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喜撰の歌~アルケーを知りたい(1071)

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▼ 喜撰 は百人一首8番歌「 我が庵はみやこのたつみしかぞ住む 世を宇治山と人は言ふなり 」の作者。 ▼「しかぞ住む」は「鹿が住んでいる」と思った。違うみたいだけどまだ不都合を感じないのでそのままにしておこう。▼それはそれとして「我が庵は都の辰巳(たつみ)」のフレーズがカッコいい。 ▼マネして「我が庵は都の酉(とり)」と言ってみたらリズムが芳しくない。なぜ酉かというと、住まいの調布は都庁からみて西方向だから。 ▼あらためて「都の辰巳」のカッコよさとリズムの良さを再確認した。 ▼喜撰法師 きせん  ? - ?  平安時代初期の真言宗の僧・歌人。宇治山に住んだ僧。六歌仙の1人。 古今和歌集仮名序の喜撰評:ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず。その例が★。 ▼喜撰の和歌と*勝手に解釈 題しらず ★ わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり *わが庵は都から見て辰巳(東南)の方向にある。鹿も住んでいるよ。世間はこういう私を宇治山と言う。 題しらず 木の間より見ゆるは谷の蛍かも いさりにあまの海へ行くかも *木の間から見えるのは谷を飛ぶ蛍だろうか。漁師の釣り舟の 明かりだろうか。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E6%92%B0 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kisen.html

二条院讃岐の歌~アルケーを知りたい(1070)

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▼ 二条院讃岐 は百人一首92番歌「 わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 」の作者。 ▼この歌で「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになったという。自分を象徴する歌を持つのは良いなと思う。 ▼二条院讃岐 にじょういんのさぬき  1141永治元年 - 1217建保5年 76歳。 平安時代末期~鎌倉時代前期の歌人。 源頼政 の娘。 二条天皇 に 内裏女房として 仕え、 内裏歌会に出詠。父と親しかった 俊恵 法師( 85番歌 )の歌林苑での歌会にも参加。 1196(55) 出家。 ▼二条院讃岐の和歌と*勝手に解釈 わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし *私の袖は潮が引いても見えない沖の石のように人に知られることもなく涙で乾く間もない。 山家 山里は野原につづく庭の面に 植ゑぬ籬の花を見るかな *山里の家では庭と野原の境がはっきりせず植えた覚えのない籬(まがき)の花が見られます。 応用 山里は法面につづく庭の面に 植ゑぬ野苺の花を見るかな 昔住んでいた庵の庭の先が山の法面の緑地帯で、下ると野苺があったのを思い出して作った。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E9%99%A2%E8%AE%83%E5%B2%90 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/n_sanuki.html

殷富門院大輔の歌~アルケーを知りたい(1069)

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▼ 殷富門院大輔 は百人一首90番歌「 見せばやな雄島の海人の袖だにも ぬれにぞぬれし色は変はらず 」の作者。 ▼殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ  1130大治5年 - 1200正治2年 70歳 平安時代末期の歌人。 殷富門院は 後白河天皇 の娘のこと。 俊恵 (85番歌)が主宰した歌林苑のメンバー。 西行 (86番歌)・ 寂蓮 (87番歌)・ 藤原定家 (97番歌)・ 家隆 (98番歌)・ 藤原隆信 ・ 源頼政 と交流。1192(62)年、 殷富門院の出家と共に自らも出家 。 ▼殷富門院大輔の和歌と*勝手に解釈 歌合し侍りける時、恋の歌とてよめる 見せばやな雄島の海人の袖だにも ぬれにぞぬれし色は変はらず *お見せしたいものです。雄島の海人の袖は濡れに濡れても色は変わってないでしょう。しかし、私の涙で濡れた袖の色は赤く変わりました。 命ありてあひ見むこともさだめなく 思ひし春になりにけるかな *命があってまた見られるだろうかと思っていた春と再び巡り会えました。 今はとて見ざらん秋の空までも 思へばかなし夜半の月影 *今が最後だと思って秋の空を見ていると、夜半の月影まで悲しく思えてくる。 きえぬべき露のうき身のおき所 いづれの野辺の草葉なるらん *消えてしまいそうな露のようなわが身の置き所は、どのあたりの野辺の草葉になるのでしょう。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7%E5%AF%8C%E9%96%80%E9%99%A2%E5%A4%A7%E8%BC%94 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

式子内親王の歌~アルケーを知りたい(1068)

