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顕微鏡をめぐる人々②~レーウェンフック:アルケーを知りたい(526)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼ 今回も顕微鏡の話題。オランダの織物商、役人のレーウェンフックという人物に着目する。レーウェンフックは、 織物商という職業柄、布地の状態を詳細に知るためレンズを使っていた 。性能の良いレンズが必要だったので、自作した。それで布地だけなく微生物を観察するようになった。見たものを正確にスケッチし研究するようになった。それを見た友達がレーウェンフックの研究成果を ロンドン王立協会 に紹介し人の知るところになった。 ▼レーウェンフックの注目ポイント。 ・ 高性能レンズの作り方 を飽くことなく追求した。 ・最高性能レンズはマル秘にし、見学者には二番手のレンズを見せる知恵。 ・ 顕微鏡も自作 、微生物を観察、スケッチを記録、報告する活動スタイル。 ・フェルメールと同じ年生まれ。絵のモデルになり、死後は遺産管財人になったというエピソード。 アントーニ・ファン・レーウェンフック  Antonie van Leeuwenhoek 1632 - 1723 【教育】16歳まで地元デルフトの学校に通学。卒業後、 アムステルダムの織物商で6年間務めて事業を学ぶ。22歳でデルフトに戻り 織物商を起業 。 【職業】織物商、デルフト市の役人(議会の管理官、測量士、ワインの輸入と課税担当管)。 【業績】1674、史上初、顕微鏡で微生物を観察し、論文にした「 微生物学の父 」。自分で作ったレンズは500以上(製造法は部外秘)、そのレンズを使って作った顕微鏡の数は25台。倍率は275~500倍。 【ネットワーク】 コンスタンティン・ホイヘンス  Constantijn Huygens 1596 – 1687 オランダの詩人、作曲家。 レーウェンフックの仕事をロバート・フックに紹介した人物 。ガリレオ・ガリレイの友達。クリスティアーン・ホイヘンスの父親。 ロバート・フック  Robert Hooke 1635 - 1703 イギリスの博物学者。1660設立のロンドン王立協会で実験担当者。後、事務局長、フェロー。 レーウェンフックの仕事を高く評価 。自らも顕微鏡で観察し『顕微鏡図譜』(1665)を発表した。ばねのフックの法則で有名。 ライネル・デ・グラーフ  Reinier de Graaf  1641 – 1673 オランダの医師、解剖学者。レーウェンフックの友達。1673、

顕微鏡をめぐる人々~フェデリコ・チェージ:アルケーを知りたい(525)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼前回は望遠鏡だったので、今回は顕微鏡。顕微鏡の発明は、1590年、オランダのサハリアス・ヤンセンとされている。ヤンセンについては詳しい話が分からないので、ここでは同時期のイタリアでブイブイやっていた若者らに着目。 ▼当時は、自然現象を実験や観察で解明しようとする活動は危険視されていたようだ。それでもやるのが若者で、そのリーダーが裕福な貴族 フェデリコ・チェージ 。ガリレオの著作のうち2冊が世に出たのはチェージの功績。 ガリレオも感謝の意を込めてチェージに顕微鏡をプレゼントした 、という話。 ▼ フェデリコ・チェージ  Federico Angelo Cesi 1585 - 1630 ガリレオを尊敬し応援したイタリアの博物学者 【教育】家庭教師 【職業】貴族 【業績】1603、友人と 自然科学の研究学会 「 アッカデーミア・デイ・リンチェイ 」 を設立 。山猫学会の意味。ヤマネコは視力が鋭いから。 1613、 ガリレオの著作『太陽黒点論』を出版 。 1623、 ガリレオの著作『偽金鑑識官』を出版 。 【ネットワーク】 コルネリウス・ドレベル  Cornelis Drebbel  1572 - 1633 オランダの発明家。1619、 望遠鏡と顕微鏡を設計・製作 。翌1620、人力で進む潜水艇を開発(デモを見た海軍は採用せず)。 ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ  Giambattista della Porta 1535 - 1615 ナポリの博学者、医師。1610、 アッカデーミア・デイ・リンチェイナポリ支部の会員 。 ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei 1564 - 1642 1911、チェージが設立したアッカデーミア・デイ・リンチェイの会員になる。1624、 チェージにドレベル式顕微鏡をプレゼント する。 フランチェスコ・ステルッティ  Francesco Stelluti 1577 - 1652 イタリアの博物学者。アッカデーミア・デイ・リンチェイの創立メンバー。 顕微鏡でハチを観察 した研究を発表した。 サハリアス・ヤンセン  Sacharias Janssen 1580 - 1638 オランダのガラス職人。1590、 顕微鏡の原型を発明 したとされる人物。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 ht

