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万葉集巻第1_1番歌(籠もよみ籠持ち)~アルケーを知りたい(1758)

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▼今回の1番歌から前回の53番歌までが万葉集全20巻の元になった最初の歌集という。私には1番歌はとても難しいから、参考書の著者・伊藤先生仰るところの「原万葉」52首に目を通してからにした次第。 ▼余計なことだけど、万葉集に入りにくいとしたら、「1番歌の壁」問題があると思う。昔バイオリンのレッスンを受けたとき、教本の1番を飛ばして次の練習曲から始めたことがあって、恩師が「そういう習慣なんですよ」と説明してくれたことがあった。そのデンで、万葉集も2番から入ると良いかも。 ▼1番歌の壁問題とは、漢字の読みが難しい・男が可愛い子に声をかける歌じゃん(という戸惑い)・歌の後半「我」が3回出てきて押しが強すぎ・この歌を詠った雄略天皇がメチャ怖い人物・続く2番歌を消し飛ばしてしまうインパクトがある等など 。  泊瀬 (はつせ) の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇 (すめらみこと) の代  大泊瀬稚武天皇 天皇 (おほ はつせ わかたけの すめらみこと) の御製歌 籠 (こ) もよ み籠持ち  掘串 (ふくし) もよ み掘串 (ぶくし) 持ち  この岡に 菜摘 (なつ) ます子 家告 (の) らさね そらみつ 大和の国は  おしなべて 我れこそ居 (を) れ  しきなべて 我れこそ居れ  我れこそば 告らめ 家をも名をも 万1 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_53番歌(藤原の大宮仕へ)~アルケーを知りたい(1757)

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▼今回の53番が万葉集の元になった歌集の締めの歌。最初は53首で始まった歌集だったのだ。藤原の宮と娘子を誉める明るい歌。下の句で「をとめ」「ともは」「ともしき」と「と」音が重なっているのが印象的。  短歌 藤原の大宮仕へ生 (あ) れ付くや 娘子 (をとめ) がともは羨 (とも) しきろかも *藤原の大宮に仕える廻り合わせ。そんな生まれ付きの娘子たちは羨ましい限り。  右の歌は、作者未詳。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_52番歌(とこしへにあらめ)~アルケーを知りたい(1756)

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▼今回は藤原宮の素晴らしさをほめたたえる歌。香具山、畝傍山、耳成山、吉野山が出て来る。そして豊かな清水が湧く井戸。山々のよき、井戸のよき。  藤原の宮の御井 (みゐ) の歌 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は  日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば  とこしへにあらめ 御井の清水  万52 *吉野の立派な宮殿の井戸で湧き出る清らかな水よ、永遠なれ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_51番歌(采女の袖吹きかへす)~アルケーを知りたい(1755)

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▼694年、持統天皇は都を明日香の宮から 距離にして3kmくらい離れた 藤原宮に遷した。志貴皇子が 飛鳥宮が寂しくなった気持ちを風に託して詠んだ歌。藤原宮は最新のコンセプトで作られた都だったので、暮らし馴れた明日香の宮にいると、そこはかとない置いてきぼり感があったのだろうと思ふ。  明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、 志貴皇子 の作らす歌 采女 (うねめ) の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く  万51 *女官の袖を揺らす明日香の風。都が遠のいたいま、空しく吹いています。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_50番歌(いそはく見れば)~アルケーを知りたい(1754)

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▼前書きにある「藤原の宮」とは、天武天皇が計画し、持統天皇が実現した藤原京(奈良県橿原市)のこと。縦横が5.3Kmの規模。でかい。条坊制を採用した日本で初めての本格的な都。694年に飛鳥浄御原宮から藤原の宮に遷都した。50番はその記念となる長歌。参考書の伊藤博先生によると、 作者は役民とあるが、実 は高級官人らしいとのこと。役人が労役に汗を流す民の立場に立って詠った歌だ。いそはく見ればの「いそはく」は頑張っている状態のこと。では今日も、いそはくやるとしますか。  藤原の宮の役民の作る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤原が上に 食 (を) す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地 (あめつち) も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山 (たなかみやま) の 真木 (まき) さく 檜 (ひ) のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道 (こせぢ) より 我が国は 常世にならむ 図負 (あやお) へる くすしき亀も 新代 (あらたよ) と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝 (のぼ) すらむ  いそはく見れば 神からにあらし  万50 *藤原の宮の造営に民が力を尽くしているのを見ると、これは神意であるかららしい。  右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八日に、藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春の正月に、藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に、藤原の宮に遷る」といふ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_46-49番歌(安騎の野に宿る旅人)~アルケーを知りたい(1753)

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▼46番から49番の四首は起承転結になっているというので、並べてみた。 「転」に相当する48番が良き。東にはかげろう、反対を向くと月が傾いているという視線の動かし方の良き。「結」に出て来る「馬並めて」、これも良き良き。  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 日並皇子 (ひなみし みこ) の馬並めて み狩立たしし時は來向ふ  万49 *安騎の野で野宿する旅人は、ゆっくり寝てなどいられません。昔のことを思うにつけて。 *ここは荒野だけれども、昔の君を思い出すために参りました。 *東の野に陽炎が見えます。反対を見ると月が傾いています。 *日並皇子が 馬 を並べて狩りに向かう時がやって来ました。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_45番歌(小竹を押しなべ草枕)~アルケーを知りたい(1752)

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▼万葉集の歌は、誰が誰を詠っているのか分からなくなることが時々ある。今回の45番の前書きから、軽皇子がキャンプしたとき、人麻呂が作った歌、ということは分かる。でも長歌の冒頭の 「わが大君」とは誰のことを言っているのだろう。軽皇子だろう。ということは「いにしへ思ひて」は軽皇子が、亡き父・草壁皇子を思って、ということになりそう。だから45番歌は、人麻呂が軽皇子の行動と思いを歌にした作品、ということか。▼フィールドでどんな野宿をしていたのか気になる。「小竹(しの)を押しなべ草枕」という句の小竹を平らかにするのはいかにもリアルで、草を枕にするのはいかにも喩え。リアルと喩えが入り混じっている。昔読んだヘミングウェイの小説に出て来る若者ニックがキャンプするときの描写を思い出す。ニックも小竹を押しなべてその上に毛布を敷いて寝る準備をしていた。   軽皇子 、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき  小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて  万45 *雪が降る安騎の大野のススキや小竹を押し広げて一夜を過ごします。昔のことを思いながら。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1