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飯田 蛇笏~定型詩でアルケーを知りたい(826)

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  今回は俳句。 ▼ たましひの たとへば秋の ほたるかな 感想 芥川龍之介を追悼して詠んだ句。 ▼ 飯田 蛇笏  いいだ だこつ 俳人。 【プロフィール】 1885(明治18)年4月26日、山梨県生まれ。父親は旧家の大地主。 1890(5) 俳諧が盛んな境川小学校に入学。句作を開始。 1903(18) 甲府一高を中退。上京し京北高に編入。 1905-09(20-24) 早稲田大学英文科。 ホトトギス に投句開始。 1909(24) 帰郷し家業の農業や養蚕に従事。 1917-45(32-60) 俳句誌『雲母』主宰。 1930(45) をりとりて はらりとおもき すすきかな 『山廬集』 1933(48) くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり 『霊芝』 1941(56) 次男・數馬が病死。 1944(59) 長男・聡一郎がレイテ島で戦死。 1945(60) 三男・麗三が外蒙古で戦死。 1946(61) 『雲母』再開。 四男 の 龍太 が協力。 1962(77) 誰彼も あらず一天 自尊の秋 1962(昭和37)年10月3日、境川の自宅で死去。77歳。 【キーワードと感想】 四男 龍太 がいてくれて良かった 【ネットワーク】 芥川龍之介  あくたがわ りゅうのすけ 1892(明治25)年3月1日 - 1927(昭和2)年7月24日 小説家。▼蛇笏と交流があった。 青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか 飯田 龍太  いいだ りゅうた 1920(大正9)年7月10日 - 2007(平成19)年2月25日 俳人。▼ 父母の亡き 裏口開いて 枯木山 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E8%9B%87%E7%AC%8F

富安 風生~定型詩でアルケーを知りたい(825)

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今回は俳句。 ▼ 何もかも 知つてをるなり かまど猫 感想 猫は寒い時には暖かい場所、暑い時には涼しい場所にいる。猫は何もかも知っているんだ。 ▼ 富安 風生   とみやす ふうせい 俳人。 【プロフィール】 1885(明治18)年4月16日、愛知県豊川市生まれ。 東京帝国大学法科大学卒業。逓信省に入る。喀血で倒れる。 1912(27) 平塚の杏雲堂で喀血後の療養。 1918(34) 福岡為替貯金支局で支局長。 1919(35)  福岡に来た 虚子 と会い師事。『 ホトトギス 』に投句開始。本省に転勤。 1922(38) 秋櫻子 、 瑞穂 、 青邨 、 誓子 らと 東大俳句会を再興 。 1928(44) 逓信省内の俳句誌『若葉』の選者。のち主宰。秋櫻子らと 共に『馬酔木』同人。 1929(45) 『ホトトギス』同人。 1935(51) 逓信次官。 1936(52) 逓信次官の職を辞して引退。 1979(昭和54)年2月22日、死去。94歳。   生くること やうやく楽し 老の春   よろこべば しきりに落つる 木の実かな 【キーワードと感想】 かまど猫   竈猫 。へっついねこ。風生の造語。虚子に認められ竈猫が新季語に登録。 【ネットワーク】 高濱 虛子  たかはま きょし 1874(明治7)年2月22日 - 1959(昭和34)年4月8日 松山出身の俳人・小説家。▼1919年、風声 (35) が 福岡為替貯金支局長のとき、 虚子(45)に出会い師事。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%AE%89%E9%A2%A8%E7%94%9F

山口 青邨~定型詩でアルケーを知りたい(824)

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今回は俳句。 ▼ 祖母山も 傾山も 夕立かな 感想 祖母・傾山は大分県と宮崎県の間にある山。鉱物資源が豊富。学生時代、地学の演習で鉱石採集して歩いたことがある。 ▼ 山口 青邨  やまぐち せいそん  工学博士 ・俳人。 【プロフィール】 1892(明治25)年5月10日、青森県盛岡市生まれ。父親は士族。 1916(24) 東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。古河鉱業に入社。 1918(26) 鉱山省で農商務省技師。 1919(27) シベリア炭鉱を調査。 1921(29) 東京大学工学部で助教授。 1922(30) 虚子 (48) に師事。 秋桜子 (30) 、 瑞穂 、 風生 、 誓子 らと 東大俳句会を再興 。 1927-29(35-37) ベルリン留学。  講演で 「東に秋素の二Sあり、西に青誓の二Sあり」と語る。 ホトトギスの四S。 1929(37) 東京大学工学部で教授。「 ホトトギス 」同人。 1930(38) 俳句誌『夏草』創刊。 1934(42) 東大ホトトギス会を興し学生を指導。 1941(49) 銀杏散る まつただ中に 法科あり 1953(61) 東大教授を定年退職、名誉教授。 1988(昭和63)年12月15日、死去。96歳。 【キーワードと感想】 ホトトギスの四S  水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子 【ネットワーク】 高濱 虛子  たかはま きょし 1874(明治7)年2月22日 - 1959(昭和34)年4月8日 松山出身の俳人・小説家。▼1922年から青邨は虚子に師事。 水原 秋櫻子  みずはら しゅうおうし 1892(明治25)年10月9日 - 1981(昭和56)年7月17日 医師・俳人。▼青邨と秋櫻子は同じ年生まれ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E9%9D%92%E9%82%A8

