失敗すると『チーズス・クライスト』と怒鳴る人(ハンス・スタウブさん):アルケーを知りたい(379)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

ハンス・スタウブさん(35)はブルーノ・ロッシさん(前回紹介)とロスアラモスで検出器グループ(Detector Group)を率いた二人リーダーの一人。ナチスから逃れて渡米したスイス人の物理学者。アメリカに来ても「私の思うところでは、ヒトラーはロッキー山脈の東側をことごとく手に入れることができる(p.237)」と表明していた。しかし、WWIIが終わって4年経過するとスイスに戻り停年まで教授職についている。

ハンス・スタウブ Hans H. Staub, 1908-1983 スイスで博士号取得(指導教員は、Paul Scherrer先生)。1937(29)Cal Tech。1938(30)スタンフォード大学でブロッホさんと共に中性子発生用のサイクロトロンを建設。1942(34)マンハッタン計画に参加。1943(35)ロスアラモス研究所。1946(38)スタンフォード大学に戻る。1949-78(41-70)チューリッヒ大学で教授。

フリッシュ本:WWIIが終わり、ロスアラモスを出るときに前回のスタウブさんが再び登場する。フリッシュさんは、ロスアラモスからパロアルトまでスタウブさんを乗せて車を運転する。フリッシュさんはスタウブさんの家に2週間滞在し、著書の執筆に専念する。「イタリア人のブルーノ・ロッシと共同のグループリーダーだったスイス人のハンス・スタウブが、パロアルトにある彼の家へ来ないかと誘ってくれたのだ。スタウブはスタンフォード大学の教授で、カリフォルニアにとても愛着を感じており、カリフォルニアがアメリカで人間が住める唯一の場所だと思っていた。誰もが驚いたことに、給料がだいたい二倍くらいでシカゴの教授の職を提供されたのに、スタウブは拒んでしまった(p.237)」
この時期のスタンフォード大学は、いまのような輝かしい存在ではなかった。工学部長に後に「シリコンバレーの父」と呼ばれるフレデリック・ターマンさんが就任し、教え子のベンチャーが成長し始めて、さあ、これからというタイミングだった。

〔参考〕https://www.wrd.ch/triboni/store/13_Forschung_Entwicklung_Trueb_Taeuber.pdf?mthd=get&name=wrd_store1&sign=rXyM8a6YFKTDhmilGiJYXw%3D%3D&id=hyuemmxdhaaaaaaablpy&fmt=application%2Fpdf
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.
ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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