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越智 越人~定型詩でアルケーを知りたい(860)

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今回は俳句。 ▼ 更科や 三夜さの月見 雲もなし 感想 越人が芭蕉に同行した更科の旅のメインイベントが姥捨て山での月見。三夜連続して晴れて良かった。 ▼ 越智 越人   おち えつじん 俳人・蕉門十哲の一人・ 尾張蕉門の重鎮   【プロフィール】 1656(明暦2)年、越後生まれ。  名古屋で紺屋を経営。 1684(28) 芭蕉に入門。 1688(32) 芭蕉の『 更科紀行 』 に同行。 芭蕉の句「二人見し雪は今年も降りけるか」の詞書:尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。 これ我が友なり 。 1739(元文4)年、死去。83歳。 【キーワードと感想】 更科紀行  更科は長野県。芭蕉が越人を伴った旅行記。ルートは名古屋~木曽路~更科姨捨山で月見~江戸。時期は5月~8月。 【ネットワーク】 松尾 芭蕉  まつお ばしょう 1644(寛永21)年 - 1694(元禄7)年11月28日 俳諧師。姥捨て山で月見をする旅=更科紀行=は芭蕉44歳の旅。 あの中に 蒔絵書きたし 宿の月 / 桟橋や 命をからむ 蔦葛 / 俤や 姥ひとり泣く 月の友 / 十六夜も まだ更科の 郡かな 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E8%B6%8A%E4%BA%BA

立花 北枝~定型詩でアルケーを知りたい(859)

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今回は俳句。 ▼ おもしろも なふて身にしむ 神楽哉 感想 分かることも  のうて身にしむ バッハ哉 ▼ 立花 北枝   たちばな ほくし 俳人・蕉門十哲の一人  【プロフィール】 ?年、石川県能美郡生まれ。  兄の牧童と共に刀研ぎを生業とする。  北村季吟の門下生に俳諧を学ぶ。 1680() 談林派 の俳諧誌『白根草』に牧童と共に掲載。  その後も句誌に兄弟の作品が掲載。 1689() 『おくのほそ道』の旅で金沢に来た 芭蕉 に兄弟で弟子入り。1か月間、芭蕉の旅に同道。  馬かりて 燕追ひ行く 別れかな   物書いて 扇引きさく 別れかな (芭蕉) 1718(享保3)年6月10日、金沢で死去。   書いて見たり けしたり果は けしの花 【キーワードと感想】 談林派   西山宗因を祖とする俳諧スタイル。芭蕉も宗因の俳句会に参加した。 【ネットワーク】 向井 去来  むかい きょらい 1651(慶安4)年 - 1704(宝永元)年10月8日 俳諧師・蕉門十哲の一人。 応々といへど敲くや雪の門  ▼1690年の金沢に大火に遭った北枝が詠んだ句「 焼けにけりされども花は散りすまし 」を見た芭蕉が「焼けにけりの御秀作、かゝる時にのぞみ、大丈夫感心。 去来 、丈草も御作驚申計に御座候」と称賛。 内藤 丈草  ないとう じょうそう 1662(寛文2)年 - 1704(元禄17)年3月29日 俳諧師・蕉門十哲の一人。 大はらや蝶の出てまふ朧月  ▼1690年の金沢に大火に遭った北枝が詠んだ句「焼けにけりされども花は散りすまし」を見た芭蕉が「焼けにけりの御秀作、かゝる時にのぞみ、大丈夫感心。去来、 丈草 も御作驚申計に御座候」と称賛。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%8C%97%E6%9E%9D

杉山 杉風~定型詩でアルケーを知りたい(858)