山口 誓子~定型詩でアルケーを知りたい(823)

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  今回は俳句。 ▼ 海に出て 木枯帰る ところなし 感想 木枯らしは海に出ると帰るところがないんだ。核子出て 中性子帰る ところなし ▼ 山口 誓子  やまぐちせいし 俳人。 【プロフィール】 1901(明治34)年11月3日、京都市生まれ。 1911(10) 母親が死去。 1912(11) 外祖父のいる樺太に移住。 1914(13) 国語教師に俳句の指導を受ける。 1917(16) 帰郷。 1919(18) 京都大学文科乙類に入学。 1920(19) 京大三高俳句会に参加、 句作を開始 。 1921(20) 東京帝国大学法学部に入学。 1922(21) 秋桜子 、 富安風生 、 瑞穂 、 山口青邨 らと 東大俳句会を再興 。 1926(25) 東大法学部卒業。大阪住友合資会社に入社。 1929(28) 『 ホトトギス 』同人。 1935(34) 『ホトトギス』を離れ『馬酔木』に加盟。 1942(41) 住友合資会社を退職し嘱託。 1948(47) 俳句誌『天狼』を創刊。 1957-(58-) 朝日俳壇選者。 1994(平成6)年3月26日、神戸市で死去。93歳。 【キーワードと感想】 いづくにも 虹のかけらを 拾ひ得ず  虹のかけらはどこで拾えるのだろう 【ネットワーク】 富安 風生  とみやす ふうせい 1885(明治18)年4月16日 - 1979(昭和54)年2月22日  俳人 ▼ よろこべば しきりに落つる 木の実かな 山口 青邨  やまぐち せいそん 1892(明治25)年5月10日 - 1988(昭和63)年12月15日  鉱山学者・俳人  ▼ 祖母山も 傾山も 夕立かな 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%AA%93%E5%AD%90

高野 素十~定型詩でアルケーを知りたい(822)

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今回は俳句。 ▼ 餅板の 上に包丁の 柄をとんとん 感想 「柄をとんとん」がかわいい。机の上で絵筆の柄をとんとん ▼ 高野 素十  たかの すじゅう 医師・俳人。 【プロフィール】 1893(明治26)年3月3日、茨城県生まれ。父親は農家。 1918(25) 東京帝国大学医学部卒業。法医学教室に入局。 1923(30) 先輩の 秋櫻子 の勧めで句作開始。 東大俳句会 。 1932(39) 新潟医科大学で助教授。ハイデルベルク大学に留学。 1935(42) 新潟医科大学で法医学教授。同僚が 中田瑞穂 。 1936(43) 医学博士(パラチフス腸炎菌属菌種の鑑別用免疫血清)。 1953(60) 新潟医科大学を定年退官。  奈良県立医科大学で法医学教授。「桐の葉」選者。 1954(61) 大阪毎日俳壇選者。 1957(64) 「桐の葉」の選者を辞し「芹」を創刊・主宰。 1960(67) 奈良県立医科大学を退職。 1976(昭和51)年10月4日、神奈川県の自宅で死去。83歳。  わが星の いづくにあるや 天の川   端居して ただ居る父の 恐ろしき  年酒酌む ふるさと遠き 二人かな   空をゆく 一とかたまりの 花吹雪 【キーワードと感想】 東大医学部 瑞穂も素十も秋櫻子も同じ出身 秋櫻子 俳句を始めたきっかけ。啐啄同時の感あり 【ネットワーク】 水原 秋櫻子  みずはら しゅうおうし 1892年10月9日 - 1981年7月17日 俳人・医師。▼ むさしのの 空真青なる 落葉かな  / 月見草 神の鳥居は 草の中 / 鰭酒(ひれざけ)も 春待つ月も 琥珀色   /  冬菊のまとふはおのがひかりのみ 中田 瑞穂  なかだ みずほ  1893(明治26)年4月24日 - 1975(昭和50年8月18日  脳神経外科医・俳人。 青蛙  ▼ 刻々と 手術は進む 深雪かな /  あたためよ 越後の酒も わろからず /  二た匙の 砂糖沈むや 砂糖水 /  青蛙 こやつ中々 泳ぐなり 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E7%B4%A0%E5%8D%81

