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鴨長明と承久の乱~アルケーを知りたい(986)

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▼ 鴨長明 は「 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし 」で始まる『方丈記』の著者。 ▼46歳のとき 後鳥羽上皇 の推しで和歌所の編纂メンバーに入る。同じ年、後鳥羽上皇は 承久の乱 を起こす。 ▼キャリアを見ると、禰宜だった父親の跡を継げなかったり、源実朝の和歌の師匠にもなれなかった。残念な思いをしたことだろう。 ▼長明の和歌には、ほの暗さの中で見える景色をスケッチしたような静かな趣がある。 ▼ 鴨 長明  かもの ちょうめい / ながあきら  1155久寿2年 - 1216建保4年7月26日 61歳。  平安時代末期~鎌倉時代前期の歌人・随筆家・琵琶演奏家。和歌の師匠は 俊恵 。 1161(6) 従五位下。 1172(17) 下鴨神社の禰宜の父親が死去。歌作に打ち込む。 1175(20) 俊恵に弟子入り。 石清水宮若宮社歌合、正治後度百首、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、 俊成 卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠。 1201(46) 後鳥羽上皇の推薦で和歌所寄人。 承久の乱 。 1204(49) 下鴨神社禰宜の後任争いで負ける。和歌所を辞して出家。 1208(53) 京都市伏見区日野町で庵を結ぶ。 1211(56) 飛鳥井雅経 が 源実朝 の和歌の師匠として推薦。鎌倉で面接するも不合格。 1212(57) 日本の三大随筆の一つ『 方丈記 』完成。 1216(61) 仏教説話集『発心集』完成。 ▼鴨長明の和歌 と*勝手に解釈 袖にしも月かかれとは契りおかず 涙は知るや宇津の山ごえ *袖が涙に濡れたら月が反射する約束などしていなかったけど、涙は私が宇津の山を越えるのを知っていたのか。 夜もすがら独りみ山のまきの葉に くもるもすめる有明の月 *夜もすがら一人で山の木の葉の眺めていると、それまでぼんやりと曇っていた有明の月が澄んできた 身の望みかなひ侍らで、社のまじらひもせで籠りゐて侍りけるに、葵をみてよめる 見ればまづいとど涙ぞもろかづら いかに契りてかけはなれけん *(鴨神社の祭で用いられる)諸蔓を見ると涙が出てくる。どんな約束があったから鴨神社と離れることになったのか。 あれば厭ふそむけば慕ふ 数ならぬ身と心とのなかぞゆかしき *うまく行けば嫌がり、反発すれば慕う、物の数にも入

藤原定家と承久の乱~アルケーを知りたい(985)

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▼ 藤原定家 は、百人一首97番歌「 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ 」の作者。本シリーズの962回に登場した人物。 ▼定家は時々「やらかす」人物。23歳のとき、イベント会場でバカにしてきた源雅行に怒り、棒で殴ったので謹慎処分を食らう。58歳のとき、昇進の不満を和歌に詠んだところ、これを見た 後鳥羽上皇 が怒り、勅勘を食らう。 ▼定家は親幕府側だったので 承久の乱 以後は昇進して勝ち組生活。 ▼直情径行さに親しみが湧く、強情さにはちょっと引く。和歌をセレクトして小倉百人一首を作ってくれたのはグッドジョブ。 ▼ 藤原 定家  / 権中納言定家 ふじわら の さだいえ/ていか 1162(応保2)年 - 1241(仁治2)年9月26日 79歳。  平安時代末期~鎌倉時代初期の公家・歌人。 藤原俊成 の二男。 1175(13) 侍従。 1185-86(23-24) 源雅行への暴行で除籍。 1189(27) 左近衛少将。 1201(39) 「千五百番歌合」に参加。「新古今和歌集」の編纂メンバー。 1202(40) 左近衛権中将。1214(52) 参議。 1220(58) 昇進の不満を詠んだ定家の和歌を見た後鳥羽上皇が怒り自宅謹慎処分。 1221(59) 承久の乱 。後鳥羽上皇が配流。 1222(60) 従二位。1227(65) 正二位。 1232(72) 権中納言。 1233(73) 出家。 1235(75) 宇都宮頼綱の頼みを受け『 小倉百人一首 』を撰じる。 ▼定家の和歌と*勝手に解釈 春の夜の夢の浮橋とだえして 峰に別るる横雲の空 *春の夜の夢に出てきた浮橋が途中で途絶えている、空を見ると山の峰で雲が別れている。 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ *見渡してみると花も紅葉もありゃしない。浦の苫葺き小屋で秋の夕暮れ時だ。 忘るなよ宿るたもとはかはるとも かたみにしぼる夜はの月影 *忘れるんじゃないよ、宿る場所は変わっても、形見として大事にするのは夜の月影だ。 藻塩くむ袖の月影おのづから よそに明かさぬ須磨の浦人 *藻塩を汲む袖から月影が。製法を漏らさない須磨の浦の人たち。 見るも憂し思ふも苦し数ならで など古を偲びそめけむ *見れば憂いたくなり、思っても苦しい数々のこと。昔をのことをしのんでいると。 ももしきのとのへを出づ

