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万葉集巻第二162番歌(味凝りあやにともしき)~アルケーを知りたい(1269)

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▼天武天皇が没した686年から7年後、 693年 に持統天皇が供養の 御斎会を実施。162番歌は、その夜に、持統天皇が夢で見た歌。「 高照らす 日の御子 」が二度繰り返される。 ▼ 持統天皇は、 天武天皇の没3年後の 689年に 飛鳥浄御原令を施行していた。162番歌の翌年694年には、飛鳥浄御原宮から 藤原京へ遷都する。生前の天武天皇が計画していた大事業を実行した。  天皇の崩りましし後の八年九月九日の奉為の御斎会の夜に、夢の裏に習ひたまふ御歌一首  古歌集の中に出づ 明日香の 清御原の宮に  天の下 知らしめしし  やすみしし 我が大君  高照らす 日の御子   いかさまに 思ほしめせか  神風の 伊勢の国は  沖つ藻も 靡みたる波に  潮気のみ 香れる国に  味凝り あやにともしき  高照らす 日の御子  万162 *天武天皇讃歌。 【似顔絵サロン】 三輪 高市麻呂  みわ の たけちまろ 657年 - 706年 飛鳥時代の人物。 天武天皇の没後6年の 692年、農繁期に伊勢に行幸しようとする持統天皇を『農作の前に車駕いまだもちて動すべからず』と自らの官職をかけて諫めた。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二159‐161番歌(燃ゆる火も取りて包みて)~アルケーを知りたい(1268)

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▼今回は、 天武天皇 の崩御後、 持統天皇 が偲んだ歌。天武‐持統夫妻はとても仲が良く、持統天皇が病気になったとき天武天皇は薬師寺を建立して回復を祈った。幸い持統天皇は回復。 ▼ 天武天皇亡きあと、持統天皇は天武天皇が手掛けていた 飛鳥浄御原令の施行 と藤原京遷都を実現する。持統天皇が死去すると天武天皇と同じ天皇陵に合葬される。 ▼ 持統天皇は天武天皇との間に生まれた 草壁皇子 をさぞ大事に思っていたことだろう。  天皇の崩りましし時に、大后の作らす歌一首 やすみしし 我が大君し  夕されば 見したまふらし  明けくれば 問ひたまふらし  神岳の 山の黄葉を  今日もかも 問ひたまはまし  明日もかも 見したまはまし  その山を 振り放け見つつ  夕されば あやに悲しみ  明け来れば うらさび暮らし   荒栲の 衣の袖は  干る時もなし 万159  一書に曰はく、天皇の崩りましし時の太上天皇の御製歌二首 燃ゆる火も取りて包みて袋には 入ると言はずやも智男雲  万160 *燃えている火を取って包んで袋に入れられると言うではないか、智男雲よ。 北山にたなびく雲の青雲の 星離れ行き月を離れて  万161 *北山にたなびく雲の青雲が、星から離れ、月を離れている。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二151‐154番歌(かからむとかねて知りせば)~アルケーを知りたい(1267)

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▼天智天皇の崩御を悲しむ歌。153番の長歌は 大后の歌で前回の147-149番に続く歌。天智天皇に仕えていた額田王、 舎人吉年、 石川夫人の歌の間に収まっている。  天皇の大殯の時の歌二首 かからむとかねて知りせば大御船 泊てし泊りに標結はましを  額田王   万151 *こんなことになるとあらかじめ分かっていたなら、天皇の御船が停泊している場所に邪霊が入らないよう結界を張っていたのに。 やすみしし我が大君の大御船 待ちか恋ふらむ滋賀の唐崎  舎人吉年 万152 *我が天皇の御船がいつ来るのだろうと待ち焦がれているのではないでしょうか。志賀の唐崎では。  大后の御歌一首 鯨魚取り 近江の海を  沖放けて 漕ぎ来る船  辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ  辺つ櫂 いたくな撥ねそ   若草の 夫の  思ふ鳥立つ 万153 *近江の海の沖を漕ぎ進む船よ、近くを漕ぎ進む船よ、つがいの鳥が驚いて飛び立たないよう、櫂を激しく漕がないで。   石川夫人 が歌一首 楽浪の大山守は誰がためか 山に標結ふ君もあらなくに  万154 *御料地の番人は誰のために境界線を張っているのか。天皇はもういらっしゃらないのに。 【似顔絵サロン】蘇我倉山田 石川麻呂  そがのくらやまだ の いしかわまろ ? - 649大化5年5月11日 飛鳥時代の豪族。乙巳の変では中大兄皇子・中臣鎌足の側。 石川夫人 の父親? 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二147‐149番歌(天の原振り放け見れば大君の)~アルケーを知りたい(1266)

