藤原 俊成~百人一首でアルケーを知りたい(952)

よのなかよ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 83
感想 この世から逃れる道などない、どこに行っても同じ、の意。90歳で大往生の藤原俊成のお言葉。

藤原 俊成 / 皇太后宮大夫俊成 ふじわら の としなり 
1114永久2年 - 1204元久元年12月22日 90歳。
 平安時代後期~鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原俊忠の子。
 後鳥羽院の評:たかくすみたるを先として艶なるさまもあり。やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき。

1124(10) 父俊忠が死去。義兄の後見を得て国司を歴任。
1131-35(17-21) 岳父為忠主催の「為忠家百首」に出詠。
1138(24) 藤原基俊に師事。
1140-41(26-27) 「述懐百首」発表。不遇の悲嘆や出家への迷いを歌う。
1150(36) 崇徳天皇から「久安百首」に詠進の声がかかる。
1156(42) 保元の乱。崇徳院歌壇が崩壊。
1167(53) 公卿。
1176(62) 出家。
1178(64) 九条兼実と初会談、九条家歌壇の師となる。
1188(74) 後白河院に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。
1201(87) 和歌所寄人。
1202(88)「千五百番歌合」で判者。
1203(89) 後鳥羽院より九十賀宴を賜る。
1204(90) 「祇園社百首」「春日社歌合」に出詠。
 夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里

【キーワードと感想】
保元の乱 ほうげんのらん。1156年7月に起こった政変。後白河天皇+藤原忠通vs崇徳上皇+藤原頼長。結果、後白河天皇方の勝利。頼長は戦死、崇徳上皇は讃岐に配流。「武者の世」の始まり。

【ネットワーク】
藤原 基俊 ふじわら の もととし 1060康平3年 - 1142永治2年2月13日 平安時代後期の公家・歌人・書家。俊成の師匠。百人一首75:ちぎりおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

崇徳天皇 すとくてんのう 1119元永2年7月7日 - 1164長寛2年9月14日 第75代天皇。鳥羽天皇の第一皇子。崇徳院。百人一首77:瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

九条 兼実 くじょう かねざね 1149久安5年 - 1207建永2年5月3日 平安時代末期~鎌倉時代初期の公卿。藤原忠通の六男。有職故実に通暁。

後白河天皇 ごしらかわてんのう 1127大治2年10月18日 - 1192建久3年4月26日 第77代天皇。在位: 1155久寿2年8月23日 - 1158保元3年9月5日。鳥羽天皇の第四皇子。

後鳥羽天皇 ごとばてんのう 1180治承4年8月6日 - 1239延応元年3月28日 第82代天皇。在位:1183寿永2年9月8日 - 1198建久9年2月18日。後鳥羽院。百人一首99:人も惜し 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

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〔参考〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html#VR

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