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1900、ラドン~ドルン(独):アルケーを知りたい(709)

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今回は化学。 ▼ ラドン :radon。原子番号 86。元素記号 Rn。原子量 222 。無味無臭、無色の気体。危険。 用途は、環境測定の指標。 名前は、ラジウムから放出される気体という解釈でラテン語の radius 。  ▼ドルンのここが面白い:前回のドビエルヌに続き、ドルンもwikipediaに出ている情報が少ない。ラザフォードの報告を元に実験を繰り返した。ふつうは同じ事の繰り返しからは新発見はない。けれど、ドルンはラジウムからラドンが出ていることに気付いた。同じ事の繰り返しでも場合によっては新しい発見があることが分かる。 ▼ ドルン  Friedrich Ernst Dorn 1848年7月27日 - 1916年12月16日  ドイツの物理学者 【人物】ポーランド生まれ。 【教育】ケーニヒスベルク大学。 【活動/業績】1885-(37-) ハレ大学で理論物理学教授、物理学研究所の所長。 1900(52) ラザフォード の報告を元に実験を繰り返す。発見した新元素を発散(エマネーションemanation )と呼んだ 。 1904(56) ラザフォードは同じ物質をラジウム発散(ラジウム・エマネーション radium emanation)と呼んだ 。 1923年、科学者団体がエマネーションやラジウム・エマネーションを ラドンに変更統一 。 【ネットワーク】 ラザフォード  Ernest Rutherford  1871年8月30日 - 1937年10月19日 イギリスの物理学者・化学者。原子物理学の父。1908(37) ノーベル化学賞受賞(元素の崩壊、放射性物質の化学に関する研究)。▼発見した元素に ラジウム・エマネーションと命名。後のラドン。 ソディ  Frederick Soddy 1877年9月2日 - 1956年9月22日 イギリスの化学者。1921(44) ノーベル化学賞受賞(放射性物質の化学に関する研究)。▼ラザフォードと共に、ラドンがラジウムだけでなくトリウムからも発生することを確認。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Ernst_Dorn

1899、アクチニウム~ドビエルヌ(仏):アルケーを知りたい(708)

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今回は化学。 ▼ アクチニウム :actinium。原子番号 89。元素記号 Ac。原子量   227。銀白色の金属。アクチニウムのアルファ線はラジウムの150倍の強度。 用途は、中性子発生源。 名前の由来は、ギリシア語の「放射線 aktis」。 ▼ドビエルヌのここが面白い:wikipediaに出ているドビエルヌの情報は少ない。ドビエルヌは キュリー夫妻 の友人であることが分かった。ピエールはドビエルヌより15才年長の指導教員。マリはドビエルヌの7才年長の共同研究者。 ▼ ドビエルヌ  André-Louis Debierne 1874年7月14日 - 1949年8月31日  フランスの化学者  【人物】ピエールとマリ・キュリーの友人。 【教育】パリ工科大学。師匠はピエール・キュリー。 【活動/業績】 1899(25) キュリー夫妻 が始めたピッチブレンドの研究に参加、アクチニウムを発見 。 1906(32) ピエール・キュリーが交通事故死。その後もマリ・キュリーと共同研究を継続。 【ネットワーク】 ギーゼル  Friedrich Oskar Giesel 1852年5月20日 - 1927年11月13日 ドイツの有機化学者。▼1899(47) 、独立してアクチニウムを発見。 ピエール・キュリー  Pierre Curie 1859年5月15日 - 1906年4月19日 フランスの物理学者。1903(44) ノーベル物理学賞受賞(放射能の研究)。▼ドビエルヌの師匠。 マリ・キュリー  Maria Salomea Skłodowska-Curie 1867年11月7日 - 1934年7月4日 ポーランドの化学者・物理学者。1903(36) ノーベル物理学賞受賞(放射能の研究)。1911(44) ノーベル化学賞受賞(ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究)。▼ドビエルヌはマリと共同研究を継続。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Andr%C3%A9-Louis_Debierne

