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寂蓮法師~百人一首でアルケーを知りたい(956)

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▼ 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ  87 感想 寂蓮は、後鳥羽天皇に「 なをざりならず歌詠みし物」「真実の堪能」と一目も二目も置かれた人物。その人物の歌がこの「村雨」で始まり「秋の夕暮れ」で終わる5-7-5-7-7。にわか雨を村雨というところもカッコイイけど、視点のレンズが標準からクローズアップになり広角で霧立ち上る秋の夕暮れ風景を見せてくれる連続的な画面の動かし方が憎いね。この87番歌は 真実の堪能が詠んだ なをざりならず歌やと思ふ。 ▼ 寂蓮法師  じゃくれん  1139保延5年 - 1202建仁2年8月9日 63歳。  平安時代末~鎌倉時代初期の歌人・僧侶・書家。  後鳥羽院歌壇の中核的歌人。   後鳥羽院 の評価:寂連は、 なをざりならず歌詠み し物 なり。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、 真実の堪能 と見えき。 1150(11) 叔父・ 藤原俊成 (36) の養子。従五位上・中務少輔に至る。 1167(28) 太皇太后宮亮経盛歌合、1170(31) 左衛門督実国歌合、住吉社歌合に出詠。 1172(33) 出家。諸国行脚の旅。歌道に精進。 1178(39) 別雷社歌合、1179(40) 右大臣 兼実 歌合に参加。 1185(46) 無題百首、1186(47) 西行 勧進の二見浦百首、1187(48) 殷富門院大輔百首、句題百首に参加。 1190(51) 花月百首に参加。出雲大社に参詣。東国旅行。 1193(54) 九条良経 主催の六百番歌合に参加。 1201(62) 和歌所寄人。『 新古今和歌集 』の撰者に加わるも翌年死去。 秋を歌う。 月はなほもらぬ木の間も住吉の 松をつくして秋風ぞ吹く 【キーワードと感想】 新古今和歌集  しんこきんわかしゅう。1201年、後鳥羽院の勅命で編纂された勅撰和歌集。編集方針は『万葉集』と既存の勅撰和歌集に採られなかった和歌から撰ぶ。撰者:源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6名。1210年、完成。全二十巻。 【ネットワーク】 藤原 俊成  ふじわら の としなり 1114永久2年 - 1204元久元年12月22日 平安時代後期~鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原俊忠の子。百人一首83: よのなかよ 道こそなけれ 思ひ入る 山の

西行法師~百人一首でアルケーを知りたい(955)

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▼ なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな  86 感想 西行は、 伊勢神宮を参拝したとき「 何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 淚こぼるる」と歌った人物。その感覚にとても共感。その西行が月を歌ったこの歌が百人一首に収められた。歌い手、選び手ともに、いずこの高みにおはしますをば知らぬほど。 ▼ 西行法師  さいぎょう 1118元永元年 - 1190文治6年3月23日 72歳。  平安時代末期~鎌倉時代初期の武士・僧侶・歌人。   藤原俊成 や 慈円 と交流。 1133(15) 徳大寺家に出仕。 1135(17) 左兵衛尉。 鳥羽院 の 下北面の武士 。 1140(22) 出家。西行法師と名乗る。 惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ 1141(23) 知人(俊成?)が 崇徳院 の勅勘を蒙ったので取りなす。 崇徳院が俊成へのお怒りの気持ちを表した歌: 最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ 西行が、まあそう仰らず、なんとか許して差し上げてはどうかという返し: つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて 1149(31) 高野山に入る。 1156(38) 保元の乱。敗北した崇徳院は讃岐に配流。  1164(46) 崇徳院が讃岐で死去。 1168(50) 崇徳院の墓所・白峯陵を訪ねる。 弘法大師 の遺跡も巡る。 1180-85(62-67) 源平合戦 。 1186(68) 東大寺再建の勧進旅行。鎌倉で 源頼朝 (39) と会い、歌道や武道の話をする。頼朝に弓馬の道を尋ねられ「一切忘れはてた」と答える。 1190(72) 大阪南河内の弘川寺の庵居で死去。 願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ 【キーワードと感想】 北面の武士   ほくめんのぶし。 11世紀末に白河法皇が創設した 直属軍 。ミッションは 上皇の身辺警衛等。 御所の北面(北側の部屋)に詰めた。 上北面と下北面があり、前者に文官、後者に武士がいた。 源平合戦  げんぺいがっせん  後白河法皇 ・ 源頼朝 vs安徳天皇・ 平清盛 。時期は1180治承4年~1185元暦2年。治承・寿永の乱。 【ネットワーク】 鳥羽天皇  とばてんのう 1103康和5年2月24日 - 1156保元元年7月2

