下河辺 長流~定型詩でアルケーを知りたい(869)

今回は和歌。

月かげに夜わたる雁のつらみても 我が数たらぬ友ぞかなしき
感想 この歌はこう解釈した。月夜に雁の一団が飛行している。それを見ていると自分の友が亡くなって我われの一団からいなくなったのは悲しいことだ、と。

下河辺 長流 しもこうべ ちょうりゅう  歌人・和学者 国学の先駆者
【プロフィール】
1627(寛永4)年?月?日、奈良県生まれ。
 少年時代は遊猟に熱中。叔父の諫めで歌学に専心。
1647(18) 木下勝俊に私淑。
1650(21) 俳諧連歌の祖、西山宗因に連歌を学ぶ。
1655(26) 三条西家に武士として仕える(青侍)。
1661-1669(32-40) 『万葉集』を書写。注釈書『歌仙抄』『万葉集名寄』『万葉集管見』を発表。
1670(41) 三条西家を辞し、平民の歌を主体とする私撰集『林葉累塵集』20巻を刊行。
1678(49)『林葉累塵集』の続編『萍水和歌集』20巻を刊行。
 徳川光圀が『万葉集』の注釈を依頼。途中で病没。契沖が継承。
1686(貞享3)年7月22日、病気のため死去。59歳。
 花も根にかへるを見てぞ木のもとに われも家路は思ひいでける

【キーワードと感想】
万葉集 日本最古の和歌集

【ネットワーク】
木下 勝俊 きのした かつとし 1569(永禄12)年 - 1649(慶安2)年7月24日 武将、大名、歌人。 あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな ▼勝俊は、1647年、18歳の長流が私淑した歌人。同年、78歳の勝俊は剃髪して京都東山で挙白堂を結び、長嘯子と号していた。

西山 宗因 にしやま そういん 1605(慶長10)年 - 1682(天和2)年5月5日 俳人・連歌師。談林派。芭蕉は宗因について「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と位置づけている。さればここに談林の木あり梅の花 ▼長流が宗因の弟子になったのは21歳。宗因45歳。

徳川 光圀 とくがわ みつくに 1628(寛永5)年7月11日 - 1701(元禄13)年1月14日 大名・常陸水戸藩の第2代藩主。水戸黄門。荒磯の岩にくだけてちる月を一つになしてかへる波かな ▼1678年、光圀は長流に『万葉集』の注釈を依頼。光圀50歳、長流49歳。

契 沖 けいちゅう 1640(寛永17)年 - 1701(元禄14)年1月25日 真言宗の僧・国学者。和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉 ▼光圀が長流に頼んだ『万葉集』の注釈本プロジェクトは、長流の死後、契沖が引継ぎ『万葉代匠記』として完成させた。タイトルの代匠に契沖の長流に対する配慮がある。

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〔参考〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E9%95%B7%E6%B5%81

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