1898、クリプトン、ネオン、キセノン~トラバース(英):アルケーを知りたい(707)

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今回は化学。 ▼ クリプトン :krypton。原子番号 36。元素記号 Kr。原子量 83.798 。常温常圧で無色無臭の気体。 用途は、白熱電球にクリプトンを封入したクリプトンランプ。 名前は、アルゴンに隠れていたので、ギリシャ語「隠れた kryptos 」に由来。 1898年、ラムゼーとトラバースが発見。 ▼ ネオン :neon。原子番号 10。元素記号 Ne。原子量 20.180。常温常圧で無色無臭の気体。 用途は、ネオン管の封入気体。ヘリウムと混合してヘリウムネオンレーザー。 名前は、ギリシャ語「新しい neos」に由来。 1898年、ラムゼーとトラバースが発見。 ▼ キセノン :xenon。原子番号 54。元素記号 Xe。原子量 131.293。常温常圧で無色無臭の気体。 用途は、キセノンランプ。イオン推進エンジンの推進剤。複層ガラスに封入する断熱材。 名前は、ギリシャ語「なじみにくいもの xenos 」に由来。 1898年、ラムゼーとトラバースが発見。 ▼トラバースのここが面白い:立て続けに新しい元素を3つ発見したので「 貴ガスのトラバース 」と呼ばれた。分かりやすいキャッチフレーズを持っているのがトラバースの強みだ。 ▼ トラバース  Morris William Travers 1872年1月24日 - 1961年8月25日 英の化学者 【人物】父親は医師。 【教育】ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン UCL。 【活動/業績】 1898(26) UCLで ラムゼー (46)と 共同で液体空気からクリプトン、ネオン、キセノンを発見 。 1904(32) UCLで教授。 1906-14(34-42) ラムゼーの推薦で新設のインド科学研究所で所長。 1914-18(42-46) WWIの間、イギリスで軍用ガラスの製造を指揮。 1920(48) 仲間と高温炉と石炭技術を提供する Travers and Clark社を起業。 1927(55) ユニバーシティ・カレッジで応用化学の名誉教授。 1956(84) ラムゼーの伝記『ウィリアム・ラムゼー卿の生涯』を執筆。 【ネットワーク】 ラムゼー  William Ramsay 1852年10月2日 - 1916年7月23日 スコットランドの化学者。 1895(43) ヘリウムを単離。1904(52) ノーベル化学

1897、無線電信~マルコーニ(伊):アルケーを知りたい(706)

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今回は物理学。 ▼ 無線電信 :wireless telegraphy。電線を使わず、電波で信号を送信する電気通信。 ▼マルコーニのここが面白い:最初から無線通信をシステムとして確立するのが目標だったこと。この目標が達成できれば大きく事業展開できる。お客から見るとマルコーニのシステムを導入すれば、あとは何もいらず無線通信の恩恵を受けられるのだから話が早い。20代から技術者、企業家の両方で長じていたのが面白い。 ▼ マルコーニ  Guglielmo Giovanni Maria Marconi 1874年4月25日 - 1937年7月20日  イタリアの発明家、起業家  【人物】父親はボローニャの裕福な地主。母親はジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー創業者の孫娘。 【教育】数学・物理・化学を家庭教師から学ぶ。 1891-92(17-18) 物理学・電気工学の理論と応用、実験を個人授業で学ぶ。 1892-(18-) マルコーニ家の隣人でハインリッヒ・ヘルツを研究していたボローニャ大学の リーギ 教授に個人的に学ぶ。リーギ教授はマルコーニが大学の研究室や図書館も使えるようにはからった。 【活動/業績】1894( 20 ) 無線電信システムの完成を目指して自宅の部屋で実験開始 。 1895(21) 通信距離を伸ばすため、アンテナを設置して 屋外実験を開始 。1.5kmを達成。無線電信の商業的・軍事的価値を確信。 1896(22) 母親とロンドンに出て支援者探し。郵政庁GPOの主任電気技師 プリース と出会う。 GPOと貯蓄銀行の屋上間で公開実験を実施。ブリースのリリースにより、新聞やネイチャーなど科学雑誌でマルコーニと無線通信システムが報道される。 1897(23) 陸上と海上の公開実験で約6km、16km と距離を伸ばす。 マルコーニ無線電信会社を創立 。 1899(25) アメリカ初の公開実験でアメリカスカップを無線でレポート。英米間の往復の船上でも陸上局と無線実験。米海軍がマルコーニのシステムを高評価。 1900(26) ドイツに海岸局を、客船会社の船に船舶局を開設。電報サービスを提供するマルコーニ国際海洋通信会社MIMCC(Marconi International Marine Communication Company)を分社。無線通信の有用性を知った客船会社は