望遠鏡をめぐる人々~リッペルハイたち:アルケーを知りたい(524)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼望遠鏡が発明・普及したのは1600年前後のこと。望遠鏡はレンズが命。レンズはガラスで作る。その ガラスを作る技術はヴェネチア にあった。ヴェネチアではガラス技術を門外不出にしていた。しかし、秘密は漏れるもの。 やがてオランダで高品質ガラスが作られる ようになる。 ▼オランダでレンズ製作者だったリッペルハイが望遠鏡を発明した、という話だ。でも、子供でもレンズで遊んでいれば遠くのものが大きく見えるのに気がつく。1608年にリッペルハイは特許を申請したものの、認定されなかった。とはいえ、今となっては、 リッペルハイが望遠鏡発明の象徴的人物 である。 ▼ リッペルスハイという呼称も出てくる。 『理科年表2022』は、リッペルスハイ(Lippershey)になっている。Wikipediaによると「1831年の英訳時にタイプミスされたものが誤って世に広まったもの」という 。人名は綴り間違いが起きやすい。 ▼今日の人物 望遠鏡の特許を出願したことで望遠鏡の発明者になった ハンス・リッペルハイ  Hans Lipperhey 1570 - 1619 オランダのレンズ製作者。1608、望遠鏡を発明(したとされる)。 双眼望遠鏡、軍用望遠鏡も作った 。 【教育】? 【職業】レンズ製作者 【業績】1608にオランダで望遠鏡の特許を出願 【ネットワーク】 ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei 1564年2月15日 - 1642年1月8日 イタリアの天文学者。1609、オランダで望遠鏡が発明された話を聞いてガリレオ式望遠鏡を製作。ベネチア政府にその効用が評価され報奨金を獲得。 ヨハネス・ケプラー Johannes Kepler 1571 - 1630 ドイツの天文学者。1611、ケプラー式望遠鏡を設計(自分では作ってない)。 ジョン・セーリス  John Saris 1579 - 1643 イギリスの航海士。イギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」の指揮官として日本に来航し徳川家康に謁見。ジェームズ1世からの贈り物として望遠鏡を献上。 ジェームズ・グレゴリー James Gregory  1638 - 1675 スコットランドの天文学者。反射望遠鏡グレゴリー式望遠鏡を発明。1732 - 68の36年間に1,400台を販売。麻田剛立がオランダから

ネイピアの骨のジョン・ネイピア:アルケーを知りたい(523)

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今回の話題は(*)歴史~計算。 ▼人は昔から、計算を速く・正しく行うため道具や機械を使っていた。今回は、「 ネイピアの骨 」のネイピアさん。 ▼ネイピアの骨は、数学史でもコンピュータ史でもマイルストーン。どうして骨で計算できるのだろうか、と思う。でも、これはネーミングの罠。ボードの上で計算用の棒を使い、掛け算、割り算、平方根を出せるというもの。また「骨」からとてつもなく古い時代をイメージしてしまっていたけど、これも間違いだった。 ▼ネイピアの生まれが1550年なので、その近辺に生まれた人を見ると、どんな雰囲気の時代かなんとなくわかる。 例えば、ドレーク船長と徳川家康はネイピアの7つ年上でガリレオは14歳年下。ということは、航海術が発達し、ヨーロッパと日本の交流があり、日欧ともに知力と武力と技術力がモノを言っていた時期。 ネイピアさんは貴族、城主として防衛技術にも長じていた。 ▼今日の人物  ジョン・ネイピア  John Napier 1550 - 1617 スコットランドの貴族、数学者、天文学者 【教育】聖アンドリューズ大学セント・サルヴァトールズ・カレッジ中退、ヨーロッパで教育を受けるためフランスなどを遊学。 【職業】城主 【業績】対数の発見。小数点の導入。 ネイピアの骨の製作 。炭坑の排水装置の発明。 【ネットワーク】 ヨスト・ビュルギ  1558 - 1632 スイスの時計職人、天文機器製作者。ネイピアと別に対数を発見(しかし発表しなかった)。1604-1630の間、ルドルフ2世にプラハに招かれ、 ケプラー の計算係を務めた。 ヘンリー・ブリッグス  1561-1630 イングランドの数学者。ネイピアの対数から常用対数を考案した。ネイピアと直接会って話をしたり手紙のやりとりを重ねた。人柄は誠実、富を求めない人だったという。 エドマンド・ガンター  1581-1626 イングランドの数学者。対数の原理を応用し対数尺を発明した。「ガンター氏のチェーン」で、アルケーを知りたい(503)に登場。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/John_Napier