藤原家隆と承久の乱~アルケーを知りたい(984)

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▼ 藤原家隆 は、百人一首98番歌「 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける 」の作者。本シリーズの963回に登場した人物。 ▼家隆は、43歳で 後鳥羽上皇 の推しで『新古今和歌集』の撰者になった歌人。 ▼ 承久の乱 の後、後鳥羽上皇が隠岐に配流された後も、上皇の歌合せに参加して後鳥羽歌壇の一員であり続けた。 ▼大阪湾に沈む夕日が見える場所に 夕陽庵 を結ぶ、というライフスタイルがお洒落。大阪湾は昔は「 ちぬの海 」と呼ばれていた。子供のころ安心院町の「ちの」という地区に住んでいたのを思い出した。 ▼ 藤原 家隆  ふじわら の いえたか 従二位家隆。 1158保元3年 - 1237嘉禎3年5月5日 79歳。  鎌倉時代初期の公卿・歌人。和歌の師匠が 藤原俊成 。 1177(19) 侍従。 1186(28) 西行 勧進の「二見浦百首」に参加。 1187(29)「殷富門院大輔百首」「閑居百首」に参加。 1192(34) 九条良経 主催の「六百番歌合」に参加。 九条良経の家隆評:末代の 人丸 。 1195(37) 後鳥羽院歌壇のメンバー入り。後鳥羽院の家隆評:秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。 1201(43) 従四位下。和歌所で寄人。『新古今和歌集』の撰者。 1206-20(48-62)宮内卿。 1221(63) 承久の乱 。後鳥羽院は隠岐に配流。 1226(68) 「家隆後鳥羽院撰歌合」で判者。 1235(77) 従二位。 1236(78) 隠岐で後鳥羽院が主催した「遠島御歌合」に詠進。 1237(79) 出家。摂津国四天王寺で 夕陽庵 を結び、 ちぬの海 (大阪湾)に沈む夕日を好んだ。現在、大阪市天王寺区夕陽丘。 ▼藤原家隆の和歌 旅歌 野辺の露うらわの波をかこちても 行くへもしらぬ袖の月かげ *野の草の露や岸辺の波のせいにしてみたけれど、塗れた袖に映る月影はどこに行くのか 明けばまた越ゆべき山の峰なれや 空行く月の末のしら雲 *夜が明ければこれから越える山の峰の空に雲を引き連れた月が昇っている 君が代にあふくま川のむもれ木も 氷の下に春をまちけり *今の世に生まれ合わせ、川の流れの下の埋もれ木のようになっているけど、氷の下で春を待っているのだ 西行法師、百首歌すすめてよませ侍りけるに いつかわれ苔の袂に露おきて しらぬ山ぢ

飛鳥井 雅経と承久の乱~アルケーを知りたい(983)

