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1842、エネルギー保存~マイヤー(独):アルケーを知りたい(649)

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今回は物理学。 ▼ エネルギー保存 :エネルギーは、形態が変化してもその総量は変化しない。 ▼マイヤーのここが面白い:24才で博士になって、船医になって航海し、温度と船員の血液の色の変化を観察してエネルギー保存則を考えついて・・・と20代は大活躍。仕事が認められるのは40代になってから。そのときには精神を病んでしまい研究から退いた。リービッヒが講演で評価してくれたけれど、そのときマイヤー死亡説を流してしまう。57才のときコプリ・メダルを受賞したので、幸いだった。 ▼ マイヤー  Julius Robert von Mayer 1814年11月25日 - 1878年3月20日  ドイツの物理学者。 【人物】父親は薬局の経営者 【教育】1832(18) チュービンゲン大学に入学、医学を学ぶ。  1838(24) チュービンゲン大学で博士。 【職業】1840(26) オランダ船の船医として東インド諸島へ航海。 【業績】 1842(28) エネルギー保存則を発表 。 1845(31) 熱の仕事当量の算出方法を明らかにした。 1871(57) コプリ・メダル受賞。 【ネットワーク】 ヘルムホルツ  Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz 1821年8月31日 - 1894年9月8日 ドイツの生理学者、物理学者。▼ヘルムホルツは1854年の講演で「 エネルギー保存の法則を最初に発表したのはマイヤー である」と語った。 リービッヒ  Justus Freiherr von Liebig 1803年5月12日 - 1873年4月18日 ドイツの化学者。▼1858年3月の講演でマイヤーを紹介。このとき「マイヤーが精神病院で亡くなった」と 誤った情報を流した 。 ティンダル  John Tyndall  1820年8月2日 - 1893年12月4日 アイルランドの物理学者。▼1862年の講演で、 熱の仕事当量はマイヤーの業績 であると紹介。これがきっかけでマイヤーの知名度が上昇。 オストヴァルト  Friedrich Wilhelm Ostwald 1853年9月2日 - 1932年4月4日 ドイツの化学者。1909(56) ノーベル化学賞(触媒作用、化学平衡および反応速度に関する研究)。▼著書で、 エネルギーの理論を初めて作り上げたのはマイヤー

1842、ドップラー効果~ドップラー(墺):アルケーを知りたい(648)

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今回は物理学。 ▼ ドップラー効果 :救急車が近づいてくるときピーポーがだんだん高くなり、遠ざかると音が低くなるやつ。 Doppler effect。 ▼ドップラーのここが面白い:ドップラー効果の元は、星の光が星と観測者の相対速度に依存するのではないか、という1841(38) の研究から生まれたものだった。 ドップラー効果を音で実験したのが パロット 、星の光のスペクトルの青方偏移と赤方偏移に着目したのがフィゾー。パロットの実験がドップラー効果を分かりやすいものにしてくれた。 ▼ ドップラー  Christian Andreas Doppler 1803年11月29日 - 1853年3月17日  オーストリアの物理学者。 【人物】? 【教育】ザルツブルクで哲学を学ぶ。  【職業】1829(26) ウィーン工科大学で助手、数学と物理学を学ぶ。 1841(38) チェコ工科大学で教授。 1847(44) 鉱山と森林のアカデミーで教授。 1850(47) ウィーン大学物理学研究所で所長。 【業績】1842(39) ドップラー効果の数式を発表。 【ネットワーク】 ウンガー  Franz Joseph Andreas Nicolaus Unger 1800年11月30日 - 1870年2月13日 オーストリアの植物学者。ダーウィンの前に進化論を提案。▼ウィーン大学実験物理学研究所でドップラーの同僚。 バロット  Christophorus Buys Ballot 1817年10月10日 - 1890年2月3日 オランダの気象学者。▼1845年、列車に乗ったトランペット奏者がGの音を吹き続け、それを絶対音感を持った音楽家が聞く実験をしてドップラー効果を証明。 フィゾー  Armand Hippolyte Louis Fizeau  1819年9月23日 - 1896年9月18日 フランスの物理学者。1849年、回転歯車を用いて光速度を測定した。▼1848年、光のドップラー効果を発表。星のスペクトル線の青方偏移と赤方偏移を予測。 メンデル  Gregor Johann Mendel 1822年7月20日 - 1884年1月6日 チェコの司祭。メンデルの法則。遺伝学の祖。▼ウィーン大学時代、ドップラーやウンガーの弟子。  【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https

1842、有機化合物の分離~ジェラール(仏):アルケーを知りたい(647)

