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波 Waves:アルケーを知りたい(385)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今日から第3回学力向上アプリコンテストのエントリー受付です。このブログは学力向上アプリコンテストに付属するブログなので、話題を学校で学ぶ教科から取り上げてきました。これからしばらく 中学の物理ワールドを散策しながら、 先達の蓄積を味わいます。 キーワード、その説明、計算がある場合は、その計算式も見て行きます。 ▼現役生が中学物理を学習するうえで大事な姿勢は、教科書に書いてある説明を素直に受け取ること、です。今はYouTubeにいろんな説明動画があるので、理解の助けになります。それでも腑に落ちないことがあれば、それはきっと自分にとって大事な疑問です。すぐには解決しないかもしれません。そのような場合、教科書の説明や図表は「物理学ゲーム」の「ルール解説」のようなものと解釈し、疑問は いったん保留にして次に進むのが良いと思います。 ▼ 最初は 波 。 【 波 waves】振動が次々と伝わる現象。 ▼「つぎつぎとおしよせるもの(小学館の国語辞典)」 ▼<解字>サンズイ(水)+皮の形成文字。音符の皮は、毛がわの意。毛がわのようになみうつ水、なみの意(新漢語林)。 【 縦波 Longitudinal wave】波の伝わり方のひとつ。波の進行方向と振動方向が同じ波。疎密波。 ▼媒質の振動方向が、波の進行方向と一致する波動。空気中を伝わる音波など。疎密波は縦波の一種(広辞苑第7版) ▼<解字>糸+従の形成文字。音符の従は、たてに人がつきしたがうの意。たて糸の意味から、たての意(新漢語林)。 【 横波 Transverse wave】波の伝わり方のひとつ。波の進行方向と振動方向が垂直である波。 ▼波の進む方向と直角にゆれる波。地震のS波など(小学館の国語辞典) ▼減を振動させたときに生じる波などのように、波動を伝える媒質の各部が波の進む方向に垂直に振動する波動 (広辞苑第7版) ▼<解字>木+黄の形成文字。音符の黄は、腰のよこにつける帯び玉の意。木を付し、よこの意(新漢語林)。 ▼人物:   クリスティアーン・ホイヘンス  Christiaan Huygens 1629年4月14日、オランダのハーグ生まれ - 1695年7月8日、オランダのハーグで死去(66歳)。★史上最高の科学者のひとり  one of the greatest scientist

見せかけだけの機密保護を全く信用しない(ジェームズ・チャドウィックさん):アルケーを知りたい(384)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ チャドウィック さんはこれまで何度もこのブログに登場した人物。想像を絶する世界を経験した人。生き方の軌跡が味わい深い。フリッシュさんとパイエルスさんの本に出てくるチャドウィックさんの描き方が味わい深い。 ジェームズ・チャドウィック  James Chadwick, 1891年10月20日、イングランドのチェシャー州生まれ - 1974年7月24日、イングランドのケンブリッジで死去。 ラザフォード さんの弟子。英国の物理学者。1932(41)中性子を発見。1935(44)ノーベル物理学賞受賞(中性子の発見)。MAUD報告の最終案の執筆者。マンハッタン計画のイギリス代表。 フリッシュ 本:フリッシュさんが初めてチャドウィックさんと会う場面。最初にここを読んだときは、チャドウィックさんが奇妙な人物に思えた。「(サー)ジェームズ・チャドウィック(中性子の発見者)の招きで、初めてリバプールを訪問した時、私はパイエルスと一緒だった。(中略)大学の物理学部で私たちはチャドウィックの部屋に案内された。しばらくすると チャドウィックが入ってきて、自分の机に座り、鳥のように頭を両側に揺らしながら、私たちをじろじろと詮索しはじめた。ちょっと当惑した が、私たちはじっと待っていた。三十秒後に、チャドウィックは「どれくらいヘックスがいるんだね」と言った。 形式的ではなく直接に要点を突くのが彼のやり方だった (pp.164-165)」 WWIIの時期、イギリスにいたフリッシュさんが見たチャドウィックさん。