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万葉集巻28番歌(春過ぎて夏来るらし)~アルケーを知りたい(1246)

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▼この歌は持統天皇が孫の文武天皇に譲位して太上天皇になったときの作品。 白栲の衣とは斎衣のこと。斎衣とは天皇が神事で着用する純白の服。  藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇、元年丁亥の十一年に位を軽太子に譲りたまふ。尊号を太上天皇といふ  天皇の御製歌 春過ぎて夏来るらし白栲の 衣干したり天の香具山  万28 *春が過ぎて夏が来たようですね。天の香具山に白栲の衣が干してあります。 【似顔絵サロン】 文武天皇  もんむてんのう 683年 - 707年  第42代天皇。 父は草壁皇子。 天武天皇と持統天皇の孫。  〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻27番歌(吉野よく見よ良き人よく見)~アルケーを知りたい(1245)

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▼前回の25-26番歌が672年の「壬申の乱」の時の歌。今回の歌は679年の「吉野の盟約」の時の歌。天武天皇と妻の鸕野讚良皇后 (うののさらら、後の 持統天皇) が、6人の皇子に 皇位継承の争いをせず 仲良くするのだよ、と言い含める歌。 草壁皇子 、 大津皇子 、 高市皇子 、 忍壁皇子 、 川島皇子 、 志貴皇子 。  天皇、吉野の宮に幸す時の御製歌 淑き人のよしとよく見てよしと言ひし 吉野よく見よ良き人よく見  万27 *昔の立派な人がよく見て良しと言った吉野をよく見なさい、今の良い人は良くみなさい。  紀には「八年己卯の五月庚辰の朔の甲申に、吉野の宮に幸す」といふ。 【似顔絵サロン】 草壁皇子  くさかべのみこ / 日並皇子 ひなみしのみこ 662年 - 689年 天武天皇の第二皇子、母は持統天皇。 元正天皇と 文武天皇の父親。 大津皇子  おおつのみこ 663年 - 686年 天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。 高市皇子  たけちのみこ 654年 - 696年 天武天皇の皇子。壬申の乱では父から軍事の全権を委ねられ活躍。 忍壁皇子  おさかべ の みこ ? - 705慶雲2年6月2日 天武天皇の皇子。大宝律令の筆頭編纂者。 川島皇子  かわしまのみこ 657年 - 691年 天智天皇の第二皇子。温厚でゆったりした人柄。 志貴皇子  しきのみこ 668年 - 7162年 天智天皇の第7皇子。光仁天皇の父親。皇位と無縁の文化人。歌人。今日の皇室は、志貴皇子の男系子孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻25‐26番歌(み吉野の耳我の嶺に)~アルケーを知りたい(1244)

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▼今回の二つの歌の作者は天武天皇。671年、近江大津宮で天智天皇に自分は出家しますと告げ、妻子・舎人らと吉野に移る。そのときの歌。この直後に壬申の乱が始まる。緊迫感に満ちている歌。  天皇の御製歌 み吉野の 耳我の嶺に  時なくぞ 雪は降りける  間なくぞ 雨は降りける  その雪の 時なきがごと  その雨の 間なきがごと  隈もおちず 思ひつつぞ来し   その山道を 万25 *吉野の耳我の嶺に雪や雨が降っている。その山道を物思いしながら歩いてきた。  或本の歌 み吉野の 耳我の山に  時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ  その雪の 時じきがごと  その雨の 間なきがごと  隈もおちず 思ひつつぞ来し   その山道を 万26 【似顔絵サロン】 天武天皇  てんむてんのう / 大海人皇子 622年 - 686年 父親は舒明天皇、母親は皇極天皇。中大兄皇子の弟。第40代天皇。「政の要は軍事である」 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻23‐24番歌(伊良虞の島)~アルケーを知りたい(1243)

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▼ 麻続王(をみのおほきみ)が愛知県の 伊良虞(いらご)の島に流されたときの歌。「島の玉藻刈り食む」生活は、島流しなのでマインドがへこたれそうだけど、ライフスタイルそのものは良きじゃないの?と思ふ。  麻続王、伊勢の国の伊良虞の島に流さゆる時に、人の哀傷しびて作る歌 打ち麻を麻続に王海人なれや 伊良虞の島の玉藻刈ります  万23 *麻を打って柔らかくしたような麻続王は海人なのでしょうか。伊良虞の島で玉藻を刈り取っています。   麻続王、これを聞きて哀傷しびて和ふる歌 うつせみの命の惜しみ波に濡れ 伊良虞の島の玉藻刈り食む  万24 *現世のこの命を惜しんで波に濡れながら伊良虞の島で玉藻を刈っては食べています。  右は、日本紀を案ふるに、曰はく「天皇の四年乙亥の夏の四月戊戌の朔の乙卯に、三位麻続王罪あり。 因幡に流す。 一の子をば伊豆の島に流す。 一の子をば血鹿の島に流す」といふ。 ここに伊勢の国の伊良虞の島に流すといふは、けだし後の人、歌の辞に縁りて誤り記せるか。 【似顔絵サロン】 小野 篁  おの の たかむら 802年 - 853年 平安時代初期の公卿、文人。麻続王と同じく島流しの経験がある。 思ひきや鄙のわかれにおとろへて海人の縄たき漁せむとは  古今961 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻22番歌(常にもがもな常処女)~アルケーを知りたい(1242)

