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柿本人麻呂の万葉集223-225番歌~アルケーを知りたい(1177)

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▼死に臨む人麻呂が妻を気にかける歌。夫の帰りを待つものの会えないままの妻の歌。  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首 鴨山の岩根しまける我れをかも 知らにと妹が待ちつつあるらむ  万223 *鴨山の岩の間で行き倒れている私のことを知らずに妻は私を待っているのだろう。  柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首 今日今日と我が待つ君は石川の狭に <一には「谷に」といふ>  交りてありといはずやも  万224 *お帰りは今日か、今日か、と私がお待ちしているあなた様は、石川の谷に迷い込んでいらっしゃるというではありませんか。 直に逢はば逢ひかつましじ石川に 雲立ち渡れ見つつ偲はむ  万225 *直に逢いたいと思っても逢えるものではありません。石川に雲が立ちましたら、それを見て偲びます。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 蘇我 馬子  そが の うまこ 551 - 626 飛鳥時代の政治家、貴族。蘇我蝦夷の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集220-222番歌~アルケーを知りたい(1176)

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▼今回は、讃岐の海岸の岩場に横たわっている死人を見て人麻呂が作った歌。 ▼人麻呂はその人を見て「 家知らば 行きても告げむ  妻知らば来も問はましを (その人の家が分かれば行って知らせるものを、妻が知ったらかけつけて言葉をかけるものを)」と思い、その人に妻がいれば、妻は 「 おほほしく待ちか恋ふらむ  はしき妻らは (消息が分からないまま待ち焦がれているのだろう)」と思う。  讃岐の狭岑の嶋にして、石中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒ぐ 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 佐岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは  万220  反歌二首 妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山 野の上のうはぎ過ぎにけらずや  万221 *妻がいてくれたら一緒に摘んで食べただろうに。沙弥の山の野草(嫁菜)は盛りが過ぎてしまった。 沖つ波来寄る荒磯を敷栲の 枕とまきて寝せる君かも  万222 *沖から波が寄せる荒磯を枕に寝ている人が見える。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 推古天皇  すいこてんのう 554 - 628推古天皇36年4月15日 第33代天皇。日本初の女帝。父親は欽明天皇。敏達天皇の妻。皇太子は厩戸皇子。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t

柿本人麻呂の万葉集217-219番歌~アルケーを知りたい(1175)

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▼表題に出てくる采女 (うねめ) とは、朝廷で、天皇や皇后の身の回りのサービスを担当した お側付きの 女官。容姿端麗・聡明などの条件をクリアした女性の役職名。 ▼長歌に「 時にあらず過ぎにし子 」という表現がある。 吉備津の死因が 自殺だったことを伝える。  吉備津采女 (きびつのうのめ) が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲繩の 長き命を 露こそば 夕に立ちて 朝は 失すといへ 梓弓 音聞く我れも おほに見し こと悔しきを 敷栲の 手枕まきて 剣太刀 身に添へ寝けむ 若草の その夫の子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時にあらず   過ぎにし子 らが 朝露のごと 夕霧のごと 万217  短歌二首 楽浪の志賀津の子らが <一には「志賀の津の子が」といふ>   罷り道の川瀬の道を見れば寂しも  万218 *楽浪の志賀津の娘子らがこの世を去っていった道、川瀬の道を見ると寂しくて仕方がない。 そら数ふ大津の子が逢ひし日に おほ見しくは今ぞ悔しき  万219 *大津の娘子と逢った日に、私はそのお姿をぼんやりと見るだけだったことが今になってみると残念だ。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 蘇我 蝦夷  そが の えみし 586年 - 645 飛鳥時代の政治家・貴族。蘇我馬子の子。入鹿の父親。乙巳の変で自害。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集213-216番歌~アルケーを知りたい(1174)