俊恵法師~百人一首でアルケーを知りたい(954)

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▼ 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり  85 感想 「夜もすがら」から詠み手の時間の流れが分かる。「 もの思ふ」から詠み手の行動が分かる。「 寝屋の隙」から詠み手の居場所が分かる。言葉を反芻すると共感の気持ちが湧いてくる。これが詠み手の力量、これが和歌の時間超越コミュニケーション作用。 ▼ 俊恵法師  しゅんえ 1113永久元年 - 1191建久2年 78歳。  平安時代末期の僧・歌人。父は 源俊頼 。 鴨長明 の師。 1129(16) 父が死去。東大寺で僧になる。 1153-(40-) 自坊「歌林苑」に 藤原清輔 ・ 源頼政 ・ 道因 らが集まり歌会を行った。 参加した歌合せ:1160(47) 清輔朝臣家歌合、1167(54) 経盛朝臣家歌合、1170(57) 住吉社歌合、1172(59) 広田社歌合、1179(66) 右大臣家歌合。 藤原俊成と交流。 山は雪、麓は雨、と天気を詠んだ歌。 み吉野の山かきくもり雪ふれば 麓の里はうちしぐれつつ 見ると得した気分になる風景を歌った歌。 夕立のまだ晴れやらぬ雲間より おなじ空とも見えぬ月かな 別の心をよめる かりそめの別れと今日を思へども いさやまことの旅にもあるらむ 【キーワードと感想】 【ネットワーク】 源 俊頼  みなもと の しゅんらい 1055天喜3年 - 1129大治4年1月22日 平安時代後期の貴族・歌人。俊恵の父親。百人一首74: うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは いのらぬものを 藤原 清輔  ふじわら の きよすけ 1104長治元年 - 1177治承元年7月17日 平安時代末期の公家・歌人。藤原顕輔の次男。俊恵の和歌仲間。百人一首84: ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 源 頼政  みなもと の よりまさ 1104長治元年 - 1180治承4年6月20日 平安時代末期の武将・公卿・歌人。源仲政の長男。俊恵の和歌仲間。以仁王と挙兵、すぐ鎮圧。 藤原 敦頼  ふじわら の あつより 1090寛治4年 - 1182寿永元年 平安時代後期の貴族・歌人・僧。 道因 法師。俊恵の和歌仲間。百人一首82: 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり 藤原 俊成  ふじわら の としなり 1114永久2年 - 1

藤原 清輔~百人一首でアルケーを知りたい(953)