1896、放射線の発見~ベクレル(蘭):アルケーを知りたい(705)

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今回は物理学。 ▼ 放射線 :Ionizing radiation。粒子放射線(α線、β線、中性子線、陽子線、重イオン線、中間子線など)と電磁放射線(γ線とX線など)の総称。放射線は生き物に有害。 ▼アンリ・ベクレルのここが面白い:物理・化学を専門とする家の三代目。放射能の単位ベクレル Bq はアンリ・ベクレルの名に因んだもの。四代目のジャンも物理・化学分野の専門家。学者が四代も続いたのが面白い。 ▼ アンリ・ベクレル  Antoine Henri Becquerel 1852年12月15日 - 1908年8月25日  フランスの物理学者・化学者   【人物】 祖父 と 父親 は物理化学の専門家。 【教育】エコール・ポリテクニークで自然科学を学ぶ。 国立土木学校で工学を学ぶ。 【活動/業績】卒業後、フランス国立工芸院、エコール・ポリテクニーク、国立自然史博物館、パリ国立高等鉱業学校等で教師。 1892(40) 国立自然史博物館で物理学教授。 1896(44) ウランが放出したアルファ線で写真乾板が感光する現象を発見。放射線の発見 。 1901(49) 放射線の医療利用を発見、放射線療法の始まりとなる。 1903(51) マリ・キュリー が博士号取得。 1903(51) ノーベル物理学賞受賞(放射能の発見) 。マリ・キュリー、 ピエール・キュリー と共同受賞。 【ネットワーク】 セザール ・ベクレル  Antoine César Becquerel 1788年3月7日 - 1878年1月18日 フランスの科学者。電気化学、発光現象の研究のパイオニア。1819(31) 圧電現象を発見。▼アンリの祖父。 エドモンド ・ベクレル Edmond Becquerel 1820年3月24日 - 1891年5月11日 フランスの物理学者。1853(33) 熱電子放出を発見。セザールの息子。▼アンリの父親。 ピエール・キュリー  Pierre Curie 1859年5月15日 - 1906年4月19日 フランスの物理学者。▼1903(44) ノーベル物理学賞受賞(放射能の研究)。 マリ・キュリー  Maria Salomea Skłodowska-Curie 1867年11月7日 - 1934年7月4日 ポーランドの化学者・物理学者。1903(36) ノーベル物理学賞受賞(放射能の研

1896、ゼーマン効果~ゼーマン(蘭):アルケーを知りたい(704)