1500~1600年代の船たち:アルケーを知りたい(522)

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今回の話題は(*)歴史~帆船。 ▼日本で安土-桃山~江戸の時代、ヨーロッパの帆船には、 キャラック、ガレオン、フリュート などのタイプがある。貿易や漂着で日本に来ているし、なんと日本でも造っている。西洋の船乗りは日本の船大工と一緒に船を造れるんかい!と驚く。有名な船と船種をピックアップしてみた。 ▼ サンタ・マリア号 :オーナーはスペインのフアン・デ・ラ・コサという航海士・地図製作者・企業家。3本マスト、大砲10門。1492年、 コロンブスが新大陸の探索に使用したキャラック船 。コロンブスはサンタ・マリア号は動きが鈍いので気に入ってなかったという。キャラック船は、遠洋航海用の船種。 ▼ ゴールデン・ハインド号 :イギリスの私掠船(エリザベス1世のために働いていたので、スペインから見ると海賊船)。排水量305トン、3本マスト、乗員80人、大砲は大小合わせて22門。1580年、 ドレーク船長が世界一周に使用したガレオン船 。ガレオン船はキャラック船の発展型。大型遠洋船の花形。 ▼ リーフデ号 :オーナーはオランダ東インド会社。排水量300トン、3本マスト、乗員100人、大砲18門。1600年、 ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが日本に漂着したフリュート船 。フリュート船は、オランダがガレオン船をベースにして貿易用に改良したタイプ。 ▼ サン・ブエナ・ベントゥーラ号 (日本名は安針丸):オーナーは徳川家康。120トン。家康の指示で ウィリアム・アダムスが指揮して日本人船大工が製造した江戸製ガレオン船 。日本で難破したスペイン人らに、帰国するため家康が提供した。 ▼ サン・ファン・バウティスタ号 (日本名は黒船):オーナーは伊達政宗。500トン。乗員200人。 伊達政宗が 徳川家康の許可を取り、スペイン人貿易商のセバスティアン・ビスカイノに指揮をさせ、仙台藩の船大工が製造した 仙台製ガレオン船 。支倉常長ら慶長遣欧使節の渡航に使用した。 ▼今日の人物  ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン (耶揚子:やようす→八重洲) Jan Joosten van Lodensteyn 1556 - 1623 【教育】? 【職業】リーフデ号の航海士。武士。朱印船貿易商人。 【業績】 八重洲の祖 。 【ネットワーク】ウィリアム・アダムス(三浦按針) 徳川家康(リーフデ号に搭載し