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▼ 飛鳥井 雅経 は、百人一首94番歌「 み吉野の 山の秋風 小夜ふけて ふるさとさむく 衣うつなり 」の作者。本シリーズの959回に登場した人物。 ▼京都で生まれ育ち、10歳から27歳まで鎌倉暮らし、以降は京都に戻り時々鎌倉と往復。源頼朝ファミリーと仲良く、後鳥羽上皇の歌壇メンバーというネットワークの人。 ▼雅経が死去したのは1221年4月5日、その4月の下旬に後鳥羽上皇が兵を集めて承久の乱を起こした。 ▼雅経の和歌はどれも百人一首に採られた歌から感じられる雰囲気が共通している。ここでは月を詠んだ歌をいくつか見た。 ▼ 飛鳥井 雅経  / 参議雅経 あすかい まさつね  1170嘉応2年 - 1221承久3年4月5日 51歳。  平安時代末期~鎌倉時代前期の公卿・歌人。  父親は源義経の同盟者・難波頼経の次男。 1180(10) 従五位下。 蹴鞠の才 能を祖父の頼輔に見出され、特訓を受ける。  源頼朝・義経兄弟が対立、父は一貫して義経側だったため伊豆に配流。  京都にいた雅経は鎌倉に下向、 頼朝 から可愛がられ猶子になる。   頼家 ・ 実朝 と親交。   大江廣元 の娘と結婚。 1197(27) 後鳥羽上皇 の命により上洛。侍従。 院の蹴鞠の師 。以後も 鎌倉幕府の招きで鎌倉へ度々下向。 1198(28) 鳥羽百首・正治後度百首・千五百番歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合などの歌会・歌合に参加。 1201(51) 和歌所寄人、新古今集撰者の一人。  後鳥羽院の評: 雅経は殊に案じかへりて歌詠みしものなり。手だりとみえき 。 1208(58) 後鳥羽院から 蹴鞠長者 の称号を授かる。 1211(61) 鴨長明 を実朝の和歌の師匠に推挙。一緒に鎌倉に下向して実朝に紹介するも師弟関係は成立せず。 1218(48) 従三位。 1220(50) 参議。 1221(51) 4月上旬に死去。下旬に承久の乱。 ▼雅経の和歌 たづねきて花に暮らせる木の間より 待つとしもなき山の端の月 *花を見にやって来て一日過ごしていると、木々の間に見える山の端から月が昇っていた。 建保四年、後鳥羽院に百首歌奉りける時 秋の夜の月にいくたびながめして 物思ふことの身につもるらむ *秋の夜、月を繰り返し眺めてしまう。物思いすることが身に積もっている。 葦辺ゆく鴨の羽風もさむき夜に まづ影こほる三島江

源実朝と承久の乱~アルケーを知りたい(982)

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▼ 源実朝 は、百人一首93番歌「 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 」の作者。本シリーズの958回に登場した人物。 ▼実朝は後鳥羽上皇と良好な関係だった。しかし兄・頼家の息子に殺されてしまう。その2年後に後鳥羽上皇が承久の乱を起こす。 ▼ 実朝は すごくビジュアルな和歌の詠み手。映像が浮かんでくるよう。実朝のダーク気味な映像世界に引き込まれる。 ▼ 源 実朝  / 鎌倉右大臣 みなもと の さねとも  1192(建久3)年9月17日 - 1219(建保7)年2月13日 27歳。  鎌倉幕府第3代征夷大将軍(鎌倉殿)。 源頼朝 の次男。 1204(12) 元服。 後鳥羽上皇 が実朝と名付ける。 1208(16) 重い疱瘡を患う。回復後、人に会うのを避ける。 1209(17) 藤原定家 に自作の和歌三十首の撰を依頼。 1211(19) 飛鳥井雅経 (61) が 鴨長明 (56)を実朝に紹介。 1213(21) 定家から御子左家相伝の万葉集をプレゼントされ大喜びする。 1216(24) 権中納言。 大江廣元 が急すぎる昇進を諌める: 今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を管領し中納言中将に昇られる 。 1218(26) 権大納言。 1219(27) 鶴岡八幡宮で公暁に襲われ落命。 ▼実朝の和歌 湊風いたくな吹きそしながどり 猪名の水うみ船とむるまで *港の風よ、激しく吹かないでくれ。猪名の港に船を泊めるまで。(万葉集的な印象の歌) 也良の崎 月影さむし沖つ鳥 鴨といふ舟うき寝すらしも *月影も寒々しい也良の崎の沖に鳥が浮かんでいる。鴨という舟は浮きながら寝ているのか。 旅をゆきし跡の宿守おのおのに わたくしあれや今朝はいまだ来ぬ *私の旅行中、留守番していた連中は、それぞれ用事でもあるのか今朝はまだ出勤していない。 箱根路を我が越えくれば 伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ *箱根の道を越えると、伊豆の海や沖の小島に波が打ち寄せている風景が見える。 わたつ海のなかにむかひて出づる湯の いづのお山とむべも言ひけり *海の中に向かって出ている温泉だから、伊豆の御山と言うのだね。 伊豆の国や山の南に出づる湯の はやきは神のしるしなりけり *伊豆の国の山の南で湧き出ている温泉の勢いの早さは神がかっている。 もののふの矢並つくろふ籠手

西園寺 公経と承久の乱~アルケーを知りたい(981)

