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1922、インスリン~バンティング(加):アルケーを知りたい(738)

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今回は化学。 ▼ インスリン :Insulin。膵臓で産生されるホルモン。インスリンの不足は糖尿病の原因。血糖値の制御ができなくなる。 ▼バンティングのここが面白い:バンティングはインスリンの作り方のアイディアを得て実現させた中心人物。発見からノーベル賞までの間がわずか2年。それだけ医療にインパクトがある発見だった。問題もあった。4名の関係者がいたのに、ノーベル賞受賞者はバンティングとマクラウドの2名だったこと。バンティングにとってマクラウドは受賞に値する働きはしていないと考えていた。これで対立が起こる。ノーベル財団も後年、バンティングの相方だった人物を外したのはミスと認めた。バンティングの姿勢は終始はっきりしていて筋を通す人であるのが分かって面白い。 ▼ バンティング  Frederick Grant Banting 1891年11月14日 - 1941年2月21日  カナダの医師・医学者  【人物】父親は農家。 【教育】1916(25) トロント大学でMB 1916-18(25-27) WWIの間、カナダ陸軍医療隊員。 1919-20(28-29) トロント病院の小児科でレジデント外科医。 1920-21(29-30) ウェスタン・オンタリオ大学で整形外科の非常勤講師。糖尿病に関心を持つ。 1921-22( 30-31 ) トロント大学のマクラウドから許可を取り、 マクラウドの 休暇の間、マクラウドの実験室と院生のチャールズ・ベストを助手にして脾臓の分泌物を抽出する研究を開始。途中からマクラウド本人とマクラウドが呼んできた生化学者コリップが参加、研究を加速。犬や牛の膵臓から分泌物の抽出に成功しインスリンと命名 。それまで治療方法がなかった数百万の糖尿病患者を救う。 1922(31) トロント大学で医学博士、シニア・デモンストレーター。 【活動/業績】 1923( 32 ) ノーベル生理学・医学賞をマクラウドと共同受賞(インスリンの発見)。バンティングは賞金をベスト (24) と分けた。マクラウド (47) はコリップ (31) と分けた 。 1938(47) 航空医学に関心を持ちカナダ空軍(RCAF) に参加。 1939(48) WWII。英国・北米間の医療サービスの連絡将校。 1941(50) 飛行機墜落事故で死去。 【ネットワーク】 マクラウド  John

1923、物質波~ド・ブロイ(仏):アルケーを知りたい(737)

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今回は物理学。 ▼ 物質波 :de Broglie wave。ド・ブロイ波。運動する物質一般に付随する波動現象。 ▼ド・ブロイのここが面白い:高校の時、成績優秀な親友から手紙でド・ブロイ波について述べよと言われて参ったことがある。歴史的に見ると、ド・ブロイ波の理論によって、物質は粒子性と波動性を併せ持つという見解が確立したということらしい。ところで、粒子という言葉から、どうしても粒をイメージしてしまう。粒のイメージを捨てないとアルケーを考えるのに行き詰る。そこでアルケーは、粒的なもの、波的なもの、正体不明なもの、と考える。このようにド・ブロイはあれこれ考えさせてくれるのが面白い。95才という長寿も目出度い。 ▼経緯。 1905年、 アインシュタイン が電磁波の粒子性を提唱。 1923年、 コンプトン がコンプトン効果で電磁波の粒子性を示す。 1924年、ド・ブロイが粒子の波動性を提唱、波動と粒子の二重性の仮説を示す。 1926年、 シュレディンガー が波動方程式を提唱。 1927年、イギリスの ジョージ・パジェット・トムソン が電子回折の観察でド・ブロイ波の理論を検証。アメリカの デイヴィソン と ジャマー も同様に電子回折の観察でド・ブロイ波の理論を検証。 ▼ ルイ・ド・ブロイ  Louis Victor de Broglie 1892年8月15日 - 1987年3月19日  フランスの理論物理学者  【人物】父親は名門貴族の当主。 【教育】1910(18) パリ大学で歴史学学士。軍人・物理学者の兄モーリスの影響で物理学に転換。 1913(21) パリ大学で科学学士。 1914-18(22-26) WWIで中断。仏軍の無線通信技術者としてエッフェル塔配属。 1918-(26-) 兄と自宅の実験室で研究。  1924( 32 ) パリ大学で物理学博士。 D論でド・ブロイ波を提唱 。 【活動/業績】 1926-28(34-36) パリ大学で教授。 1928-62(36-70) アンリ・ポアンカレ研究所で理論物理学教授。 1929( 37 ) ノーベル物理学賞受賞(電子の波動性の発見) 。 【ネットワーク】 モーリス・ド・ブロイ  Louis-César-Victor-Maurice de Broglie 1875年4月27日 - 1960年7月14日 フランスの物理学