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▼今回は天智天皇が体調不良のときの皇后の歌。147番で本来のあるべき姿を、148番で再会が叶わない悲しみを、149番で崩御の後の気持ちを、詠っている。  近江の大津の宮に天の下知らしめす天皇の代 天命開別天皇、謚して天智天皇といふ  天皇聖躬不予の時に、 大后 の奉る御歌一首 天の原振り放け見れば大君の 御寿 (みいのち) は長く天足らしたり  万147 *天を見上げると、大君の寿命は長く天に満ちています。  一書に曰はく、近江天皇聖躬不予、御病急かなる時に、大后の奉献る御歌一首 青旗の木幡の上を通ふとは 目には見れども直に逢はぬかも  万148 *天智天皇の霊が木幡山の上を通っておられるのが私の目には見える。けれども、直接お目にかかることはできません。  天皇の崩りましし後の時に、倭大后の作らす歌一首 人はよし思ひ息むとも玉葛 影に見えつつ忘らえぬかも  万149 *ほかの人が天皇の面影を忘れることがあろうとも、私は玉葛の冠を被る天皇のお姿を忘れることはありません。 【似顔絵サロン】 古人大兄皇子  ふるひとのおおえのみこ ? - 645年 飛鳥時代の皇族。147‐149番の歌を詠んだ大后の父親。舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二145‐146番歌(天翔りあり通ひつつ見らめども)~アルケーを知りたい(1265)

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▼謀反を企てたとされ、絞首刑に処された有間皇子 の「結び松」を通して山上憶良と柿本人麻呂が感慨を述べ る歌。本当のことは「 人こそ知らね松は知るらむ 」。  山上臣憶良が (143番歌に対して) 追和の歌一首 天翔りあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るらむ  万145 *有間皇子の御霊は天から通って御覧になっていることでしょう。我われ人間には知る由もありません。でも松は知っているでしょう。  右の件の歌どもは、柩を挽く時に作るところにあらずといへども歌の意を准擬ふ。 この故に挽歌の類に載す。  大宝元年辛丑に、紀伊の国に幸す時に、結び松を見る歌一首  柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出づ 後見むと君が結べる岩代の 小松がうれをまたも見むかも  万146 *後でまた見ようという気持ちで有間皇子が結んだ岩代の小松の梢。再び見ただろうか。 【似顔絵サロン】 孝徳天皇  こうとくてんのう 596年 - 654年 第36代天皇。有間皇子の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二143‐144番歌(岩代の崖の松が枝結びけむ人は)~アルケーを知りたい(1264)

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▼143番歌は「 帰りてまた見めむかも 」と詠っている。けれど、タイトルは「 哀咽しぶる歌 」。だから「 松が枝結びけむ人 」が有間皇子が再び結び目を見られなかったのは分かっている。誰もが分かっていることを前提にしているのに、感慨が起る。 なぜ だろう。144番で「 心も解けずいにしへ思ほゆ 」と言っているので、有間皇子の扱い方に呑み込みにくいものがあったのだろう。   長忌寸意吉麻呂 、結び松を見て哀咽しぶる歌二首 岩代の崖の松が枝結びけむ人は 帰りてまた見めむかも  万143 *岩代の崖の松の枝を結んだ人は、帰ってまた御覧になれたのだろうか。 岩代の野中に立てる結び松 心も解けずいにしへ思ほゆ  いまだ詳らかにあらず  万144 *岩代の野の中に立っている結び松よ。私の心もほぐれないまま昔のことを思っているよ。 【似顔絵サロン】 長忌寸意吉麻呂  ながのいみきおきまろ ? - ? 持統・文武両朝の官人・歌人。渡来系。即興の和歌が上手。 一二の目のみにはあらず五六三四 (ごろくさむし) さへありけり双六の頭 (さえ)  万3827 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二141‐142番歌(岩代の浜松が枝を引き結び)~アルケーを知りたい(1263)

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▼今回は有間皇子の歌。謀反の疑いで処刑された、享年18歳の皇子。  挽歌  後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇、譲位の後に、後の岡本の宮に即きたまふ  有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首 岩代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む  万141 *また戻って来れるように祈って岩代の浜の松の枝を結びます。幸運であれば帰るときにまた見よう。 家なれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る  万142 *家にいたら飯は食器に盛ります。でもいまは旅の途中なので、椎の葉に盛るのです。 【似顔絵サロン】 有間皇子  ありまのみこ 640年 - 658年 飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子。斉明天皇(= 皇極天皇 )と中大兄皇子 (=天智 天皇 ) への謀反を企てた、という理由で藤白坂で絞首刑。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2