中田 瑞穂~定型詩でアルケーを知りたい(821)

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今回は俳句。 ▼ 学問の 静かに雪の 降るは好き 感想 この句ひとつで中田瑞穂の世界が伝わるようだ。 ▼ 中田 瑞穂  なかだ みずほ 脳神経外科医・俳人。 【プロフィール】 1893(明治26)年4月24日、島根県津和野町生まれ。父親は医師。 1913(20) 東京帝国大学医科大学入学。 1917(24) 同医科大学卒業。 1919(26) 同助手。 1922(29) 新潟医科大学で助教授。 秋桜子 、 風生 、 誓子 、 山口青邨 らと 東大俳句会 を再興。 1924-27(31-34) ドイツ留学。米エール大学で クッシング の 脳神経外科手術を観察。 1927-56(34-63) 新潟医科大学で教授。 1956(63) 新潟大学退官、名誉教授。 1975(昭和50年8月18日、新潟市で死去。82歳。  刻々と 手術は進む 深雪かな  あたためよ 越後の酒も わろからず  雲雀の巣 はるかに急ぐ 人のあり  二た匙の 砂糖沈むや 砂糖水  雪蓑の 子が立つ道の まん中に  青蛙 こやつ中々 泳ぐなり 【キーワードと感想】 ・「文学も絵も科学もその根底は全て『観察』、徹底的な『観察』こそが原点であり、出発点なのだ」  クッシングの長時間に渡る手術を最後まで観察したのもこのポリシーだったんだ。 【ネットワーク】 ハーヴェイ・クッシング  Harvey Williams Cushing 1869年4月8日 - 1939年10月7日 アメリカの脳神経外科医。▼中田瑞穂がクッシングの手術を見学。長時間の手術のため途中で次々と見学者が帰っていく中、最後の1人になっても熱心に見学を続けた クッシングはその姿を見て「肩につかまってもよいからよく見なさい」と述べた。 高野 素十  たかの すじゅう 1893(明治26)年3月3日 - 1976(昭和51)年10月4日 俳人・医師。新潟医科大学で 中田瑞穂の 同僚。 くもの糸ひとすぢよぎる百合の前 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E7%91%9E%E7%A9%82

松根 東洋城~定型詩でアルケーを知りたい(820)

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今回は俳句。 ▼ 渋柿の ごときものにては 候へど 感想 大正天皇から俳句について聞かれたときの答え。俳句について俳句で答えてる! ▼ 松根 東洋城  まつね とうようじょう 俳人。 【プロフィール】  1878(明治11)年2月25日、東京の築地生まれ。父親は宇和島藩家老。 1895(17) 松山中学 で 漱石 に英語を学ぶ。漱石を師と仰ぐ。 旧制一高、東京帝国大学を経て京都帝国大学仏法科卒業。 漱石が 子規 を紹介。『 ホトトギス 』に参加。 1906(28) 宮内省で式部官、書記官、会計審査官等を歴任。 1910(32) 公務で修善寺に長期逗留。胃潰瘍の漱石を療養に誘う 。 1914(36) 大正天皇から俳句について聞かれ「 渋柿のごときものにては候へど 」と答える。 1915(37) 俳誌『渋柿』を創刊主宰。 1916(38) 『ホトトギス』から離脱。 1919(36) 宮内省を退官。 1952(74) 隠居。 1964(昭和39)年10月28日、死去。86歳。  のどけさに 寝てしまひけり 草の上  武蔵野は 十一月の 欅(けやき)かな  早稲田の夜 急にしぐれぬ 漱石忌 【キーワードと感想】 漱石 松山中学時代に漱石から英語を習ったんだ 子規 漱石から子規を紹介されたんだ 【ネットワーク】 夏目 漱石   なつめ そうせき 1867年2月9日 - 1916年12月9日 東京出身の小説家・俳人。1910年、東洋城が仕事で長期滞在する伊豆・修善寺に漱石を療養に誘う。43歳の漱石が「修善寺の大患」を起こしたのはこの時。 正岡 子規  まさおか しき 1867(慶応3)年10月14日 - 1902年9月19日 松山出身の俳人。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%A0%B9%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E5%9F%8E