1922、コンプトン効果~コンプトン(米):アルケーを知りたい(736)

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今回は物理学。 ▼ コンプトン効果 :Compton effect。X線を物体に照射したとき、散乱するX線の波長が入射するX線の波長より長くなる現象。コンプトン効果が生じる散乱をコンプトン散乱 Compton scattering という。 電磁波の粒子性を示す根拠。 ▼コンプトンのここが面白い:物理学者としての能力と国家プロジェクトを成功まで導くマネジメント能力の両方に秀でる人物。前者の証はノーベル物理学賞、後者の証はマンハッタン計画。それにしてもマンハッタン計画は適材が適所にいる計画だった・・・。 ▼ アーサー・コンプトン  Arthur Holly Compton 1892年9月10日 - 1962年3月15日  アメリカの物理学者 【人物】父親は哲学教授。 【教育】1913(21) ウースター大学で理学士。 1914(22) プリンストン大学で修士。 1916(24) プリンストン大学で物理学博士。 【活動/業績】 1916-17(24-25) ミネソタ大学で物理学講師。 1917-18(25-26)  WWIの間、ウェスティングハウス・エレクトリック社でナトリウムランプを開発。航空計器を開発。 1919(27) ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所へ留学。 ジョージ・パジェット・トムソン と共同でガンマ線の散乱と吸収を研究。 1920(28) セントルイス・ワシントン大学で物理学教授。 1922( 30 ) コンプトン効果を発見 。 1923-45(31-53) シカゴ大学で物理学教授。 1926(34) 最初の著書『X線と電子』を出版。 1927( 35 ) ノーベル物理学賞受賞(コンプトン効果の発見) 。 1935(43) サミュエル・K・アリソン の協力を得て前著『X線と電子』を改訂し『X線の理論と実験』を出版。標準的な参考書として出版後30年にわたり使用。 1939-45(47-53) WWII。 1941(49) アメリカ国防研究委員会 NDRC の ブッシュ の依頼でウラン計画特別委員会委員長。核兵器の開発の見通しを予測。 オッペンハイマー を爆弾設計者にする。 1942(50) シカゴ大学で冶金研究所を設置、所長。マンハッタン計画の一部を担う。 シカゴ大学に フェルミ の監督のもとシカゴ・パイル1号を設置。 1943(51) マンハッタ

1919、質量分析法~アストン(英):アルケーを知りたい(735)

