ガリレオと落体の法則:アルケーを知りたい(521)

今回の話題は(A)物理学。

▼今回はガリレオ。タイトルに落体の法則を入れたのは、いま種本にしている理科年表に従ったから(p.583)。落体の法則についてはこれまでやっているのでスルー。今回は、ガリレオの時代に注目した。

▼下記「ネットワーク見取り図」では、左側にガリレオに至るまで地動説を唱えた人を縦に並べ、右側に同時代人を並べた。ヨーロッパから船で東方に乗り出した面々と日本人をピックアップした。

▼こうやって表にすると知りたいことが浮かんでくる。
・ガリレオはどうやって収入を得ていたのだろう、とか。
・ガリレオの親父Vincenzoはミュージシャンで理論家だ。この親父の下で育ったのがガリレオには幸いだった、とか。
・80年戦争でスペインと戦っていたオランダ総督ナッサウを軍学連携で支えたシモン・ステヴィンは音楽理論でVincenzoを参考にしている。イタリアとオランダの間も、情報がしっかり流れていた。
・デカルトはガリレオが異端裁判にかけられたことを知って出版を見送った。デカルトは時流に敏感だ。しかし、その割にはスウェーデンの女王から招きがあったとき、女王から冬を避けるようにと言われていたのに10月に行くとか、何を考えているのか分からないところがある。
・ガリレオ時代の船は帆船で、いろんなタイプがある。荷物はたくさん運びたい、でも海賊と戦うので大砲もしっかり搭載、設計には課税対策も織り込む(デッキの面積に税金がかかるから狭くして胴体を膨らませて体積を稼ぐ)など当時の多様なニーズに応える必要があった。
・多大なリスクを背負いながらヨーロッパ人が日本を往復したモチベーションはいったい何だったのだろう。他国との競争、自国の経済と軍事優位性の確保、キリスト教の布教、富の獲得、名声、ヨーロッパにはない産物の輸入、奴隷、ほかに何があるだろう。
・ガリレオが望遠鏡を作ったのはオランダで望遠鏡が発明された話を聞いたから。オランダにはレンズ磨きの技術があった。レンズにはガラスが必要。ヴェネチアのガラスが使われたか関わっていたようで、ここでもオランダとイタリアの情報の流れがある。

▼スペイン-日本の関係もある。支倉常長がローマ教皇に謁見してローマ市民と貴族になったのが1615年この年、ガリレオは地動説のことでドミニコ会修道士と論争になっている。翌年、ローマ教皇庁から地動説を唱えないようガリレオにイエローカードが出る。支倉とガリレオは距離的にも近いところにいたので、お互いの話を聞いていた可能性がある。こんど支倉焼を食べる機会があれば、味わいが違ってきそう。

ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei 1564 - 1642 
ガリレオのキャッチコピーは「近代科学の父」「天文学の父」。親父譲りで、仮説を実験で確認する手法を取っていたから。
【時代環境】オランダとスペインの間で80年戦争(1568 - 1648)、スペインとイングランドの間で英西戦争(1585 - 1604)、ヨーロッパでは30年戦争(1618 - 1648)。日本では1609年、難破して日本で救助されたスペイン人にウィリアム・アダムスが建造したガレオン船を徳川家康が提供し、帰国させる。これを機に日本とスペインの交流が始まる。日本からは支倉常長一行がスペインを訪問、洗礼を受ける。1620年に帰国したときは日本はキリスト教は禁止となっていた。ガリレイが亡くなった年にニュートンが生まれている。
【教育】ピサ大学で医学を学ぶも資金が続かず中退
【職業】ピサ大学で数学講師、パドヴァ大学で数学と天文学の教授
【業績】1604年、落体の運動法則。1609年、オランダで発明された望遠鏡の話を聞いてガリレオ式望遠鏡を製作。月面のクレーター、太陽の黒点を発見。『星界の報告』(1610)、『天文対話』(1632)
【ネットワーク】
ヨハネス・ケプラー 1571 - 1630 ドイツの天文学者。
ルネ・デカルト 1596- 1650 フランスの哲学者・数学者。地動説を唱えるガリレオが異端審問を受けたのを知り自著『宇宙論(世界論)』出版を見送る。
エヴァンジェリスタ・トリチェリ 1608 - 1647 イタリアの物理学者。ガリレオの口述筆記で『新科学対話』(1638)の発表を手伝った弟子。

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〔参考〕
『理科年表2022』
https://en.wikipedia.org/wiki/Galileo_Galilei

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