九条良経と承久の乱~アルケーを知りたい(987)

九条良経は、百人一首91番歌「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに ころもかたしき ひとりかも寝む」の作者。本シリーズの957回に登場した人物。
▼1221年の承久の乱は、良経が死去して15年も後の話。勤務先の朝廷は、後鳥羽天皇、土御門天皇の時期。一方、鎌倉幕府は初代鎌倉殿から三代の時期。
▼残念なのは37歳という年齢で急死したこと。
▼「くにかはるさかひいくたびこえすぎて おほくの民に面なれぬらむ」や「はるの田に心をつくる民もみな おりたちてのみ世をぞいとなむ」を見ると現場に足を運んだ行政マンであったことが伝わる。

九条 良経 / 後京極摂政前太政大臣 くじょう よしつね 
1169仁安4年3月 - 1206元久3年4月16日 37歳。
 平安時代末期~鎌倉時代初期の公卿・歌人。
 九条兼実の次男。叔父が慈円藤原俊成が和歌の師匠。
 和歌・書道・漢詩に優れた教養人。
 後鳥羽院の評価:秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし

1179(10) 元服。従五位上。1185(16) 従三位。
1190(21) 『花月百首』を主催。1191(22) 『十題百首』を主催。1193(24) 『六百番歌合』を主催。
1195(26) 内大臣。
1196(27) 父・兼実が源通親から朝廷を追放される。良経は蟄居。
1198(28) 後鳥羽天皇が上皇になり、土御門天皇が第83代天皇に即位。
1199(30) 朝廷に復帰、左大臣。源頼朝死去。頼家が第二代鎌倉殿。
1200(31) 『院初度百首』で91番を詠む。
1201(32) 後鳥羽上皇が和歌所設置、寄人筆頭。
 『新古今和歌集』の編集メンバー。仮名序を担当。
 上皇主催『老若五十首』に参加。
 上皇主催『千五百番歌合』で判者。
1202(33) 父・兼実が出家、通親が急死。後鳥羽上皇が治天の君となる。
 上皇主催『水無瀬殿恋十五首歌合』、1204(34)『春日社歌合』『北野宮歌合』に参加。
1203(34) 土御門天皇の摂政。
1204(35) 従一位・太政大臣。源頼家が死去。実朝が第三代鎌倉殿。
1206(37) 自邸で『曲水の宴』を開催する準備中、急死。

九条良経の和歌と*勝手に解釈
もろともにいでし空こそわすられね 都の山のありあけの月
*皆で外に出て眺めた空が忘れられない。都の山に有明の月が出ていた。

わすれじとちぎりていでしおもかげは 見ゆらむものをふるさとの月
*忘れないよと約束していた面影を古里の月に見た。

くにかはるさかひいくたびこえすぎて おほくの民に面なれぬらむ
*国境を何度も越えたので、多くの民に顔を覚えられている。

ふるさとは浅茅がすゑになりはてて 月にのこれる人のおもかげ
*古里は浅茅がたくさん生い茂って寂れた。それでも月を見ると人の面影が感じられる。

はるの田に心をつくる民もみな おりたちてのみ世をぞいとなむ
*春になると民が田に出て米作りに励んでいる。これが世を営んでいる姿じゃ。

うきしづみこむ世はさてもいかにぞと 心に問ひてこたへかねぬる
*浮き沈みの激しいこの世とはどんなものかと自問しても答えは出ないわ。

あまのとをおしあけがたの雲まより 神代の月のかげぞのこれる
*天の戸を押し開けたような明け方だ。雲間から神代からの月が見える。

わかの浦のちぎりもふかしもしほ草 しづまむ世々をすくへとぞ思ふ
*和歌の浦と縁の深い藻塩草よ、いっこうに鎮まらないこの世を救ってくれと思う。

家に百首歌よみ侍りける時、十界の心をよみ侍りけるに、縁覚の心を
おく山にひとりうき世はさとりにき つねなきいろを風にながめて
*奥山に来て一人で浮世について考察した。風に悟りを求めて。

みし夢の春のわかれのかなしきは ながきねぶりのさむときくまで
*夢で見た春の別れの悲しさは、長い眠りが覚める時までのこと。

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〔参考〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%89%AF%E7%B5%8C
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositune.html#VR

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