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今回は物理学。 ▼ 質量分析法 :mass spectrometry。MS。高電圧をかけた真空中で試料をイオン化する。静電力によって試料のイオンが装置内を飛ぶ。飛んでいるイオンを質量電荷比で分離して「マススペクトル」を得る方法。 ▼アストンのここが面白い:実家が豊かなのと、本人の才能豊かなのが組み合わさると最強じゃん、の具体的人物。同位体を分離する質量分析というデリケートな仕事の一方、スポーツマン(登山、スキー、スケート、サイクリング、テニス、サーフィン、自動車レース)、音楽家(ピアノ、バイオリン、チェロ)だった。 ▼ アストン  Francis William Aston 1877年9月1日 - 1945年11月20日  イギリスの化学者・物理学者  【人物】父親は富裕な商人。 【教育/活動/業績】1894-98(17-21) バーミンガム大学でフランクランドと ティルデン から化学、 ポインティング から物理学を学ぶ。 1898-1901(21-24) 酒石酸誘導体の光学特性を研究・発表。 1900-03(23-26) 醸造所の研究室で化学者。 1903(26) バーミンガム大学でポインティングの助手。自作の放電管でグロー放電の陰極付近に暗い部分(アストン暗部)を発見。 1910(33) バーミンガム大学で理学士。キャヴェンディッシュ研究所で J.J.トムソン の研究助手。イオンの研究を行う。 1914(37) バーミンガム大学で博士。 1914-18(37-41) WWI。王立航空機研究所で機体塗料の研究。 1919( 42 ) キャヴェンディッシュ研究所に戻り ネオンの同位体を分離に挑戦。そのため質量分析計を発明。質量分析計でネオンの成功に続き、212 以上の天然同位体を発見 。 1922( 45 ) ノーベル化学賞受賞(非放射性元素における同位体の発見と質量分析器の開発) 。 【ネットワーク】 ティルデン  William Augustus Tilden 1842年8月15日 - 1926年12月11日 英の化学者。▼アストンに化学を教えた先生。 ポインティング  John Henry Poynting 1852年9月9日 - 1914年3月30日 英国の物理学者。バーミンガム大学で初の物理学教授。J.J.トムソンと物理学の教科書を共著。▼アストンの師匠。

1913、特性X線~モーズリー(英):アルケーを知りたい(734)

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今回は物理学。 ▼ 特性(または固有)X線 :Characteristic X-ray。X線装置では陰極から陽極に電子をぶつけてX線を発生させる。発生するX線は2種類ある。スペクトルが立ち上がる特性X線となだらかなスペクトルを見せる連続X線。陽極の物質を変えたり、電圧を変えることによってX線スペクトルが変わる。大学入試問題にも出てくる。 ▼モーズリーのここに注目:特性X線を使った研究でモーズリーの法則を発見。WWIが始まると回りの反対を押し切って軍に入った。軍事研究ではなく、通信技術士官として前線に出た。優秀な頭脳と国を守る行動力を備えた人物。しかし狙撃されて戦死。以後、科学者は前線に出てはならないことになる。敵の狙撃兵はなぜモーズリーを狙ったのか。スコープの中で際立つモーズリーのオーラを認めたのか。 ▼ モーズリー  Henry Gwyn Jeffreys Moseley 1887年11月23日 - 1915年8月10日  イギリスの物理学者  【人物】父親はオックスフォード大学の解剖学教授。母親はチェスのイギリス女性チャンピオン。 【教育】1910(23) オックスフォード大学を卒業。 【活動/業績】1910(23) マンチェスター大学でラザフォードの実験助手。 1911(24) マンチェスター大学で研究助手。オランダの物理学者 ブローク が原子番号と電荷が対応するという仮説を発表。 1913( 26 ) エディンバラ大学の バークラ が特性X線を発見。リーズ大学で ブラッグ父子 からX線分光法の技術を習得。オックスフォード大学に移り、化学研究所でブロークの仮説をX線分光法で確かめた。 特性X線の波長と原子番号の関係をモーズリーの法則として発表 。原子核の陽子数の測定を行った。 1914(27) WWI。イギリス陸軍の王立工兵隊に入隊。 1915(28) 通信技術士官としてトルコのガリポリの前線で従軍。狙撃されて死去。以降、科学者が前線に出ることが禁じられた。 【ネットワーク】 ブローク  Antonius Johannes van den Broek 1870年5月4日 - 1926年10月25日 オランダのアマチュア物理学者。▼1911(41)原子番号と電荷の対応を最初に認識。モーズリーが1913年に実験で確かめ、モーズリーの法則として発表。 ラザフォード

1913、シュタルク効果~シュタルク(独):アルケーを知りたい(733)