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▼今回の挽歌は、前回210-212番の元歌。同じ言い回しがある 。印象的なのは 「 我妹子が形見に置けるみどり子の 乞ひ泣くごとに取り委する (210番では 与ふる ) 物しなければ 男じもの脇ばさみ持ち 」の句。泣く子を抱えて右往左往している様子が悲しい。  或る本の歌に曰はく うつそみと 思ひし時に  たづさはり  我がふたり見し  出立の 百枝槻の木  こちごちに 枝させるごと  春の葉の 茂きがごとく  思へりし 妹にはあれど  頼めりし 妹にはあれど  世間を 背きしえねば  かぎるひの 燃ゆる荒野に  白栲の 天領巾隠り  鳥じもの 朝立ちい行きて  入日なす 隠りにしかば  我が妹子が 形見に置ける  みどり子の 乞ひ泣くごとに  取り委する 物しなければ  男じもの 脇ばさみ持ち   我妹子と 二人我が寝し  枕付く 妻屋のうちに  昼は  うらさび暮らし  夜は  息づき明かし  嘆けども  為むすべ知らに  恋ふれども  逢ふよしをなみ  大鳥の  羽がひの山に  汝が恋ふる  妹はいますと  人の言へば  岩根さくみて  なづみ来し  よけくもぞなき  うつそみと  思ひし妹が  灰にていませば  万213  短歌三首 去年見てし秋の月夜は渡れども 相見し妹はいや年離る  万214 *昨年見た秋の月夜は今年も同じだが、一緒に見た妻とは年が隔たるばかりだ。 衾道を引手の山に妹を置きて 山道思ふに生けるともなし  万215 *衾道の引手山に妻を置いて帰る山道を思うと生きる気力が失せる。 家に来て我が屋を見れば玉床の 外に向きけり妹が木枕  万216 *家に戻って寝室を見ると妻の床の上の木枕はあらぬ方を向いていた。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の先代人。 舒明天皇  じょめいてんのう 593 - 641 第34代天皇。蘇我蝦夷が立てた天皇。皇后は皇極天皇。息子は中大兄皇子。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%8

柿本人麻呂の万葉集210-212番歌~アルケーを知りたい(1173)

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▼柿本人麻呂が妻を失い、悲しみに暮れて作った歌二首のうちの二首目。 ▼長歌の筋は次だ。 うつせみと思ひし妹が (この世にずっといるものと思っていた妻が) 、 春の菜の茂きがごとく 思へりし (春に葉がよく茂っているように元気な妻が) 、 いなくなった。 ▼ 昼はうらさびしく、 夜はため息をついて明かす。いつも一緒にいた妻の姿が見えないと何をしても「 よけくもぞなき 」。  柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首  幷せて短歌 うつせみと 思ひし 時に <一には「 うつそみと思ひし 」といふ>   取り持ちて 我がふたり見し  走出の 堤に立てる  槻の木の こちごちの枝の  春の菜の 茂きがごとく  思へりし 妹にはあれど  頼めりし 子らにはあれど  世間を 背きしえねば  かぎるひの 燃ゆる荒野に  白栲の 天領巾隠り  鳥じもの 朝立ちいまして  入日なす 隠りにしかば  我が妹が 形見に置ける  みどり子の 乞ひ泣くごとに  取り与ふる 物しなければ  男じもの 脇ばさみ持ち  我妹子と ふたり我が寝し  枕付く 妻屋のうちに  昼はも うらさび暮らし  夜はも 息づき明かし   嘆けども 為むすべ知らに  恋ふれども 逢ふよしをなみ  大鳥の 羽がひの山に  我が恋ふる 妹はいますと  人の言へば 岩根さくみて  なづみ来し  よけくもそなき   うつせみと 思ひし妹が   玉かぎる ほのかにだにも  見えなく思へば 万210  短歌二首 去年見てし秋の月夜は照らせども 相見し妹はいや年離る  万211 *昨年見た秋の月夜は相変わらずだけれど、一緒に見た妻とは年が離れていくばかりです。 衾道を引手の山に妹を置きて 山道を行けば生けりともなし  万212 *衾道の引手山に妻を置いて山道を行くと、生きる気が失せてしまうようです。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 孝徳天皇  こうとくてんのう 596 - 654 第36代天皇。皇極天皇(斉明天皇)の弟。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wik

柿本人麻呂の万葉集207-209番歌~アルケーを知りたい(1172)

