は、若い時代から引退したあとまで続いた。本にも3回、写真が出ている。ロスアラモスで多くの旧友と会う場面でのワイスコップさんのスケッチが次。「魅力的なデンマーク人の妻のエレンを連れたビクター・ワイスコップとは、さまざまな場面で会っていた(p.288)」

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Weisskopf
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.
ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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