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今回は物理学。 ▼ ゼーマン効果 :Zeeman effect。原子の電磁波のスペクトル線が、磁場が無いときは一本に見えたのが、磁場をかけると複数の線に分かれる現象。 ▼ゼーマンのここが面白い:新しい知識の創造と増幅の典型事例なのが面白い。スペクトル線に強い磁場をかけるとそれまで一本に見えていたスペクトル線が分割する、というのがゼーマンによる新しい知識の「創造」。この新しい知識をテコにして師匠のローレンツが原子構造の解明につないだ、これを知識の「増幅」と見ましょう。ゼーマンが大学でオンネスとローレンツという師匠に出会う運の良さも面白い。ところでゼーマンの博士指導教員オンネスは前々回のリンデ(702)の冷凍装置を使って低温研究を行った。この例のように知識の創造と増幅も人のつながりあってこそ、というのが面白い。 ▼ ゼーマン  Pieter Zeeman 1865年5月25日 - 1943年10月9日  オランダの物理学者  【人物】父親は牧師。1883(18) オランダに出現したオーロラを観察、スケッチと解説を『ネイチャー』に送り、掲載される。 【教育】1893(28) ライデン大学で博士。指導教員は オンネス 。 【活動/業績】 1890-93(25-28) ライデン大学で ローレンツ の助手。 1893-95(28-30) ストラスブール大学で コールラウシュ 研究室でポスドク。 1895(30) ライデン大学で数学と物理学の私講師。 1896(31) 磁場をかけるとスペクトル線が複数生じる現象を発見 。 オンネスを通じてこの話を知ったローレンツがゼーマンを呼び出し、電磁放射の視点から解説。原子の構造の解明が進む 。 1897(32) アムステルダム大学で講師。 1900(35) アムステルダム大学で物理学教授。 1902(37) ローレンツと共にノーベル物理学賞受賞(放射に対する磁場の影響の研究) 。 1908(43) アムステルダム大学物理学研究所でファン・デル・ワ―ルスの後任所長。 【ネットワーク】 ファン・デル・ワールス  Johannes Diderik van der Waals 1837年11月23日 - 1923年3月8日 オランダの物理学者。アムステルダム大学物理学教授。1910(73) ノーベル物理学賞受賞(気体および液体の状態方程式に関する研

1895、X線~レントゲン(独):アルケーを知りたい(703)

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今回は物理学。 ▼ X線 : X-ray。波長が 1 pm - 10 nm の電磁波。用途は、X線撮影や結晶構造の解析。命名はレントゲン。 ▼レントゲンのここが面白い:学長になっても実験を止めなかった。学長になった次の年、放電管の実験のとき、ガラスの厚みや真空度が異なる放電管を手に入る限りの集めて短期集中で試した徹底ぶりが面白い。レーナルト管もその一つ。レーナルトはレントゲンの論文に自分への謝辞がなかったのでめちゃ怒ったという話が残っている。なぜレントゲンは論文にレーナルトの名前を出さなかったのだろう。これもまたレントゲンの面白さ。 ▼ レントゲン  Wilhelm Conrad Röntgen 1845年3月27日 - 1923年2月10日  ドイツの物理学者 【人物】父親は織物商。裕福な家庭の一人息子として育つ。 【教育】1865(20) チューリッヒ工科大学の機械工学科入学。 1868(23) 機械技師免状を取得。 1869(24) チューリッヒ工科大学で博士。テーマは『種々の気体の熱的性質に関する研究』。博士指導教員は クント 。 【活動/業績】1870(25) ヴュルツブルク大学でクントの助手。 1872(27) ストラスブール大学でクントの助手。独立して研究を開始。 1874(29) 大学教授資格を取得。 1876(31) ストラスブール大学で助教授。 1879(34) ギーセン大学で物理学教授。 1888(43) ヴュルツブルク大学で教授。 1894(49) ヴュルツブルク大学で学長。 1895(50) 放電管の実験を開始。7週間、集中的に実験した結果、X線を発見。ジーメンス製の真空管を使用したほか、ヒットルフ管、クルックス管、レーナルト管も試した 。 1900-20(55-75) ミュンヘン大学で実験物理学教授。 1901(56) 第一回のノーベル物理学賞受賞(X線の発見)。賞金を全額ヴュルツブルク大学に寄付。 【ネットワーク】 ケリカー  Rudolf Albert von Kölliker 1817年7月6日 - 1905年11月2日 スイスの解剖学者・生理学者。 レントゲン写真の手のモデル。 ▼ X線をレントゲンと呼んだ レントゲンの同僚。 ヒットルフ  Johann Wilhelm Hittorf 1824年3月27日 - 1914年11月