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▼自分に読解力が足りないので、この挽歌、人麻呂が「 泣血哀慟」というほどには・・・と思ってしまった。その理由は、①「 見まく欲しけど 」会いに行かなかった。②「 後も逢はむ 」と思って会うのを控えた。③逝去を知ったのは「 使の言へば 」によるものだった。  柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首  幷せて短歌 天飛ぶや 軽の道は  我が妹子が 里にしあれば  ねもころに  見まく欲しけど   やまず行かば 人目を多み  数多く行かば 人知りぬべみ  さね葛  後も逢はむ と  大船の 思ひ頼みて  玉かぎる 岩垣淵の  隠りのみ 恋ひつつあるに  渡る日の 暮れ行くがごと  照る月の 雲隠るごと  沖つ藻の 靡きし妹は  黄葉の 過ぎてい行くと  玉梓の 使の言へば  梓弓 音に聞きて <一には「音のみ聞きて」といふ>   言はむすべ 為むすべ知らに  音のみを 聞きてありえねば  我が恋ふる 千重の一重も  慰もる 心もありやと  我妹子が やまず出で見し  軽の市に 我が立ち聞けば  玉たすき 畝傍の山に  鳴く鳥の 声も聞こえず  玉桙の 道行く人も  ひとりだに 似てし行かねば  すべをなみ 妹が名呼びて  袖ぞ振りつる <或る本には「名のみを聞きてありえねば」といふ句あり>  万207  短歌二首 秋山の黄葉を茂み惑ひぬる 妹を求めむ山道知らずも <一には「道知らずして」といふ>  万208 *秋の山の黄葉の間に迷い込んだ妻を追い求めたい。しかしその山道が分かりません。 黄葉の散りゆくなへに玉梓の 使を見れば逢ひし日思ほゆ  万209 *黄葉が散っているときに手紙の配達人を見かけると妻のことを思い出す。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 皇極天皇  こうぎょくてんのう 594 - 661 第35代天皇と第37代天皇(斉明天皇)。舒明天皇の皇后。天武天皇の母親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%

柿本人麻呂の万葉集199-202番歌~アルケーを知りたい(1171)

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▼柿本人麻呂が逝去した高市皇子を詠った『万葉集』の中で最長の挽歌の後半。「 白栲の麻衣着て 」という言葉で逝去がはっきり伝わる。以後は悲しみの表現が続く。長歌の後の短歌2首と反歌1首で総括されている。  高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 木綿花の 栄ゆる時に  我が大君 皇子の御門を <一には「刺す竹の 皇子の御門を」といふ>   神宮に 装ひまつりて  使はしし 御門の人も  白栲の 麻衣着て   埴安の 御門の原に  あかねさす 日のことごと  鹿じもの い匍ひ伏しつつ  ぬばたまの 夕になれば  大殿を 振り放け見つつ  鶉なす い匍ひ廻り  侍へど 侍ひえねば  春鳥の さまよひぬれば  嘆きも いまだ過ぎぬに  思ひも いまだ尽きねば  言さへく 百済の原ゆ  神葬り 葬りいませて  あさもよし 城上の宮を  常宮と 高くし奉りて  神ながら 鎮まりましぬ  しかれども 我が大君の  万代と 過ぎむと思へや  天のごと 振り放け見つつ  玉たすき 懸けて偲はむ  畏くあれども  万199  短歌二首 ひさかたの天知らしぬる君故に 日月も知らず恋ひわたるかも  万200 *天をお治めするわれらの君を、我われは時の経つのを忘れて恋しく偲んでおります。 埴安の池の堤の隠り沼の ゆくへを知らに舎人は惑ふ  万201 *埴安の池の堤で囲まれた沼の水の行く先が分からないのと同じく、舎人たちは戸惑っています。  或書の反歌一首 哭沢 (なきさわ) の神社に御瓶 (みわ) 据ゑ祈れども 我が大君は高日知らしぬ  万202  右の一首は、類聚歌林には「檜隈女王、哭沢の神社を怨む歌なり」といふ。 日本紀を案ふるに、曰はく、「十年丙申の秋の七月辛丑の朔の庚戌に、後皇子尊薨ず」といふ。 *哭沢神社にお神酒をお供えして祈りを捧げています。我らが大君は高いところで天をお治めになっておられます。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 光仁天皇  こうにんてんのう 709 - 782 第49代天皇。天智天皇の孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 h