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今回は物理学。 ▼ シュタルク効果 : Stark effect。 一本に見える原子のスペクトル線でも、強電場をかけると分岐して複数の線に分かれる現象。 ▼シュタルクのここに注目:33才のときはアインシュタイン(28)に原稿を依頼するほど高く評価していた。50才からヒトラーの支持者になり、反ユダヤ主義運動の実践者になってから変わる。アインシュタインらの物理学をユダヤ物理学と呼び、ナチス支持者の物理学をドイツ物理学と呼んで対立した。何があってここまで姿勢が変わったのだろう。 ▼ シュタルク  Johannes Stark 1874年4月15日 - 1957年6月21日 ドイツの物理学者   【人物】父親は地主。 【教育】1897(23) ミュンヘン大学で博士。 1897-1900(23-26) ミュンヘン大学の物理学研究所で助手。 【活動/業績】1900(26) ゲッティンゲン大学で講師。 1906-09(32-35) ハノーバー大学で教授。 1907(33) アインシュタイン に相対性原理に関する論文を依頼。 1909(35) アーヘン大学で教授。 1913( 39 ) シュタルク効果を発見 。 1914-18(40-44) WWI。 1919( 45 ) ノーベル物理学賞受賞(運河光線のドップラー効果と電場のスペクトル線の分裂の発見) 。1924-45(50-71) ヒトラー の支持者になる。アインシュタインと ハイゼンベルク の物理学をユダヤ物理学と呼び、 レーナルト と共にドイツ物理学運動を展開。ハイゼンベルク(ユダヤ人ではない)を「白いユダヤ人」と呼んだ。 1933-39(59-65) PTRで パッシェン の後任会長。 1934(60) ラウエ にナチス党に従うよう圧力をかける。 1939-45(65-72) WWII。 1947(73) 非ナチ化裁判所で重大犯罪者として4年の懲役刑。 1957(83) ドイツのバイエルンで死去。 【ネットワーク】 レーナルト  Philipp Eduard Anton von Lenard 1862年6月7日 - 1947年5月20日 ドイツの物理学者。1905(43) ノーベル物理学賞受賞(陰極線に関する研究)。▼シュタルクと共にドイツ物理学を掲げた。 パッシェン  Louis Carl Heinrich Friedr

1913、ボーアの原子モデル~ボーア(丁):アルケーを知りたい(732)

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今回は物理学。 ▼ ボーアの原子モデル :ラザフォードの原子モデルの弱点を補ったモデル。 ▼ボーアのここが面白い:20代で物理学者としての偉業を成し遂げ、30代でデンマークの物理学研究拠点を作り、40代でナチス・ドイツから脱出する科学者を助け、50代でマンハッタン計画に長老として参加、60代は欧州での原子力研究に協力。ナチスが台頭するキナ臭い時代の最中に核分裂の技術が進み緊迫する。この時期、ボーアは30から50代。理論研究、人助け、軍事研究、ロシア物理学者との友好を訴え政治家に危険人物と思われる、動き方に興味が尽きない。 ▼ ニールス・ボーア  Niels Henrik David Bohr 1885年10月7日 - 1962年11月18日  デンマークの理論物理学者。 【人物】父親はコペンハーゲン大学の生理学教授。母親はユダヤ人。弟は数学者。息子は物理学者。 【教育】1903(18) コペンハーゲン大学に入学。 1911(26) コペンハーゲン大学で博士。イギリスへ留学、マンチェスター大学の ラザフォード の元で原子モデルを研究。 【活動/業績】 1912(27) コペンハーゲン大学で私講師。 ラザフォードの原子モデルにプランクの量子仮説を採り入れた原子モデルを考案 。 1913( 28 ) ボーアの原子モデルを完成 。 1921(36) 政府と財団の支持を得て理論物理学研究所を開設、所長。 1922( 37 ) ノーベル物理学賞受賞(原子構造とその放射に関する研究) 。 1933(48) ロックフェラー財団がナチス・ドイツに追われる難民科学者を支援する基金を設立。この基金を元に理論物理学研究所が難民科学者に仕事と経済的支援を提供。 1938(53) コプリ・メダル受賞。 1939-45(54-60) WWII。 1940(55) ナチス・ドイツが デンマーク侵攻。研究所の難民科学者は退避。 1943(58) デンマークを脱出、マンハッタン計画に合流。 1945(60) デンマークに帰国、王立芸術科学アカデミーで会長。 1954(69) CERNの設立に協力。 【ネットワーク】 クリスチャン・ボーア  Christian Harald Lauritz Peter Emil Bohr 1855年2月14日 - 1911年2月3日 デンマークの生理学者。▼ニールスの父