万葉集巻5-6番歌(霞立つ長き春日の)~アルケーを知りたい(1234)

▼今回の長歌は天皇の行幸に同行した軍王が、山を見て詠ったもの。面白いのは、短歌の後の注釈(これは大伴家持の仕事らしい)。「天皇が讃岐の国に行幸した記録はない」「軍王が誰かも分からない」という。ただし「山上憶良の『類聚歌林には天皇が伊予の温湯に出かけた記録がある」という。
類聚歌林は残念ながら散逸して今はない。ないことだらけなので、確認できないことが多い。確かなのは、軍王が山を見て作った長歌と短歌が残っていること。5番と6番の歌が出来た661年は、憶良が1歳でほぼ同時代ということ。憶良の名前が出てくるとなぜかほっとする。
 
 讃岐の国の安益の郡に幸す時に、軍王(こにきしのおほきみ)が山を見て作る歌
霞立つ 長き春日の 
暮れにける わづきも知らず
むらきもの 心を痛み 
ぬえこ鳥 うら泣き居れば 
玉たすき 懸けのよろしく 
遠つ神 我が大君の 
行幸の 山越す風の 
ひとり居る 我が衣手に 
朝夕に 返らひぬれば 
ますらをと 思へる我れも 
草枕 旅にしあれば 
思ひ遣る たづきを知らに 
網の浦の 海人娘子らが 
焼く塩の 思ひぞ焼くる 
我が下心 万葉5
*出張先で鳥の悲しげな鳴き声を聞いて里心がわき、自分では一人前の男子と思っているのだけれど、網の浦で海人娘子が塩を焼くように私の心も故郷を思い焦がれる。

 反歌
山越しの風を時じみ寝る夜おちず 家にある妹を懸けて偲ひつ 万葉6
*山から吹く風のせいで夜熟睡できず、家で待っている妻のことを考えて過ごす。
 右は、日本書紀に検すに、讃岐の国に幸すことなし。
また、軍王もいまだ詳らかにあらず。
ただし、山上憶良大夫が類聚歌林に曰はく、「紀には『天皇の十一年己亥の冬の十二月己巳の朔の壬午に、伊予の温湯の宮に幸す云々』といふ。
一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。
この二つの樹に斑鳩と比米との二つの鳥いたく集く。
時に勅して多に稲穂を掛けてこれを養はしめたまふ。
すなはち作る歌云々』といふ」と。
けだし、ここよりすなはち幸すか。

【似顔絵サロン】山上 憶良 やまのうえの おくら 660 - 733 奈良時代初期の貴族・歌人。726年、筑前守。728年、大宰帥の大伴旅人と筑紫歌壇を形成。














〔参考〕
伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

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