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▼ ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき  84 感想 しっくりこないと思う日々でも、時間が経ってしまえば、懐かしく思い出すのかも知れない、というポジティブな考え方の歌。押しつけがましさがないの良い。 ▼ 藤原 清輔  / 藤原清輔朝臣 ふじわら の きよすけ  1104長治元年 - 1177治承元年7月17日 73歳。  平安時代末期の公家・歌人。 藤原顕輔 の次男。平安時代の歌学の大成者。  主君:崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 1144(40) 父の顕輔が 崇徳院 の命で『 詞花集 』を撰集。手伝うも意見は採用されず。 1150(46) 崇徳院主催の『久安百首』に参加。歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上。 1153(49) 『人丸勘文』を著す。類題和歌集『和歌一字抄』を編集。 1155(51) 父から歌道師範家六条家を引き継ぐ。 1156(52) 従四位下。 1158(54) 和歌の百科全書『 袋草紙 』を完成。 1159(55) 『袋草紙』を 二条天皇 に献上。 1165(61) 私撰集『 続詞花和歌集 』を完成。 九条兼実 の師範。 古人の空き家を訪ねて隙間風に風情を感じる歌: 山人の昔の跡をきてみれば むなしき床をはらふ谷風 人麿 の墓に卒都婆たて侍るとてかきつけ侍りける 世をへても逢ふべかりける契りこそ 苔の下にも朽ちせざりけれ 【キーワードと感想】 『 詞花和歌集 』 しかわかしゅう。1150年完成の勅撰和歌集。崇徳院が藤原顕輔に撰進を命じた。 『 袋草紙 』  ふくろぞうし。 清輔が 1156~59年に作った 歌論書 。 『 続詞花和歌集 』 しょくしかわかしゅう。1165年完成の私撰集。和歌を好む二条天皇が清輔に『続詞花集』の撰進を命じた。完成前に天皇が亡くなり、私撰集として完成させた。 【ネットワーク】 藤原 顕輔  ふじわら の あきすけ 1090寛治4年 - 1155久寿2年6月8日 平安時代後期の公家・歌人。左京大夫顕輔 百人一首79: 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれいづる月の 影のさやけさ 崇徳天皇  すとくてんのう 1119元永2年7月7日 - 1164長寛2年9月14日 第75代天皇。鳥羽天皇の第一皇子。崇徳院。百人一首77: 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても

藤原 俊成~百人一首でアルケーを知りたい(952)

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▼ よのなかよ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる  83 感想 この世から逃れる道などない、どこに行っても同じ、の意。90歳で大往生の藤原俊成のお言葉。 ▼ 藤原 俊成  / 皇太后宮大夫俊成 ふじわら の としなり  1114永久2年 - 1204元久元年12月22日 90歳。  平安時代後期~鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原俊忠の子。   後鳥羽院 の評:たかくすみたるを先として艶なるさまもあり。やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき。 1124(10) 父俊忠が死去。義兄の後見を得て国司を歴任。 1131-35(17-21) 岳父為忠主催の「為忠家百首」に出詠。 1138(24) 藤原基俊 に師事。 1140-41(26-27) 「述懐百首」発表。不遇の悲嘆や出家への迷いを歌う。 1150(36) 崇徳天皇 から「久安百首」に詠進の声がかかる。 1156(42) 保元の乱。崇徳院歌壇が崩壊。 1167(53) 公卿。 1176(62) 出家。 1178(64) 九条兼実 と初会談、九条家歌壇の師となる。 1188(74) 後白河院 に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。 1201(87) 和歌所寄人。 1202(88)「千五百番歌合」で判者。 1203(89) 後鳥羽院 より九十賀宴を賜る。 1204(90) 「祇園社百首」「春日社歌合」に出詠。   夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里 【キーワードと感想】 保元の乱  ほうげんのらん。1156年7月に起こった政変。後白河天皇+藤原忠通vs崇徳上皇+藤原頼長。結果、後白河天皇方の勝利。頼長は戦死、崇徳上皇は讃岐に配流。「武者の世」の始まり。 【ネットワーク】 藤原 基俊  ふじわら の もととし 1060康平3年 - 1142永治2年2月13日 平安時代後期の公家・歌人・書家。俊成の師匠。百人一首75: ちぎりおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり 崇徳天皇  すとくてんのう 1119元永2年7月7日 - 1164長寛2年9月14日 第75代天皇。鳥羽天皇の第一皇子。崇徳院。百人一首77: 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 九条 兼実  くじょう かねざね 1149久安5年 - 1207建永2年5月3日 平安時代末期~鎌倉時代初期の公卿。

藤原 敦頼~百人一首でアルケーを知りたい(951)