「チャドウィックは、何回も、別の場所の研究者仲間と、物事を議論する機会を与えてくれた。 チャドウィックは、個々の研究者に必要なことしか知らせない、知識の分断化に頼るような見せかけだけの機密保護を全く信用していなかった。彼は、そのような種類の機密保護は仕事を非効率に導くだけであると考えていた (p.177)」 マンハッタン計画のメンバーにフリッシュさんを選んだチャドウィックさんの語り口が面白い。フリッシュさんの返事も面白い。「ある日、チャドウィックがやって来て、いつもの直接的なマナーで「 君はアメリカで働く気はないか 」と聞いた。私はすぐに、「 せひそうしたいと思います 」と言った。「 しかし、それならイギリス市民にならないといけないんだが 」とチャドウ

オックスフォード大学を物理学の拠点に仕立てた(フレデリック・リンデマンさん):アルケーを知りたい(383)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ リンデマン さんは、ドイツ生まれのイギリスの物理学者でチャーチル首相の顧問だった人物。フリッシュ本とパイエルス本の両方に出てくる。フリッシュさんは大きく距離を取った。パイエルスさんは口論で終わった。 フレデリック・リンデマン  Frederick Lindemann, 1886年4月5日、ドイツのバーデンバーデン生まれ - 1957年7月3日、オックスフォードで死去。ベルリン大学で博士(指導教員はヴァルター・ネルンスト先生)。物理学者。ウィンストン・チャーチルの科学顧問を務めた。MAUD委員会にも関係した。 フリッシュ 本:MAUD委員会の仕事をしていたフリッシュさんがオックスフォードで働いた時の記述にリンデマン教授の名前が出てくる。「私が、ドイツ生まれの科学者のフランツ・サイモンの指導の下で数カ月働いた クラレンドン研究所 のあるオックスフォードでは、殆ど[爆撃の]被害はなかった。 フランツ・サイモンは著名な物理学者で、ヒトラーの反セム主義オン体制から、古い仲間の リンデマン教授(後にチャーウェル卿となった) によって救出されていた (p.179)」 フリッシュさんがケンブリッジ大学の教授職に就く前、リンデマンさんのコメントが次のように書かれている。このコメントに対してフリッシュさんは何も言っていない。「オックスフォードの物理学者の チャーウェル卿 は『 このフリッシュというのは何者だったかな。東側に行くところじゃないのか 』と言った(p.251)」 パイエルス 本:オックスフォード大学を物理学の拠点に仕立てたリンデマンさんの目論見と資金調達方法が端的に記述されているのが次。この中に出てくるI.C.I.(インペリアル化学工業)は チャドウィック さんに協力して六フッ化ウランを製造した会社である。さらにチューブアロイズのマネジメントも支えた。「 1933年より前は、オックスフォードの物理学は強力ではなかった。その点を認識していたクラレンドン研究所長のリンデマン(後のチャーウェル卿)教授は、ドイツの第一級の科学者が大勢職を失ったとき、彼らの救出が同時に自分の研究所の強化の機会になると考えた。 空きの教授職はなかったが、 リンデマンは大化学会社のI.C.I.を説得して寄付を出させ 、研究奨学基金を作り、自分で選別した難民を奨学生

迷惑をかけたフリッシュさんに博士指導教員になってもらった(ケン・スミスさん):アルケーを知りたい(382)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画(の後)。 ▼フリッシュさん(42)がハーウェルに到着し独身者用の宿舎に入ったときに スミス さん(22、似顔絵 は80歳を超えたときのもの )との出会いがある。 フリッシュさんの部屋の暖炉から大きな音楽の音がして眠りにつくどころではなくなる。その騒音の主が上の階の住人、スミスさんだった、というのが出会い。 ケン・スミス  Kenneth Frederick Smith, 1924年2月12日、南ロンドン生まれ - 2012年3月30日、英国サセックスで死去。ケンブリッジ大学で博士(指導教員はオットー・フリッシュさん)。 フリッシュさんはケンさんに原子ビーム高周波分光法を紹介。これをもとに博士号を取得。キャベンディッシュ研究所で原子ビームグループの責任者。1962(38)原子ビームグループごとサセックス大学に移転。