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▼ 西園寺 公経 は、百人一首96番歌「 花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり 」の作者。本シリーズの961回に登場した人物。 ▼「幕府に追従」「保身と我欲に汲々とした奸物」「世の奸臣」と散々に言われている。 ▼「琵琶と書に秀で多芸多才」「処世は卓越、荘園と宋との貿易収入で豪華奢侈」との評もある。 ▼承久の変は朝廷と幕府の対立だったので、変の後、ぎくしゃくしてもおかしくない。そこを 公経が幕府の意向を汲んで 朝廷をマネジメントした。これは幕府・朝廷両者にとって意義のある仕事だったと思う。 【 承久の乱 】じょうきゅうのらん。1221承久3年に起きた朝廷・後鳥羽上皇VS鎌倉幕府・北条義時の戦い。結果は、鎌倉幕府の勝ち。後鳥羽上皇は隠岐島配流。武家政権が始まる。 ▼西園寺 公経 / 入道前太政大臣 さいおんじ きんつね 1171承安元年 - 1244寛元2年10月2日 73歳。  平安時代末期~鎌倉時代前期の公卿・歌人。 1179(8) 従五位上。1187(16) 従四位下。1196(25) 蔵人頭。1198(27) 参議。1206(35) 中納言。1218(47) 大納言。 1219(58) 実朝が暗殺。4代目鎌倉殿に 1歳の孫・三寅( 九条頼経 )=娘婿・ 九条道家の息子= を下向させる。鎌倉では 北条政子 が 三寅の 後見となり、鎌倉殿を代行。 1221(50) 承久の乱 。幕府と親しかったので、 後鳥羽上皇 から敵認定されて幽閉される。乱の後、関東申次= 朝廷と幕府の間で調整する役 。内大臣。幕府の意向を受けて朝廷を主導。 1222(51) 太政大臣。 1223(52) 従一位。 1242(71) 四条天皇が崩御。道家は順徳上皇の皇子を推す。幕府は承久の変で後鳥羽上皇側だった順徳上皇の皇子に難色を示し、敵対しなかった 土御門上皇 の皇子・邦仁王を推す。この状況を見て公経は邦仁王を第88代天皇に即位させる。 後嵯峨天皇 。 ▼公経の和歌 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり *嵐が庭に舞う雪のように花を降り散らしている。が、降り散っているのは私自身なのではないか。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%

西行と承久の乱~アルケーを知りたい(980)

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▼ 西行 は、百人一首86番歌「 なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな 」の作者。本シリーズの955回に登場した人物。 ▼東大寺再建の資金集めのため鎌倉の 源頼朝 を訪ねたところ、歌道の話で盛り上がった。この話から頼朝の文人の側面が伝わる。 ▼頼朝は 西行が若いころ武士だったのを知っていたので、 武道の話題を振ると、西行は「忘れ果てた」と言って乗らなかった。ここから西行が良い感じの人物であったことが伺える。 ▼ 西行法師  さいぎょう 1118元永元年 - 1190文治6年3月23日 72歳。  平安時代末期~鎌倉時代初期の武士・僧侶・歌人。 1135(17) 鳥羽院 の下北面武士。 1140(22) 出家。西行法師と名乗る。 惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ *この世は何かを惜しめばうまくいく、というものではない。身を捨ててこそ身を助けるというもの。 1141(23) 友達の 藤原俊成 が 崇徳院 の勅勘を蒙ったので取りなすために和歌を交換。 崇徳院: 最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ *最上川では船を綱で引いて動かす。でも私は俊成にプンプン怒っているので、しばらくは錨を下ろして動かさないぞ。 西行の返し: つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて *そうおっしゃらず錨=怒りを収めて、船を綱で引いて動かしましょうよ、俊成を許してやりましょうよ。 1156(38) 後白河天皇 VS崇徳上皇の 保元の乱 。崇徳上皇が敗け、讃岐に配流。  1164(46) 崇徳院が讃岐で死去。 1168(50) 崇徳院の墓所・白峯陵を訪ねる。 1180-85(62-67) 源平合戦。 1186(68) 東大寺再建の資金を募る旅に出る。鎌倉で源頼朝(39) と会い、歌道や武道の話をする。頼朝に弓馬の道を尋ねられ「 一切忘れはてた 」と答える。頼朝から銀製の猫をプレゼントされる。 1188(70) 慈円 (33)が西行勧進の二見浦百首に出詠。 1190(72) 大阪・弘川寺の庵で自分が詠んだ和歌の通りに死去。 願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ ▼西行の和歌 つくづくと物を思ふにうちそへて 折あはれなる鐘の音かな *物思いにふけっているとちょうと鐘の音が聞こえて