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今回は俳句。 ▼ 朝顔や その日その日の 花の出来 感想 米粒や   その日その日の 飯の出来 ▼ 杉山 杉風   すぎやま さんぷう 俳人・蕉門十哲の一人  【プロフィール】 1647(正保4)年、日本橋小田原町生まれ。父親は幕府御用の魚問屋・俳諧師。談林派の俳諧を学ぶ。 1672(25) 芭蕉 (28) が江戸に来訪、杉風宅に宿泊。芭蕉の門下となる。所有する深川の番屋を芭蕉に提供、これが 芭蕉庵 。 1683(36) 天和の大火で芭蕉庵が焼失。芭蕉の吟行中、其角の『虚栗』の編纂を助ける。芭蕉は「去来は西三十三国の俳諧奉行、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と評す。 1694(47) 芭蕉の発句で 江戸蕉門深川連 の句集『別座鋪』を発表。芭蕉が死去。 曾良 、 野坡 らと芭蕉追悼会を開く。 1701(54) 芭蕉の七回忌に『冬かつら』を刊行。 1732(享保17)年8月3日、江戸で死去。85歳。   痩せ顔に 団扇をかざし 絶し息   蚊のすねも 達者に見ゆる 夏の中 【キーワードと感想】 江戸蕉門深川連  芭蕉の発句「 紫陽花や藪を小庭の別座舗 」を巻頭に置いた江戸蕉門の俳句集。其角の江戸座、嵐雪の雪門、とは別の蕉門の連。 【ネットワーク】 河合 曾良  かわい そら 1649(慶安2)年 - 1710(宝永7)年6月18日 俳人・蕉門十哲の一人。 袂から春は出たり松葉銭  ▼曽良は杉風、野坡らと芭蕉追悼会を行った。 志太 野坡  しだ やば 1662(寛文2)年2月21日 - 1740(元文5)年1月31日 俳人・蕉門十哲の一人。 盆の月 ねたかと門を たゝきけり  ▼「杉風、野坡はこゝろひとつにして、只かるみに遊ぶ」と評された。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E6%9D%89%E9%A2%A8

各務 支考~定型詩でアルケーを知りたい(857)

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今回は俳句。 ▼ 鶯の 肝つぶしたる 寒さかな /  馬の耳 すぼめて寒し 梨の花 感想 寒いと言えばよいのに、鶯や馬を動員する支考かな ▼ 各務 支考  かがみ しこう 俳人 【プロフィール】 1665(寛文5)年、岐阜市生まれ。  幼少の頃父親が死去。禅刹大智寺に入る。 1684(19) 下山して還俗。各務家に養子入り。乞食僧になって諸国を行脚。神学、儒学を学ぶ。 1690(25) 近江で 芭蕉 (46) に入門。 1691(26) 芭蕉に従って江戸に下向。 1694(29) 芭蕉の旅に同行、 芭蕉の臨終を看取り遺書を代筆 。  伊賀・伊勢・近江・江戸の行脚と追善興行を繰り返す。 1711(46) 伊勢山田に草庵「十一庵」を結ぶ。 1724(59) 郷里の美濃山県に「獅子庵」を結ぶ。  蕉門美濃派、獅子門の創始者。 1731(享保16)年3月14日、死去。66歳。   念仏と 豆腐とふとし 老の春   窓に寝て 雲をたのしむ 蛍哉  屋根ふきは 下からふくぞ 星下り  琴の音を のぞけば百合の 月夜哉 【キーワードと感想】 美濃派・獅子門 支考が創始者の俳諧流派。美濃は支考の郷里、獅子は支考の草庵の名前。 【ネットワーク】 内藤 丈草  ないとう じょうそう 1662(寛文2)年 - 1704(元禄17)年3月29日 俳人・蕉門十哲の一人。 蚊帳を出て又障子あり夏の月 ▼芭蕉を看取って遺言を書いたのが 支考 、芭蕉を埋葬した寺の庵で暮らしたのが丈草。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%8B%99%E6%94%AF%E8%80%83

内藤 丈草~定型詩でアルケーを知りたい(856)

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今回は俳句。 ▼ 蚊帳を出て 又障子あり 夏の月 感想  蚊帳は夏、 障子は冬、夏の月、3対2で夏の勝ち。 ▼ 内藤 丈草  ないとう じょうそう 俳人・蕉門十哲の一人 【プロフィール】 1662(寛文2)年、愛知県犬山市生まれ。父親は武士。 1676(14) 武士・俳諧師の寺尾直竜に仕える。 1680(18) 名古屋で穂積元庵に漢学を学ぶ。 1688(26) 出家。 『 奥の細道 』 の旅から帰った 芭蕉 と出会う。 芭蕉の依頼で『猿蓑』の跋を執筆。 1693(31) 芭蕉の拠点、滋賀大津の義仲寺 無名庵 で暮らす。 1694(32) 芭蕉が死去。「骸は木曽塚に送るべし」の遺志で義仲寺に埋葬。  木曽殿と背中合わせの寒さかな (島崎又玄) 1695(33) 義仲寺に 仏幻庵 を結び、大行脚や経塚建立を担う。   大はらや蝶の出てまふ朧月 1704(元禄17)年3月29日、仏幻庵で死去。42歳。 【キーワードと感想】 義仲寺 無名庵  義仲寺は 滋賀県大津市にある寺。無名庵は 寺の別名。木曾義仲の墓がある。 【ネットワーク】 木曾(源)  義仲  みなもと の よしなか  1154(仁平4、久寿元)年 - 1184(治承8)年3月4日 武将。源頼朝の軍勢に討たれた。▼墓所は滋賀県大津市の義仲寺。芭蕉は 義仲寺が好きで滞在や句会の開催に使用。芭蕉の遺言で墓所は 義仲寺。丈草ら蕉門のメンバーが管理。 各務 支考  かがみ しこう 1665(寛文5)年 - 1731(享保16)年3月14日 俳諧師・蕉門十哲の一人。▼芭蕉の遺書を代筆。「骸は木曽塚に送るべし」の遺志に従い、亡骸を丈草がいる義仲寺に埋葬。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E4%B8%88%E8%8D%89

