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1827、アルミニウム~ヴェーラー(独):アルケーを知りたい(621)

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今回は化学。 ▼ アルミニウム 。元素記号は Al、原子番号13、aluminium。 名前の由来は、ミョウバンのラテン語 alumen、アルーメンに因む。命名は イギリスの化学者デービー 。用途は、一円玉、アルミ缶、建材、自転車・バイク、ジュラルミンの材料。 ▼経緯。 BC450年、 ヘロドトス がミョウバンについて記述。 1530年、スイスの物理学者 パラケルスス はミョウバンを硫酸塩と区別し「ミョウバンの土の塩」と主張。 1595年、神聖ローマ帝国の医師 リバヴィウス は「ミョウバンの土」に「アルミナ」と命名。 1722年、神聖ローマ帝国の化学者 ホフマン は「ミョウバンの土」が別の種類であると宣言。 1754年、神聖ローマ帝国の化学者 マルクグラフ は実験で「ミョウバンの土」を生成。 1825年、デンマークの物理学者 エルステッド が金属アルミニウムの作製に成功したと発表。 1827年、ドイツの化学者 ヴェーラー がエルステッドの実験を再現するもアルミニウムを得られず。師匠のベルセリウス(→598、614)に手紙でエルステッドの結果を「アルミニウムを含有するカリウム」と報告。 アルミニウムの粉末作りに成功。 1845年、ヴェーラーが小さなアルミニウムの塊作りに成功、物性を記述。 1854年、フランスの化学者 ドビーユ がアルミニウムの工業製法を発表。しかし純度が不足。 1886年、フランスの工学者 エルー とアメリカの工学者 ホール が独立してアルミナをアルミニウムに変える手法を発表。ホール・エルー法。現代に続く。 1889年、オーストリアの化学者 バイエル がボーキサイトをアルミナに純化する手法を発表。バイエル 法 (バイヤー 法 )。こちらも現代に続く。 ▼ヴェーラーのここが面白い:尿素の合成で名声を得ていたヴェーラー(36)がゲッティンゲン大学教授になると指導を希望する学生が殺到。このときに行ったヴェーラーの指導方法が斬新だった。一、学生が化学実験室で実験を行う、という今では当たり前のスタイルを実行した。二、ヴェーラーの研究に学生が参加することもヨシとした。この二点で今につながる研究室活動の標準を創造した。 ▼ ヴェーラー  Friedrich Wöhler 1800年7月31日 - 1882年9月23日  ドイツの化学者 有機化学の父 ベルセリウスの

1826、オームの法則~オーム(独):アルケーを知りたい(620)

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今回は物理学。 ▼ オームの法則 。V = I * R ▼この人のここが面白い:オームさんはこれまで何度もご登場願った人。今回は オームにとって良かった人 をピックアップ。まず錠前師の父親。オームが11才でギムナジウムに入るまで数学や物理を教えたり、錠前で遊ばせたりしていたのがヨシ。大学時代の師匠ラングスドルフがオームに独学を勧めたのがヨシ。ヴィルヘルム3世がオームの論文を評価し職場を提供してくれたのがヨシ。イギリスの王立協会がコプリメダルをオームに授与したのはドイツ国内で目立たなかったオームへの注目を集めることになりヨシ。 ▼ オーム  Georg Simon Ohm 1789年3月16日 - 1854年7月6日 ドイツの物理学者。 【人物】父親は錠前師。 【教育】独学の知識人だった父親から数学、物理学、化学、哲学を学ぶ。  1811(22) エアランゲン大学で博士 【職業】1817(28) ケルンのギムナジウムで教師  1833(44) ニュルンベルクの工科学校で教師  1852(63) ミュンヘン大学で実験物理の教授 【業績】1827(38) オームの法則  1841(52) コプリ・メダルを受賞 【ネットワーク】 キャヴェンディッシュ  Henry Cavendish 1731年10月10日 - 1810年2月24日 イギリスの物理学者。科学者の中で一番の金持ちであり、金持ちの中で最も偉大な科学者( ビオ ) ▼1781(50) オームに先駆けてオームの法則を発見していた 。この人のいつもの調子で発表せず。 ラングスドルフ  Karl Christian von Langsdorf 1757年5月18日 - 1834年6月10日 ドイツの数学者 ▼頼ろうとするオームを突き放し独学を勧めた名伯楽。 ヴィルヘルム3世  Friedrich Wilhelm III. 1770年8月3日 - 1840年6月7日 プロイセン王 ▼オームの能力を評価しケルンのギムナジウムの教師職を提供した。オームはそこで16年間教師を務めた。この学校にいる時期にオームの法則を発表した。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Georg_Ohm

1826、アニリン~ウンフェルドルベン(独):アルケーを知りたい(619)

