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柿本人麻呂の万葉集40-44番歌~アルケーを知りたい(1160)

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▼今回の5首は、天皇の行幸にあわせて人麻呂らが作った歌。 ▼44番歌は 石上麻呂の作で、その 解説文によると、 三輪朝臣高市麻呂 が持統天皇に「いまは農繁期なので行幸を控えて欲しい」と奏したが、持統天皇はその諫言に従わずに伊勢に詣でた、とある。5首の歌よりこちらの解説文のほうが面白い。  伊勢の国に幸す時に、京に留ままれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 嗚呼見 (あみ) の浦に舟乗りすらむをとめらが 玉裳の裾に潮満つらむか  万40 *嗚呼見の浦でボート乗りを楽しむ娘子たち。ほらほら、服の裾まで潮が満ちてきていますよ。 釧着 (くしろつ) く答志 (たふし) の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ  万41 *答志の崎で今日もまた大宮人たちがやって来て玉藻を刈っています。 潮騒に伊良虞 (いらご) の島辺漕ぐ舟に 妹乗るらむか荒き島みを  万42 *海の波が騒がしいなか伊良虞の島辺を舟が進んでいる。その舟に娘子が乗っているのでしょうか。荒い海の島あたりを。  当麻真人麻呂が妻の作る歌 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ  万43 *私の夫はいまどの辺を進んでおられるのでしょうか。今日は名張山を越えているのでしょうか。  石上大臣、従駕にして作る歌 我妹子をいざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも  万44   右は、日本紀には「朱鳥の六年壬辰の春の三月丙寅の朔の戊辰に、浄広肆広瀬王等をもちて留守官となす。 ここに中納言 三輪朝臣高市麻呂 、その冠位を脱きて朝に捧げ (辞任覚悟の行動) 、重ねて諫めまつりて曰さく、『農作の前に車駕いまだもちて動すべからず (農繁期に行幸するべきはありません) 』とまをす。 辛未に、天皇諫めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸す。 五月乙丑の朔の庚午に、阿胡の行宮に御す」といふ。 *私の妻をいざ見ようとしても見えない。これはいざ見の山が高いせいだろう。大和の国も見えない。遠くまでやってきたせいだろう。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 三輪 高市麻呂  みわ の たけちまろ 657斉明天皇3年 - 706慶雲3年3月24日 飛鳥時代の人物。壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.

柿本人麻呂の万葉集38-39番歌~アルケーを知りたい(1159)

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▼持統天皇は幾度も吉野に行幸された。柿本人麻呂の38番の長歌は、記念写真のように絵葉書のように風景と季節を描写している。  吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る(第二群) やすみしし 我が大君  神ながら 神さびせすと  吉野川 たぎつ河内に  高殿を 高知りまして  登り立ち 国見をせせば  たたなはる 青垣山  山神の 奉る御調 (みつき) と  春へは 花かざし持ち  秋立てば 黄葉かざせり <一には「黄葉かざし」といふ>   行き沿ふ 川の神も  大御食 (おほみけ) に 仕へ奉ると  上つ瀬に 鵜川を立ち  下つ瀬に 小網さし渡す  山川も 依りて仕ふる  神の御代かも 万38  反歌 山川も依りて仕ふる神ながら たぎつ河内に舟出せすかも  万39  右は、日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。 八月に、吉野の宮に幸す。 四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。 四月に、吉野の宮に幸す」といふ。 いまだ詳らかにいづれの月の従駕(おほみとも)にして作る歌なるかを知らず。 *天皇は山の神も川の神も依って使える神であられる。波が激しく湧きたつ河内に船を漕ぎ出される。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 文武天皇  もんむてんのう 683 - 707 24歳。第42代天皇。持統天皇は 祖母 。 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜も我がひとり寝む  万74 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集36-37番歌~アルケーを知りたい(1158)

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▼この長歌と反歌は 持統天皇 が吉野の宮に行幸したときに人麻呂が詠んだ歌。吉野の自然を称えている。持統天皇は吉野に 30回以上 行幸し た。長歌の結びにあるように「 見れど飽かぬかも 」だからだろう。 二つの群があり、今回は第一群。  吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る(第一群) やすみしし 我が大君の  きこしめす 天の下に  国はしも さはにあれども  山川の 清き河内と  御心を 吉野の国の  花散らふ 秋津の野辺に  宮柱 太敷きませば  ももしきの 大宮人は  船並めて 朝川渡る  舟競ひ 夕川渡る  この川の 絶ゆることなく  この山の いや高知らす  水激く 滝の宮処は  見れど飽かぬかも  万36  反歌 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまたかへり見む  万37 *いくら見ても見飽きないのが吉野の川です。常滑という苔で滑りやすい川岸にある石のように絶えることなくここを見るため私は参ります。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 持統天皇  じとうてんのう 645 - 703 第41代天皇。中大兄皇子の娘。天武天皇の皇后。 春すぎて夏来るらし白妙の 衣干したり天の香具山  万28 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集29-31番歌~アルケーを知りたい(1157)