ガリレオと落体の法則:アルケーを知りたい(521)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今回は ガリレオ 。タイトルに落体の法則を入れたのは、いま種本にしている理科年表に従ったから(p.583)。落体の法則についてはこれまでやっているのでスルー。今回は、ガリレオの時代に注目した。 ▼下記「ネットワーク見取り図」では、左側にガリレオに至るまで地動説を唱えた人を縦に並べ、右側に同時代人を並べた。ヨーロッパから船で東方に乗り出した面々と日本人をピックアップした。 ▼こうやって表にすると知りたいことが浮かんでくる。 ・ガリレオはどうやって収入を得ていたのだろう、とか。 ・ガリレオの親父Vincenzoはミュージシャンで理論家だ。この親父の下で育ったのがガリレオには幸いだった、とか。 ・80年戦争でスペインと戦っていたオランダ総督ナッサウを軍学連携で支えたシモン・ステヴィンは音楽理論でVincenzoを参考にしている。イタリアとオランダの間も、情報がしっかり流れていた。 ・デカルトはガリレオが異端裁判にかけられたことを知って出版を見送った。デカルトは時流に敏感だ。しかし、その割にはスウェーデンの女王から招きがあったとき、女王から冬を避けるようにと言われていたのに10月に行くとか、何を考えているのか分からないところがある。 ・ガリレオ時代の船は帆船で、いろんなタイプがある。荷物はたくさん運びたい、でも海賊と戦うので大砲もしっかり搭載、設計には課税対策も織り込む(デッキの面積に税金がかかるから狭くして胴体を膨らませて体積を稼ぐ)など当時の多様なニーズに応える必要があった。 ・多大なリスクを背負いながらヨーロッパ人が日本を往復したモチベーションはいったい何だったのだろう。他国との競争、自国の経済と軍事優位性の確保、キリスト教の布教、富の獲得、名声、ヨーロッパにはない産物の輸入、奴隷、ほかに何があるだろう。 ・ガリレオが望遠鏡を作ったのはオランダで望遠鏡が発明された話を聞いたから。オランダにはレンズ磨きの技術があった。レンズにはガラスが必要。ヴェネチアのガラスが使われたか関わっていたようで、ここでもオランダとイタリアの情報の流れがある。 ▼スペイン-日本の関係もある。 支倉常長がローマ教皇に謁見してローマ市民と貴族になったのが1615年 。 この年、ガリレオは地動説のことでドミニコ会修道士と論争 になっている。翌年、ローマ教皇庁から地動説を

起磁力単位ギルバート Gb のもと、ウィリアム・ギルバート:アルケーを知りたい(520)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今回は、起磁力単位ギルバート Gb の基になったウィリアム・ギルバート。1500年代後半、イギリスの医師で物理学者。 ▼ この人がすごいのは、仮説を確かめるため、オリジナルで実験装置や計測装置を作ったところ だ。それで 電気計測機器の祖 とか、 電気工学や電気・磁気の父 と称される。 ▼医師をしながら20年以上にわたって磁気の研究を続けた。コペルニクスの地動説の支持者。アリストテレス哲学とスコラ学には反対の立場。 【 時代環境 】エリザベス1世の支援で ドレーク 船長 が1580年、世界一周を達成。その後、ドレーク船長指揮のもとイギリス艦隊はスペイン無敵艦隊と勝負をつける。 ウィリアム・アダムズ は 日本に来る前、 ドレーク船長指揮の下、補給船の船長として無敵艦隊との海戦(1588年、アルマダの海戦) に参戦している。この時期の日本の状況は次。1600年の 関ヶ原の戦いで豊臣側が負け、徳川側が勝利。この年に リーフデ号 で日本に漂着した ウィリアム・アダムス は徳川家康に会った。家康は事前に受けていたイエズス会士の情報から当初リーフデ号を海賊船と認識していた。しかし、ウィリアム・アダムズは家康にオランダ~イングランドのプロテスタント勢とポルトガル~スペインのカトリック勢が対立している現状を説明。これにより家康はヨーロッパ情勢の認識を修正した。 ウィリアム・ギルバート  William Gilbert 1544 - 1603 【教育】ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ卒業、医学博士 【職業】医師。王立内科大学のフェロー、学長。エリザベス1世、ジェームズ1世の侍医 【業績】静電気の測定のため検電器versoriumを発明、電気計測機器の祖。 『De Magnete:磁石及び磁性体ならびに大磁石としての地球の生理』(1600)地球の中心が鉄。磁石は分割してもN極とS極がある、と指摘。 【ネットワーク】 コペルニクス 1473 - 1543 ポーランドの天文学者。地動説 ティコ・ブラーエ  1546 - 1601 デンマークの天文学者。 フランシス・ベーコン  1561 - 1626 イギリスの哲学者。ギルバートの地球の日周運動説に批判的 ガリレオ・ガリレイ 1564 - 1642 イタリアの物理学者。地球は自転すると考えた。ギルバート