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今回は化学。 ▼ アニリン aniline。ベンゼンの水素原子の一つがNH2で置換された芳香族化合物。無色透明、可燃性、毒性ありの液体。用途は化学製品や薬品を製造するさいの中間物質。 ▼この人のここが面白い:ウンフェルドルベンは大学で化学を学び20才の若さでクリスタリン(後のアニリン)を発見する。そのまま化学の道を歩むかと思いきや、両親の商売を受け継ぐので、その発見はそのままになる。ウンフェルドルベンは商売上手だったようで、葉巻の輸入販売で成功する。一方、アニリンの運命はというと、何人かの化学者の発見によって違う名前を付けられるものの、最後はホフマン大先生によってアニリンで落ち着く。ドイツではアニリンの名前を社名に取り入れた化学会社BASFとなり大発展。イギリスでは目先の利く18才のバーキン君が自宅の実験室でアニリンをいじっているとき世界初の合成染料を作り出し、大成功する。アニリンをめぐる人々はみなハッピーなので、ヨシ。 ▼経緯。 1826年、 ドイツの ウンフェルドルベン がインディゴから得た新しい有機化合物を「クリスタリン」と命名。 1834年、 ドイツの ルンゲ がコールタールを蒸留した液体から新物質を取り出し「キアノール」と命名。 1841年、ドイツの フリッツェ がインディゴを苛性カリで蒸留して新物質を得る。インディゴの原料となる植物のサンスクリット語名「アニル anil」から「アニリン」と命名。 その後、 ドイツの ホフマン が彼らの実験を追試し全てアニリンであることを証明。 1856年、イギリスの パーキン がアニリンを試しているとき紫色の染料を得た。これが合成染料の第1号。 ▼ ウンフェルドルベン  Otto Paul Unverdorben 1806年10月13日 - 1873年11月28日 ドイツの化学者、実業家 【人物】父親は豊かな商人。 【教育】ハレ大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で化学を学ぶ。 【職業】実業家。 【業績】 1826(20) 染料のインディゴを熱分解して得た物質をクリスタリン Crystallin と命名。後のアニリン。 1829(23) 両親の事業を引継ぐ。葉巻輸入販売業を営む。化学研究から遠ざかる。 1833(27) 荘園のオーナーになる。 【ネットワーク】 ルンゲ  Friedlieb Ferdinand Rung

1826、臭素~バラール(仏):アルケーを知りたい(618)

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今回は化学。 ▼ 臭素 。元素記号は Br、原子番号35、bromine。刺激臭、猛毒。 名前の由来は、ギリシャ語の悪臭 bromos から bromine。フランス学士院が決定。 ▼用途は難燃剤や写真フィルムの材料。スターの写真をブロマイドという。これは印画紙に臭化銀を用いていたから。 ▼ バラール  Antoine Jerone Balard 1802年9月30日 - 1876年3月30日  フランスの化学者  【人物】モンペリエ生まれの薬剤師 。 【教育】モンペリエの薬学学校卒業 。 【職業】モンペリエ市の役所で化学助手、王立大学で化学教授 。  1842(40) ソルボンヌ大学で教授 。  1851(49) コレージュ・ド・フランスで教授 。 【業績】 1826(24)臭素を発見 。 【ネットワーク】 レーヴィヒ  Carl Jacob Löwig 1803年3月17日 - 1890年3月27日 ドイツの化学者。ブレスラウ大学でブンゼンの後任教授。▼ 1826(23) バラールとは独立に臭素を発見、発表はパラールが先 。 パスツール  Louis Pasteur 1822年12月27日 - 1895年9月28日 フランスの生化学者・細菌学者。近代細菌学の開祖。▼1848(26) 師匠バラールの下で酒石酸を研究。 ベルトロ  Pierre Eugène Marcellin Berthelot 1827年10月25日 - 1907年3月18日 フランスの化学者。▼最初はバラールの弟子、次に助手、そして同僚になった。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Antoine_J%C3%A9r%C3%B4me_Balard

1825、電磁石を発明~スタージャン(英):アルケーを知りたい(617)

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今回は物理学。 ▼ 電磁石 。鉄芯にコイルを巻いて直流を流すと磁石になる。 スタージャン は200gの鉄芯に銅線を巻きつけた電磁石で4,000gの鉄の塊を持ち上げるデモを行った。観客から「ワオ!」と歓声が上がったのは間違いない。 ▼スタージャンのここが面白い:スタージャンもファラデー(8つ年下)と同じく子供時代から働き始めた。数学と物理の知識は独学。20年ほど軍にいて除隊してから科学講師になる。軍人をしながら貯めた知識を、見て分かるデモにして人に伝えようという心意気が良い。さらに一緒にロンドン電気協会を共同設立するまでの電気オタクの仲間がいた、というのも心温まる。 ▼ ウィリアム・スタージャン  William Sturgeon 1783年5月22日 - 1850年12月4日  イギリスの物理学者  【人物】子供時代は靴屋で徒弟。 【教育】 独学で 数学と物理学を学ぶ。 【職業】1802(19) 軍人。  1824(41) サリー州の東インド会社カレッジで科学講師。  1832(49) ロンドンのアデレード実用科学ギャラリーで講師。  1842(59) 講演家、公開実験家。 【業績】 1825(42) 最初の電磁石を作りデモを行う 。 1832(49) 最初の直流モータを作りデモを行う 。 1836(53) 検流計を製作 。 1837(54) ロンドン電気協会を仲間のガシオット、ウォーカーと共同設立 。 【ネットワーク】 ガシオット  John Peter Gassiot  1797年4月2日 - 1877年8月15日 イギリスの電気好きアマチュア科学者。本業は貿易商。▼1837(40) ロンドン電気協会をスタージョン、ウォーカーと共同設立。 ウォーカー  Charles Vincent Walker 1812年3月20日 - 1882年12月24日 イギリスの電気技師 鉄道通信に寄与、海底電信信号を送信した最初の人。 ▼1837(25) ロンドン電気学会をスタージャン、ガジオットと共同設立。 ジュール  James Prescott Joule 1818年12月24日 - 1889年10月11日 イギリスの物理学者 ▼スタージョンと地元マンチェスターの科学同好の仲間。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.or