1988(64)サセックス大学を引退。 フリッシュ 本:騒音を止めるための行動と騒音の原因が分かる記述が次。「寝巻きにガウンを羽織って、階段を駆けあがり、上の部屋のドアをノックした。そこにいたのは ケン・スミス という若い物理学者で、 ラウドスピーカーを暖炉の前に置き、部屋の壁を反響版として漬かっていた 。 私たちの暖炉は同じ煙道を使っていたので、音楽の約半分が私の部屋に出現した のは当然だった(p.247)」 フリッシュさんは、スミスさんの騒音がきっかけでスミスさんの博士号の指導教員になるというご縁に発展する。「 ケン・スミス は 非常に恐縮して、すぐに音を小さくした。まもなく私たちはよい友達になり、実際、彼が物理学の勉強を続けようと決心し、ケンブリッジで博士号をとる際には、私が指導教官になった 。その後まもなく、ケン・スミスはサセックス大学の物理学部長になった(p.247)」 〔参考〕https://www.sussex.ac.uk/broadcast/read/13105 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉

"滑稽五行詩"を書いたりする原子核物理学者(ニコラス・ケマーさん):アルケーを知りたい(381)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画(の後)。 ▼ケマーさんはWWIIの時期、ケンブリッジ大学で チューブアロイズ のメンバーだった原子核物理学者。フリッシュ本からもパイエルス本からも、どんな人柄なのか読み取れない。フリッシュ本にはケマーさんの滑稽五行詩が出てくる。しかしこの詩のどこが滑稽なのかが分からない。 ニコラス・ケマー  Nicholas Kemmer、1911年7月12日、ロシアのサンクトペテルブルク生まれ - 1998年10月21日、イギリスのエジンバラで死去。チューリッヒ大学で原子核物理学の博士(指導教員はパウリさん)。1940(29)ケンブリッジ大学トリニティカレッジ、チューブアロイズのメンバー。 イーゴン ・ブレッチャー さんと ノーマン・フェザー さんが発見した放射性物質の名称に「 ネプツニウム 」を提案。1944-46(33-36)チョークリバーで過ごす。1953-79(42-68)エジンバラ大学で数理物理学のテイト教授。 フリッシュ 本:フリッシュさんはハーウェルに着任する前、カナダのチョークリバーにある原子エネルギー研究所に滞在する。たまたまこの時、「 秘書の机の脇の書類キャビネットの中に、たいへん強いラジウム線源があるのが見つかって、放射線防護班を震え上がらせた (p.241)」。 このときチョークリバーにいたケマーさんが書いたというlimerick(滑稽五行詩)をフリッシュさんが引用している。  A typist, proficient in Morse,  Sat for weeks on a radium source  Until a pink rash  . _ . . _  The rest of the story is coarse. (原本のp.194)  「. _」 ばAで「. . _」はU。どこが滑稽なのだか不明だ。 パイエルス本 でケマーさんが出てくる箇所は次だ。「ハルバンとコワルスキーは重水を使う研究が続けられるようにケンブリッジで実験設備を与えられた。二人の仕事は、チャドウィックの研究を助けたケンブリッジの物理学者たち、N・フェザー、イーゴン・ブレッチャー、そして理論家の N・ケマー らと密接な関係を保って進められた(p.242)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Nichol