森川 許六~定型詩でアルケーを知りたい(855)

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今回は俳句。 ▼ 十団子も 小粒になりぬ 秋の風 感想 シャウエッセンも 小粒になりぬ 夏の暮れ ▼ 森川 許六  もりかわ きょりく 俳人・絵師 【プロフィール】 1656(明暦2)年10月1日、滋賀県彦根市生まれ。父親は彦根藩士。  剣術・馬術・槍術・漢詩・絵画を修練。 1670(14) 和歌・俳諧を 北村季吟 に学ぶ。 絵は 狩野安信 の 門葉 (アマチュアの門弟)。 1677(21) 井伊直澄 に仕える。 1681-88(25-32) 父親の転勤に伴い大津に転居。 1689(33) 父親が隠居、家督を相続。近江蕉門の江左尚白に学ぶ。 1691(35) 江戸出張の際、 其角 ・ 嵐雪 に指導を受ける。 1692(36) 江戸転勤に伴い、 芭蕉 に入門。六芸に通じることから芭蕉から「許六」の号を授かる。芭蕉に絵を教える。『 奥の細道行脚之図 』に芭蕉と曽良を描く。 1693(37) 彦根に帰るとき芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授かる。蕉門十哲の一人。彦根の俳諧界のリーダー。  1707(51) らい病を患う。 1710(54) 井伊家を退職、家督を養子に譲る。 1715(正徳5)年9月23日、病気のため彦根で死去。59歳。 【キーワードと感想】 門葉  画を生業としてではなく趣味として楽しむために学ぶ弟子のこと。門人とは別。 【ネットワーク】 北村 季吟  きたむら きぎん 1625(寛永元)年1月19日 - 1705(宝永2)年8月4日 歌人・俳人・和学者。門人に芭蕉・素堂がいる。 花も見つ 郭公(ほととぎす)をもまち出でつ この世 後の世おもふ事なき  ▼許六の最初の和歌・俳諧の師匠が季吟。 狩野 安信  かのう やすのぶ 1614(慶長18)年1月10日 - 1685(貞享2)年10月1日 狩野派の絵師。狩野孝信の三男で、狩野探幽、狩野尚信の弟。▼許六は安信の門葉。 井伊 直澄  いい なおすみ 1625(寛永2)年8月17日 - 1676(延宝4)年2月16日 大名・近江彦根藩第4代藩主。1668-76年、幕府の大老。主君は徳川家綱。▼許六は直澄の家臣。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B7%9D%E8%A8%B1%E5%85%AD

志太 野坡~定型詩でアルケーを知りたい(854)

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今回は俳句。 ▼ はき掃除 してから椿 散にけり 感想 ワックスがけ してから小雨 降りにけり ▼ 志太 野坡  しだ やば 俳諧師 【プロフィール】 1662(寛文2)年2月21日、越前福井の生まれ。  江戸に行き、 両替商 の越後屋で手代。 其角 に俳諧を教わる。 1687(15) 其角(26)の俳諧撰集『続虚栗』に作品が初採用。 1693(31) 芭蕉 の指導を受ける。 1694(32) 芭蕉の弟子仲間と『すみだはら』を編集刊行。   ちからなや 膝をかかえて 冬篭り  同年、芭蕉が死去。 1698-1701(36-39) 越後屋の出張で長崎に滞在。 1702-03(40-41) 越後屋を退職。長崎・田代・久留米・日田・博多を行脚、弟子を獲得。 1726(64) 浅生庵を結ぶ。上方や九州で芭蕉の俳風を普及。 1740(元文5)年1月31日、死去。   子規 顔の出されぬ 格子哉 【キーワードと感想】 両替商  金融業のこと。一両小判を銀貨や銭貨に替えたのが由来。 【ネットワーク】 宝井 其角  たからい きかく 1661(寛文元)年8月11日 - 1707(宝永4)年4月2日 俳諧師。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%A4%AA%E9%87%8E%E5%9D%A1