山上憶良の万葉集886-891番歌~アルケーを知りたい(1138)

▼前回の麻田陽春が詠った熊凝の2首に続いて、山上憶良が和した前書きつきの6首。
▼序と886番の長歌で事情が分かる。そのおかげで志なかばで倒れた熊凝の心情、申し訳なさ、無念さが伝わってくる。

 熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首 幷せて序
   筑前国司山上憶良
大伴君熊凝は、肥後の国益城の郡の人なり。
年十八歳にして、天平三年の六月の十七日をもちて、相撲使某国司官位姓名の従人となり、都に参ゐ向ふ。
天に幸(さき)はひせらえず、路に在りて疾を獲、すなはち安芸の国佐伯の郡高庭の駅家にして身故(みまか)りぬ。
臨終(みまか)る時に、長嘆息して曰はく、「伝え聞くに、『仮合の身は滅びやすく、泡沫の命は駐めかたし』と。このゆゑに、千聖もすでに去り、百賢も留まらず。
いはむや凡愚の微しき者、いかにしてかよく逃れ避(さ)らむ。
ただし、我が老いたる親、ともに庵室に在す。
我を待ちて日を過ぐさば、おのづからに傷心の恨みあらむ、我れを望みて時に違はば、かならず喪明の泣を致さむ。
哀しきかも我が父、痛きかも我が母。
一身の死に向ふ途は患へず、ただ二親の生に在す苦しびを悲しぶるのみ。
今日長(とこしへ)に別れなば、いづれの世にか覲(まみ)ゆること得む」といふ。
すなはち歌六首を作りて死ぬ。
その歌に曰はく、

うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉桙の 道の隈みに 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父取り見まし 家にあらば 母取り見まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ <一には「我が世過ぎなむ」といふ> 万886
*輝かしい都に上れるのだと母の元を離れ、見たことのないたくさんの国や山を通り過ぎながらいつごろ都を見られるのだろうと仲間と語りあっていたのだが、体の具合が悪くなり道中で伏してしまった。国にいれば父が心配してくれるだろう、家にいれば母が介抱してくれるだろうけれども、世の中はうまくいかないものだ。犬のように道に倒れて一生を終えるとは。

たらちしの母が目見ずておほほしく いづち向きてか我が別るらむ 万887
*母の顔も見られず心晴れないまま、いったいどちらの方向を向いて別れを言うのか。

常知らぬ道の長手をくれくれと いかにか行かむ糧(かりて)はなしに <一には「干飯(かれひ)はなしに」といふ> 万888
*見たことのない長い道中をどうやって食料もないのにとぼとぼ進んでいけるだろうか。

家にありて母が取り見ば慰むる 心はあらまし死なば死ぬとも <一には「後は死ぬとも」といふ> 万889
*家にいれば母が私の様子を見て心配してくれる。そうであれば死んでしまうにしても心の慰めになる。

出でて行きし日を数へつつ今日今日と 我を待たすらむ父母らはも <一には「母が悲しさ」といふ> 万890
*私を待つ父母は、私が旅に出てからの日数を数えながら今日には帰ってくるかも知れない、と毎日待っていることだろう。

一世(ひとよ)にはふたたび見えぬ父母を 置きてや長く我が別れなむ <一には「相別れなむ」といふ> 万891
*この世では再び会えない父と母を残して私だけが別れ去っていかねばならないのか。

【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。大伴 熊凝 おおとも の くまごり 714 - 731 奈良時代の地方官吏。731年に国司の従人として肥後国益城郡から上京する途上で病死。万886-891














〔参考〕
伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

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