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▼今回から柿本人麻呂の歌を見て行く。今回の歌は667年、 近江の大津に都を遷した 天智天皇 を偲んだ作。長歌と反歌2つ。 ▼長歌の筋は「 天智天皇は どのようなお考えで、ひなびた大津に宮を造られたのでしょうか。宮殿はここにあったと聞くけれども、いまは草に覆われています。見ていると悲しくなります」というもの。 ▼短歌31番の「 大わだ淀むとも  昔の人にまたも遭はめやも 」は名セリフと思う。  近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 玉たすき 畝傍の山の  橿原の ひじりの御代ゆ <或いは「宮ゆ」といふ> 生まれしし 神のことごと  栂の木の いや継ぎ継ぎに  天の下 知らしめしいを <或いは「めしける」といふ>   そらにみつ 大和を置きて  あをによし 奈良山を越え <或いは「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」といふ>   いかさまに 思ほしめせか <或いは「思ほしけめか」といふ>   天離る  鄙にはあれど   石走る 近江の国の  楽浪の  大津の宮 に  天の下 知らしめしけむ  天皇の 神の命の  大宮は ここと聞けども  大殿は ここと言へども  春草の 茂く生ひたる   霞立つ 春日の霧れる <或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ>   ももしきの 大宮ところ  見れば悲しも <或いは「見れば寂しも」といふ>  万29  反歌 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど 大宮人の舟待ちかねつ  万30 *楽浪の志賀の唐崎は、昔のまま存在しているけど、大宮人を乗せた舟は待っていてもやって来ない。 楽浪の志賀の <一には「比良の」といふ> 大わだ淀むとも 昔の人にまたも遭はめやも <一には「遭はむと思へや」といふ>  万31 *楽浪の志賀の岸辺の湾曲した所の水量が淀むほどたっぷりあっても、昔の人に再び会えたりしないのだ。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 天智天皇  てんちてんのう 626年 - 672 第38代天皇。645年、大化の改新。667年、近江大津宮へ遷る。 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ  百人一首1 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cl

山上憶良の万葉集3860-3869番歌~アルケーを知りたい(1156)

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▼仲間に船頭の代役を頼まれ、男気を出して引き受けた荒雄。船出して嵐で遭難した男の姿を憶良が妻の立場で詠んだ歌。 ▼妻にとっては「 大君の遣はさなくに、さかしらに行きし荒雄 」。だけど、そこは愛する夫のことだから、妻は「 来むか来じかと飯盛りて、門に出で立ち待て 」いた。しかし8年待っても音沙汰なし。もはや帰って来ることはないと悟るまでの心情を10首の歌で語る。  筑前の国の志賀の白水郎の歌十首 大君の遣 (つか) はさなくにさかしらに 行きし荒雄ら沖に袖振る  万3860 *大君が派遣したわけではないのに出しゃばって出かけて行った荒雄。その荒雄が私に向かって袖を振っていました。 荒雄らを来むか来じかと飯盛りて 門に出で立ち待てど来まさず  万3861 *荒雄が今来るかもう来るかと思って、食事の用意をして、門に出て待っているけれどお姿が見えません。 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが よすかの山と観つつ偲はむ  万3862 *志賀の山の木はあまり伐採しないでください。荒雄を思い出すよすがの山として眺めて偲びたいから。 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の 大浦田沼はさぶしくもあるか  万3863 *荒雄が出かけてからこのかた、志賀の海人たちが働いているのだけれど大浦田沼は寂しくなった。 官 (つかさ) こそさしても遣らめさかしらに 行きし荒雄ら波に袖振る  万3864 *官が派遣したわけではないのに出しゃばって出かけて行った荒雄。その荒雄が別れを惜しんで波間で私に袖を振っています。 荒雄らは妻子が業 (なり) をば思はずろ 年の八年を待てど来まさず  万3865 *荒雄は妻子の苦労を考えてないのだ。もう出かけて八年になるのにまだ帰ってこない。 沖つ鳥鴨といふ船の帰り来ば 也良 (やら) の崎守早く告げこそ  万3866 *沖の鳥の鴨という名前の船が帰ってきたら、也良の崎の見張りにいち早く告げて欲しい。 沖つ鳥鴨といふ船は也良の崎 廻 (た) みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも  万3867 *沖の鳥の鴨という船が也良の崎を回って漕ぎ来きたという知らせを聞きたいのに聞こえてきません。 沖行くや赤ら小舟をつと遣らば けだし人見て開き見むかも  万3868 *沖を行く赤色の小舟が見えます。荷物を預けたら荒雄に届いて開けて見てくれるでしょうか。 大船に小舟引き添へ潜くとも 志賀の荒雄に潜き