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今回は化学。 ▼ 有機化合物の分離 。有機化合物の溶解性は水と有機溶媒で異なる。この性質を使って分離すること。 ▼ジェラールのここが面白い:父親とそりが合わず、家業の白煙製造から抜け出す。仕事を紹介してくれた恩師に対して理論の違いで対立する。日本語版Wikipediaによると「年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであった」とある。化学者として高い能力、考えが違うと低くなる敬意。 ▼ ジェラール  Charles Frédéric Gerhardt 1816年8月21日 - 1856年8月19日  フランスの化学者 【人物】父親は白鉛の製造業者。 【教育】1831(15) カールスルーエ理工科学校を経て1833(17)ライプツィヒの商業学校で化学を学ぶ。 【職業】1834-36(18-20) 父親の手伝い。 1836-37(20-21) リービッヒの助手。 1838-40(22-24) リービッヒの紹介でアンドレ・デュマの助手。 1841-51(25-35) デュマの紹介でモンペリエ大学で化学教授。 1855(39) ストラスブール大学で教授。 【業績】1839(23) 複分解反応に関する「残余の理論」を提案。 1842(26) 有機化合物の分離 1843(27) 化合物の分類法を提唱。 【ネットワーク】 デュマ  Jean Baptiste André Dumas 1800年7月14日 - 1884年4月10日 フランスの化学者。原子量を決定。▼ジェラールが助手を務めた。後年、仲たがいしてしまう。 ウィリアムソン  Alexander William Williamson 1824年5月1日 - 1904年5月6日 イギリスの化学者。 1863年、伊藤博文ら長州ファイブの留学(ロンドン大学の聴講生)を夫妻で支えた人物。▼1853(43) ウィリアムソンが予想していたカルボン酸無水物の合成に成功。 カニッツァーロ  Stanislao Cannizzaro 1826年7月13日-1910年5月10日 イタリアの有機化学者。アヴォガドロの再評価に貢献した。▼ジェラールの分子量計算の間違いを修正した。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Fr%C

1841、リービッヒの最小律(独):アルケーを知りたい(646)

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今回は化学。 ▼ リービッヒの最小律 。植物が必要な栄養素のうちいちばん少ないものが成長を左右する。 ▼もともとはドイツの植物学者 シュプレンゲル が最初に唱えた 「最小値の定理」 。リービッヒが植物の成長に窒素 N、リン P、カリウム K が不可欠であると主張したとき、 シュプレンゲル の説を紹介した。その結果、名称が「シュプレンゲルの最小律」ではなく「リービッヒの最小律」になった。 ▼シュプレンゲルのここが面白い:ゴリゴリの実践派の農業学者。華のあるリービッヒに比べて地味。相手が植物なので、成長に時間がかかる。気が長くないとやれない仕事。なにしろ20代の10年間をアジアやアメリカの畑で過ごすんだから。 ▼ シュプレンゲル  Carl Sprengel 1787年3月29日 - 1859年4月19日 ドイツの植物学者  【人物】? 【教育】科学を実践に応用した名声の高い農学者・テアの下で修行。  1810-20(23-33) アジア、アメリカ大陸、メソポタミアを調査旅行。  1821-28(34-41) ゲッティンゲン大学で自然科学を学ぶ。 【職業】1828(41) ゲッティンゲン大学で教授。  1830-59(43-72) レスコ農業アカデミーを設立、指導にあたる。 【業績】 1840(53) 農業化学分野で「最小理論」を提唱 。 【ネットワーク】 テア  Albrecht Daniel Thaer 1752年5月14日 - 1828年10月26日 ドイツの農学者。科学を実践に応用したヨーロッパ中から名声を得た学者。▼シュプレンゲルの師匠。 リービッヒ  Justus Freiherr von Liebig 1803年5月12日 - 1873年4月18日 ドイツの化学者。農芸化学の父(→628)▼シュプレンゲルの「最小値の定理」を普及させた結果、世間から「リービッヒの法則」と認知された。 シプニエフスキー  Felicjan Sypniewski 1822年1月24日 - 1877年9月6日 ポーランドの植物学者。▼シュプレンゲルの弟子。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Sprengel

1840、オゾン~シェーンバイン(独):アルケーを知りたい(645)