Cockburnと書いてコバーンと発音する(ロバート・コックバーンさん):アルケーを知りたい(380)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画(の後)。 ▼ロスアラモスでの仕事を終えたフリッシュさんはカリフォルニアのスタウブさんの家で2週間過ごす。するとイギリスのハーウェルで始まっている新しい原子力研究機構(AERE)の一部門を率いる仕事のオファーが来る。引き受けることにしたフリッシュさんは、翌日、副官になる予定のコバーンさんと会うためにニューヨークのホテルに向かう。しかし、ホテルに着くと「 コバーン 博士という人はおりません We have no Dr Coburn. コックバーン 博士という人ならおります There is a Dr Cockburn. 」と言われる。フリッシュさんは「私が聞いた名前はコバーンだった」と問答を繰り返す。 結局、コックバーンという名前は伝統的にコバーンと発音されることが分かり、無事に会える 。 ロバート・コックバーン  1909 年3月31日、英国のポーツマス生まれ - 1994年3月21日、英国のアルダーショット(ロンドン近郊)で死去。1939(30)ロンドン大学で博士。英国の物理学者。WWIIの間は、レーダー研究に従事。WWIIの後、原子力エネルギー研究機構フリッシュさんの副官を務める。1970-77(61-68)国立コンピューティングセンターの議長。 フリッシュ 本:フリッシュさんの本にはコックバーンさんの顔写真が出ている。そのキャプションのコックバーンさんの紹介が次。わざわざコバーンと発音される、というカッコ書きがついているのは、ニューヨークのホテルでの出来事があったから。「 ロバート・コックバーン(コバーンと発音される) レーダーの重要な応用技術の発明者。その後、ハーウェルの原子力エネルギー研究機構における著者の副官となる。後にファンボローの王立航空機協会の会長。1960年にナイトに叙せられる(p.240)」 フリッシュさんがコックバーンさんと出会ったときの第一印象が次だ。「 ロバート・コックバーンの活気のある外向きな態度は魅力的で、私はたちまち彼を気に入り、その後、ハーウェルで一緒に仕事を始めた時には、良い友達になっていた (p.240)」 フリッシュさんのハーウェルでの過ごし方は次だ。「たいていは事務所で、連鎖反応炉のゆらぎの計算を続け、そのような誤差の原因となるゆらぎが存在しても、測定が正確に行えるような方法を考えて時を

失敗すると『チーズス・クライスト』と怒鳴る人(ハンス・スタウブさん):アルケーを知りたい(379)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ ハンス・スタウブ さん(35)はブルーノ・ロッシさん(前回紹介)とロスアラモスで検出器グループ(Detector Group)を率いた二人リーダーの一人。ナチスから逃れて渡米したスイス人の物理学者。アメリカに来ても「 私の思うところでは、ヒトラーはロッキー山脈の東側をことごとく手に入れることができる (p.237)」と表明していた。しかし、WWIIが終わって4年経過するとスイスに戻り停年まで教授職についている。 ハンス・スタウブ  Hans H. Staub, 1908-1983 スイスで博士号取得(指導教員は、Paul Scherrer先生)。1937(29)Cal Tech。1938(30)スタンフォード大学でブロッホさんと共に中性子発生用のサイクロトロンを建設。1942(34)マンハッタン計画に参加。1943(35)ロスアラモス研究所。1946(38)スタンフォード大学に戻る。1949-78(41-70)チューリッヒ大学で教授。 フリッシュ 本:WWIIが終わり、ロスアラモスを出るときに前回のスタウブさんが再び登場する。フリッシュさんは、ロスアラモスからパロアルトまでスタウブさんを乗せて車を運転する。フリッシュさんはスタウブさんの家に2週間滞在し、著書の執筆に専念する。「イタリア人のブルーノ・ロッシと共同のグループリーダーだったスイス人の ハンス・スタウブが、パロアルトにある彼の家へ来ないかと誘ってくれた のだ。スタウブはスタンフォード大学の教授で、カリフォルニアにとても愛着を感じており、カリフォルニアがアメリカで人間が住める唯一の場所だと思っていた。誰もが驚いたことに、 給料がだいたい二倍くらいでシカゴの教授の職を提供されたのに、スタウブは拒んでしまった (p.237)」 この時期のスタンフォード大学は、いまのような輝かしい存在ではなかった。工学部長に後に「シリコンバレーの父」と呼ばれるフレデリック・ターマンさんが就任し、教え子のベンチャーが成長し始めて、さあ、これからというタイミングだった。 〔参考〕https://www.wrd.ch/triboni/store/13_Forschung_Entwicklung_Trueb_Taeuber.pdf?mthd=get&name=wrd_store1&