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▼ 式子内親王 は百人一首89番歌「 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば しのぶることの弱りもぞする 」の作者。 ▼式子内親王 しきしないしんのう  1149久安5年 - 1201建仁元年3月1日 52歳。 皇族。 後白河天皇 の第3皇女。 以仁王 は弟。1190年、出家。和歌の師匠は 藤原俊成 (83 番歌 ) 。 藤原定家 (97 番歌 ) と親交。 ▼式子内親王の和歌と*勝手に解釈 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば しのぶることの弱りもぞする *わが命、絶えるなら絶えてよし。長く生きれば弱って我慢していたことが表に出てしまうから。 斧の柄の朽ちし昔は遠けれど ありしにもあらぬ世をもふるかな *月日の経つのは早いもので昔は遠くなってしまったけど、いまはありえないような世の中になった。 見しことも見ぬ行く末もかりそめの 枕に浮ぶまぼろしの中 *見たこともまだ見たこともない世の中の行く末も、夢に浮かぶ幻のようだ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

皇嘉門院別当の歌~アルケーを知りたい(1067)

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▼ 皇嘉門院別当 は百人一首88番歌「 難波江の葦のかりねのひとよゆゑ 身をつくしてや恋ひわたるべき 」の作者。 ▼歌合せで出た「 旅宿逢恋 」というお題で詠んだ歌。 ▼皇嘉門院別当 こうかもんいんのべっとう ? - ? 平安時代末期の歌人。父は源俊隆。 1175年『右大臣兼実家歌合』、1178年『右大臣家百首』に出詠。 藤原忠通 (76番歌)の娘で 崇徳天皇 (77番歌) の 皇后である皇嘉門院藤原聖子に仕えたので 皇嘉門院別当 と呼ばれた。 ▼皇嘉門院別当の和歌と*勝手に解釈 摂政右大臣( 九条兼実 = 藤原忠通の六男 )の時の家歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる 難波江の蘆のかりねの一よゆゑ 身をつくしてや恋ひわたるべき *難波江の蘆の仮屋での一夜であるがゆえに、身を尽くして恋をするべきです。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%98%89%E9%96%80%E9%99%A2%E5%88%A5%E5%BD%93 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/k_bettou.html

待賢門院堀河の歌~アルケーを知りたい(1066)

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▼ 待賢門院堀河 は百人一首80番歌「 ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ 」の作者。 ▼「長からむ」というのは別人のセリフ。だから「私は『長からむ』と仰る方の真意が分からない。だから今朝は黒髪が乱れるように物思いをするのです」となる。 ▼資源言語解析技術が発達している今、主語が隠され掛詞を使っている80番歌の意味をコンピュータを使えば把握できるのだろうか。 できちゃうのだろうなあ。どういう仕掛けで解析するんだろう、気になる。 ▼待賢門院堀河 たいけんもんいんのほりかわ ? - ? 平安時代後期の歌人。 鳥羽院 中宮の待賢門院藤原璋子に仕えたことから堀河と呼ばれた。 ▼待賢門院堀河の和歌と*勝手に解釈 百首歌たてまつりける時、恋のこころをよめる 長からむ心もしらず黒髪の みだれてけさは物をこそ思へ *「末永く」と仰る人の本当の気持ちが分からないので髪が乱れるように思いも乱れます。 すむかひもなきよながらの思ひ出は 浮雲かけぬ山の端の月 *生きている甲斐もないこの世の思い出と言えば、浮き雲ひとつかかってない山ぎわの月の姿です。 のこりなく我がよふけぬと思ふにも かたぶく月にすむ心かな *この世に生きる時間も残り少なくなったと思いながら傾く月を見ていると澄んだ気持ちになります。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%85%E8%B3%A2%E9%96%80%E9%99%A2%E5%A0%80%E6%B2%B3 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/taiken_h.html#VR

祐子内親王家紀伊の歌~アルケーを知りたい(1065)

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▼ 祐子内親王家紀伊 は百人一首72番歌「 音にきく高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 」の作者。 ▼これが噂に聞いていた大阪湾 高師の浦の「あだ波」か、しぶきがかかって袖が濡れないようにしなくては、と解釈。どこの浜でも波は暴れると思うけど、かつての高師の浦の波はあばれる代表格だったのかな。 ▼祐子内親王家紀伊 ゆうしないしんのうけ の きい ? - ?  平安時代院政期の歌人。 後朱雀天皇 の皇女、 祐子内親王 の女房。 ▼祐子内親王家紀伊の和歌と*勝手に解釈 音に聞く高師の浦のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ *うわさに聞いていた高師の浦の波。かからないようにしましょう、袖が濡れてしまいますから。 海路 舟とめて見れどもあかず松風に 波よせかくる天の橋立 *舟を止めてまで眺めても飽きることがありません。吹いてくる風で天橋立に波が寄せている風景は。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E7%B4%80%E4%BC%8A https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/y_ki.html