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▼ 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり  82 感想 この歌の作者の道因法師は、歌人としてのデビューは高齢者になってからのよう。それまでは役人として勤め上げたよう。立派な生き方だ。伊能忠敬を連想する。92歳の長寿の人であったことがめでたい。 ▼ 藤原 敦頼  /  道因 法師 ふじわら の あつより  1090寛治4年 - 1182寿永元年 92歳。  平安時代後期の貴族・歌人・僧。 俊恵 の和歌の会のメンバー。 1160(70) 太皇太后宮大進清輔歌合に参加。 1170(80) 左衛門督実国歌合に参加。 1172(82) 藤原清輔 が催した暮春白河尚歯会和歌に参加。  広田社歌合を勧進。出家。道因と称する。 1175(85)と1179(89) 右大臣兼実歌合に参加。 1178(88) 別雷社歌合に参加。 月を詠んだ歌。季節の移りを感じさせる素晴らしい歌。 月のすむ空には雲もなかりけり うつりし水は氷へだてて 月みればまづ都こそ恋しけれ待つらむとおもふ人はなけれど 述懐の歌とてよめる いつとても身のうきことはかはらねど 昔は老をなげきやはせし 月と老いを詠んだ歌。 身につもる我がよの秋のふけぬれば 月みてしもぞ物はかなしき 【道因にまつわる話】 鴨長明 『無名抄』に出てくる道因のエピソード  その1:道因は歌への執心が深く、秀歌を得ることを祈って住吉神社に月参した。 その2: 藤原俊成 が『千載和歌集』に道因の和歌を十八首採用した。すると道因が俊成の夢に現れて涙を流して喜んだ。これを俊成が憐れに思いさらに二首加え二十首にした。 『歌仙落書』の道因評 風体義理を先としたるやうなれども、すがたすてたるにあらず。すべて上手なるべし。 【ネットワーク】 藤原 清輔  ふじわら の きよすけ 1104長治元年 - 1177治承元年7月17日 平安時代末期の公家・歌人。藤原顕輔の次男。百人一首84: ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 俊恵  しゅんえ 1113永久元年 - 1191建久2年 平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。百人一首85: 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり 藤原 俊成  ふじわら の としなり 1114永久2年 - 1204元久元年12月22日 平安時代後期~鎌

徳大寺 実定~百人一首でアルケーを知りたい(950)

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▼ ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる  81 感想  音がする方を見ると、姿はなく、ただ月が出ている・・・。 ドラマチックで、状況が絵になる カッコいい 歌。 藤原俊成とは友達同士のやりとりを和歌でしていて、ほっこりする (下の本文で紹介)。和歌の手練れだっただけに、 先輩の俊恵に、実定は年を取ってから和歌の 精進を怠ったと批判される。これも面白い。 ▼ 徳大寺 実定  / 後徳大寺左大臣 とくだいじ さねさだ  1139保延5年 - 1192建久2年2月1日 53歳。  平安時代後期~鎌倉時代初期の公卿・歌人。徳大寺公能の長男。  詩歌管絃に優れ、教養豊かな文化人。 藤原俊成 と和歌友達。 1144(5) 元服。 1156(17) 左近衛権中将、公卿。 1160(21) 中納言。 1164(25) 権大納言。 平家との政治的競合に敗れ 散位 に留まる。和歌活動に熱意。 1177(38) 左近衛大将。 1183(44) 内大臣。 1185(46) 源頼朝 の推挙で 議奏 公卿に指名。 1186(47) 右大臣、1189(50) 左大臣。 九条兼実 の片腕。 1191(52) 出家。 秋の歌三首。 夕かけてならの葉そよぎふく風の まだき秋めくかむなびの森 ゆく秋のたむけに紅葉ちりまがひ かむなび山をともにこえつる 秋きぬとおどろかれけり窓ちかく いささ群竹かぜそよぐ夜は 雪の朝、 藤原俊成 が後徳大寺左大臣につかはした和歌:   けふはもし君もや問ふとながむれど まだ跡もなき庭の雪かな  今日はもしかしたらキミが来るかと思って庭を見たけど雪に足跡がないなあ。 返し: 今ぞきく心は跡もなかりけり 雪かきわけて思ひやれども  それを聞いて今初めて心では雪に跡を残せない、と知ったよ。思いでは雪をかき分けて行ったんだぜ。 【キーワードと感想】 散位  さんい。業務がなく位階だけの人。 議奏  ぎそう。太政官が政務を審議し結論を天皇に上奏すること。 【ネットワーク】 俊恵  しゅんえ 1113永久元年 - 1191建久2年 平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。百人一首85: 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり  徳大寺実定が晩年に和歌作りの精進を怠ったと批判。 藤原 俊成  ふじわら の としなり 1114永