1825、ベンゼン~ファラデー(英):アルケーを知りたい(616)

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今回は化学。 ▼ ベンゼン 。分子式 C6H6、benzene。6個の炭素原子が「 亀の甲 」のようにつながっている。原油に含まれる。無色、香りあり、引火性が高い、人体に有害。用途はプラスチック、ナイロンなどの原料。 名前の由来は不明。 ▼経緯。 1825年、ファラデーが鯨油を熱分解したときに発見 。 1833年、ドイツの化学者 ミチェルリヒ が化学実験で得た物質に benzinと命名 。 1845年、ドイツの化学者ホフマンの下でイギリスの化学者 マンスフィールド がコールタールからベンゼンを単離 。 1855年、 ホフマン がベンゼン化合物に「芳香族」と命名 。 1865年、ドイツの化学者 ケクレ が「ベンゼンの環状構造式(ケクレ構造式)」を提案 。 1867年、イギリスの化学者 デュワー がベンゼンの環状構造を提案。ケクレ研究室に招かれる。 ▼ファラデーのここが面白い:ファラデーは家の経済事情のため14才から書店で働いていた。その環境が良かった。本を読むのをオーナーが許してくれたり、絵の上手な奉公仲間が絵の描き方を教えてくれた。知識を蓄え、実験図を描くスキルがついた。お客の ウィリアム・ダンス 氏は若くて明るい書店員ファラデーの勉強熱心さを認め、王立研究所で デービー が行う講演の入場チケットをプレゼントしてくれる。これがファラデーが王立研究所に出入りするきっかけになる。若い時からファラデーは雇用主、仲間、お客から好かれるキャラだった。 ▼ マイケル・ファラデー  Michael Faraday 1791年9月22日 - 1867年8月25日  イギリスの化学者・物理学者 【人物】父親は鍛冶屋 。 【教育】1805-12(14-21) 製本業兼書店で年季奉公。この間の読書で科学に関心を持つ。 【職業】1813(22) 王立研究所で デービー の助手。  1825(34) 英国王立実験所でデービーの後任所長。  1833(42) 王立研究所で初代 フラー 教授職 。 【業績】 1825(34) ベンゼンを発見 。 【ネットワーク】 ダンス  William Dance 1755年12月20日 - 1840年6月5日 イギリスのピアニスト、バイオリニスト ▼1812(57) 書店員だったファラデーを応援 。 フラー  John Fuller 1757年2月20日 -

1824、ポルトランドセメント~アスプディン(英):アルケーを知りたい(615)

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今回は化学。 ▼ ポルトランドセメント 。セメントの一種。由来は、イギリス南部のポートランド島で採掘されるポルトランド石という イギリスで最高級の建築石材に似ている ことからアプスディンが命名。 ▼この人のここが面白い:検索して初めて知ったことだけど、 ポルトランドセメント は日本でも一般的で、通販でも購入できる。発明者のアスプディンが、当時のイギリスで最高級の石材の名前を付けたのが良かったのだろう。レンガ職人だったアスプディンがどんな経緯でセメントを発明して起業したのかは分からなかった。けど、会社を息子に任せて引退する、という終わり方が良い。 ▼ アスプディン  Joseph Aspdin 1778年12月 - 1855年3月20日 イギリスのセメント製造業者 【人物】父親はれんが職人 【教育】父親の組合に入り職人修行 【職業】レンガ職人。1817(39) 組合から独立。セメント会社の創業社長。 【業績】 1824(46) セメント製造法を研究、ポルトランドセメントの特許を取得 。  1825(47) 仲間とセメント会社を共同創業。石灰精製法の特許を取得。  1844(66) 会社を息子にジェームズ任せて引退。 【同じ年生まれの人】 ゲイ=リュサック  Joseph Louis Gay-Lussac 1778年12月6日 - 1850年5月9日 フランスの化学者、物理学者。 デービー  Humphry Davy 1778年12月17日 - 1829年5月29日 イギリスの化学者。 ブレンターノ  Clemens Maria Brentano 1778年9月9日 - 1842年7月28日 ドイツの文学者。グリム兄弟に童話集の出版を薦めた。なのに預かった原稿をなくして出版が遅れた。困ったところのある人。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Aspdin