山上憶良の万葉集3860-3869番歌の解説文~アルケーを知りたい(1155)

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▼今回は憶良による「 妻子が傷みに悲感しび、志を述べてこの歌を作る 」の解説文。今回の解説文は、 10個の和歌が続いて物語になった後に来るもの。最初に持ってきた理由は、物語の背景が分かるから。 ▼あらすじはこうだ。船頭の荒雄が仲間の津麻呂から代わりに船頭をやってくれと頼まれた。危険な仕事だけど、荒雄は男気を出して引き受けた。しかし天候不順のため船は沈没。荒雄は帰らぬ人となり妻は悲しむ。そして作った歌が・・・というもの。  右は、神亀の年の中に、大宰府筑前の国宗像の郡の百姓、宗像部津麻呂を差して、対馬送粮の船の柁帥に宛つ。 時に 津麻呂 、滓屋の郡志賀の村の白水郎 荒雄 が許に詣りて語りて曰はく、「① 我れ小事あり。けだし許さじか 」といふ。 荒雄答へて曰はく、「② 我れ郡を異にすといへども、船を同じくすること日久し。 志は兄弟より篤し、殉死することありといへども、あにまた辞びめや 」といふ。 津麻呂曰はく、「府の官、我を差して、対馬送粮の船の柁帥に宛つ。容歯衰老し、海路に甚へず。ことさらに来りて祇候す。願はくは相替ることを垂れよ」といふ。 ここに荒雄許諾し、つひにその事に従ふ。 肥前の国、③ 松浦の県の美禰良久の崎より船を発だし、ただに対馬をさして海を渡る 。 すなはち、④ たちまちに天暗冥く、暴風は雨を交へ、つひに順風なく、海中に沈み没りぬ 。 これによりて、⑤ 妻子ども、犢慕に勝へずして、この歌を裁作る 。 或いは、筑前の国の守山上憶良臣、妻子が傷みに悲感しび、志を述べてこの歌を作るといふ。 *①津麻呂という男が荒雄に、 津島に行く船の船頭を代わって欲しいと 頼みごとをする。 ②荒尾は 津麻呂に 「あなたとは長らく同じ船に乗って働いてきた仲です。殉死するかも知れませんがどうしてお断りできましょうか」と答える。 ③荒尾は言葉通り松浦から対馬に向けて船を出す。 ④しかし天気が急変し暴風雨となり荒尾の船は沈没する。 ⑤残された荒尾の妻子は悲しんでこの歌を作った。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 張 巡  ちょう じゅん 709年 - 757年11月24日 唐代の武将。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%8

山上憶良の万葉集1716番歌~アルケーを知りたい(1154)

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▼今回は、万葉集第九巻、雑歌に収められた歌群にある憶良の歌。この群は海で詠んだ5首の歌からなっており、2番目が憶良の作。  槐本 (つきのもと) が歌一首 楽浪の比良山風の海吹けば 釣りする海人の袖返る見ゆ  万1715 *楽浪(ささなみ)の比良山からの風が海に吹くと釣りをしている海人の袖が翻るのが見える。  山上(憶良)が歌一首 白波の浜松の木の手向けくさ 幾代までにか年は経ぬらむ  万1716  右の一首は、或いは「川島皇子の御作歌」といふ。 *白浪が打ち寄せる浜の松の木に手向けの草が結ばれている。どれくらい年が経つものだろう。  春日が歌一首 三川の淵瀬もおちず小網さすに 衣手濡れぬ干す子はなしに  万1717 *三川の淵と瀬に網を仕掛けていると袖が濡れてしまったよ、乾かしてくれる人がいないのに。  高市が歌一首 率 (あども) ひて漕ぎ去にし舟は高島の 安曇 (あど) の港に泊 (は) てにけむかも  万1718 *漕ぎ手が声を合わせて漕ぎ去った舟は、今頃は高島の安曇の港に着いたかも。  春日蔵が歌一首 照る月を雲な隠しそ島蔭に 我が舟泊てむ泊まり知らずも  万1719  右の一首は、或本には「小弁が作」といふ。或いは姓氏を記せれど名字を記すことなく、或いは名号を稱へれど姓氏を稱はず。しかれども、古記によりてすなはち次をもちて載す。すべてかくのごとき類は、下みなこれに倣へ。 *雲よ、照っている月を隠さないでおくれ。島蔭に我われの舟を泊める先が分からないので。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。王 昌齢 おう しょうれい 698 - 755 57歳。唐の詩人。西宮夜静かにして百花香り  珠簾を捲かんと欲すれば春恨長し 斜めに雲和 (弦楽器) を抱いて深く月を見れば 朦朧たる樹色に昭陽宮を隠す 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://art-tags.net/manyo/poet/okura.html