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▼ この歌に出てくる 十市皇女 (とをちのひめみこ) は天武天皇と額田王 の娘、弘文天皇の妻。 阿閉皇女 (あへのひめみこ) は天智天皇の娘で後の元明天皇。 弘文天の異母妹。▼この歌は 壬申の乱から3年が経過した 675年、20代と10代の女性 二人が 伊勢神宮に参った時の作 。作ったのは 吹芡刀自 (ふふきのとじ、伝不詳) 。  明日香の清御原の宮の天皇の代  <天渟中原瀛真人天皇、謚して天武天皇といふ>   十市皇女、伊勢の神宮に参赴ます時に、波多の横山の巌を見て、吹芡刀自が作る歌 川の上のゆつ岩群に草生さず 常にもがもな常処女にて  万22 *川の上の神聖な岩には草が生えていません。そのように私もいつまでも乙女のままでいたいものです。  吹芡刀自はいまだ詳らかにあらず。ただし、紀には「天皇の四年乙亥の春の二月乙亥の朔の丁亥に、十市皇女・阿閉皇女、伊勢の神宮に参赴ます」といふ。 【似顔絵サロン】 弘文天皇  こうぶんてんのう / 大友皇子 648年 - 672年 天智天皇の子。第39代天皇。壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗北。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻20‐21番歌(あかねさす紫野)~アルケーを知りたい(1241)

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▼今回の2つの歌は、大人の事情の歌。額田王が作った20番の冒頭に出てくる天皇は天智天皇、君が袖振るの君は大海人皇子(後の天武天皇)。21番は大海人皇子が詠った歌で、歌に出てくる妹は額田王のこと。  天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌 あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  万20 *紫草の野原で標識のある野原でそんなに手を振ると野原の管理人が見ていますよ。  皇太子の答へたまふ御歌 <明日香の宮に天の下知らしめす天皇、諡して天武天皇といふ> 紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも  万21 *紫草が匂うような貴女だから、人妻なのに気になっているのです。  紀には「天皇の七年丁卯の夏の五月の五日に、蒲生野に御猟す。時に大皇弟・諸王、内臣また群臣、皆悉に従なり」といふ。 【似顔絵サロン】 天武天皇  てんむてんのう / 大海人皇子 622年 - 686年 第40代天皇。父親は舒明天皇、母親は皇極天皇。兄が中大兄皇子。『日本書紀』と『古事記』の編纂を開始「天皇」を称号とし「日本」を国号とした天皇。ポリシーは「政の要は軍事である」。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻17‐19番歌(味酒三輪の山)~アルケーを知りたい(1240)

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▼万葉集17番の長歌は三輪山の眺めの良さを褒める歌・・・なんだけど、「つばらにも」「しばしばも」のリズムが面白くてそっちに目が行く。この歌は、三輪山を眺めたいのに雲が邪魔する、と言いつつ 「つばらにも」「しばしばも」 が歌を邪魔しているのがおかしい。  額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王が即ち和ふる歌 味酒 三輪の山  あおによし 奈良の山の  山の際に い隠るまで  道の隈 い積もるまでに  つばらにも  見つつ行かむを  しばしばも  見放けむ山を  心なく 雲の  隠さふべしや 万17 * 三輪山が 奈良の山々で 隠されるまで、ずっと歩きながら見ていたいのに、心無い雲が邪魔します。  反歌 三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠さふべしや  万18 *三輪山をそれほど隠したいのか、雲よ、心があるなら隠さないでおくれ。  右の二首は、山上憶良大夫が類聚歌林には「都を近江の国に遷す時に三輪山の御覧す御歌なり」といふ。 日本書紀には「六年丙寅の春の三月に辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といふ。 綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に 付くなす目につく我が背  万19 *綜麻形(三輪山)の林のハンノキが衣に付くように、目につく私の夫よ。  右の一首の歌は、今案ふるに和ふる歌に似ず。 ただし、旧本、この次に載す。 この故になほ載す。 【似顔絵サロン】 蘇我 入鹿  そが の いるか ? - 645 飛鳥時代の豪族。父親は蘇我蝦夷。乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足に殺される。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1