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今回は化学。 ▼ オゾン 。ozone。O3。酸素同素体。腐食性が高く、生臭い刺激臭。紫外線の照射や無声放電で発生する。名前の由来は、ギリシア語で「臭いをかぐ」を意味する ozein に因む。 用途:水道水の殺菌、漂白、洗浄ほか。 ▼経緯。 1785年、オランダの マルム がオゾンの存在を確認。 1840年、スイスの シェーンバイン が、オゾンを発見、命名。 ▼シェーンバインのここが面白い:燃料電池、オゾン、綿火薬と3つも仕事をした化学者。今回はオゾンなのに、つい綿火薬に目が行ってしまう。というのは、自宅のキッチンで実験するのは妻から禁止されていたのに、妻の外出中につい実験してしまい、偶然、綿火薬を発見する。実験の後、濡れたテーブルを妻のエプロンで拭き、エプロンが乾くと爆発的に発火した。あとで妻が怒ったのは間違いない。 ▼ シェーンバイン  Christian Friedrich Schönbein 1799年10月18日 - 1868年8月29日 ドイツの化学者。 【人物】? 【教育】1814(13) 化学薬品会社で見習い。独学。1828(29) バーゼル大学で学ぶ。 【職業】1835-68(36-69) バーゼル大学で教授。 【業績】1838(39) 燃料電池を発明。 1839(40) 水の電気分解の実験中、オゾンが酸素から成り立つと発見 。 1840(41) フランス科学アカデミー誌にオゾンの論文を発表 。 1845(46) 自宅のキッチンで実験中に綿火薬を発見。黒色火薬に置き換わる発見。しかし、不安定で危険だった。後にフランスの化学者ヴィエイユが使いやすく強力な火薬に仕上げる。 【ネットワーク】 マルム  Martin van Marum 1750年3月20日 - 1837年12月26日 オランダの化学者、博物館のキューレター。▼1785(35) オゾンの存在を確認。 グローブ  William Robert Grove 1811年7月11日- 1896年8月1日 ウェールズの裁判官、物理学者。燃料電池技術のパイオニア。▼1842(31) グローブ-ボルタ電池を発明。 エイベル  Frederick Augustus Abel 1827年7月17日 - 1902年9月6日 イギリスの化学者。▼1889(62) デュワーと共同で無煙火薬の一種「コルダイト」を発

1840、ヘスの法則~ヘス(露):アルケーを知りたい(644)

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今回は化学。 ▼ ヘスの法則 Hess's law:熱化学分野の法則。化学反応の反応熱は反応前後の状態で決まる。反応経路によらず一定である。 ▼ヘスのここが面白い:医師の資格を得た後、 ベルセリウス に会う機会があり、この時から化学志向になった。両者の出会いには 啐啄同時の言葉が似合う 。 ▼ ヘス  Germain Henri Hess 1802年8月7日 - 1850年11月30日  スイス生まれロシアの化学者、医師   【人物】父は芸術家。両親とも家庭教師。 【教育】1825(23) ドルパット大学で医学と薬学を学ぶ。医師。ベルセリウスを訪問、専門を化学にする。 【職業】1826(24) イルクーツクで産科医・眼科医。  1830-48(28-46) サンクトペテルブルク科学アカデミーで化学教授。  1838-49(36-47) ミハイロフスキー砲兵学校で教官。 【業績】1831(29) 化学の教科書を発表。 1840(38) ヘスの法則を発表 。ヘスは硫酸と水を様々な割合で混合し、各々の組み合わせの反応熱を測定し、総熱量不変の法則を得た。 1842(40) 熱中性の法則を発表。後にスウェーデンの化学者アレニウスが理論で説明した。 【ネットワーク】 ベルセリウス  Jöns Jacob Berzelius 1779年8月20日 - 1848年8月7日 スウェーデンの化学者、医師。アルファベットの元素記号を考案。1803(24) セリウム発見。1817(38) セレン発見。▼1825年、訪問してきたヘスに対応。以来、ヘスは化学者志向になる。 アレニウス  Svante Arrhenius 1859年2月 - 1927年10月2日 スウェーデンの物理化学の創始者。1903(44) ノーベル化学賞受賞(電解質溶液理論の研究) ▼1889年、ヘスが1842年に発表した熱中性の法則を理論的に説明した。その間、47年。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Germain_Henri_Hess

1839、ゴムの加硫法~グッドイヤー(米):アルケーを知りたい(643)

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今回は化学。 ▼ ゴムの加硫法 :ゴムに硫黄を混ぜて弾性を拡大する方法。 用途:タイヤほか。加硫の発見によってゴム工業は大規模な工場生産へと変化 ▼経緯。 1493年、イタリア の コロンブス がカリブ海の島で弾むゴムボールを見て驚きヨーロッパに持ち帰る。このときはそれだけで以降の発展なし。 1736年、フランスの コンダミーヌ が南米の原住民がゴムの樹液で作った防水布やゴム靴を本国に紹介。ヨーロッパでゴムの実用化が開始。 イギリスの プリーストリー がゴムで鉛筆の字をこする rub と消えると報告し、消しゴムの発祥及び消しゴム rubber の名称の由来となる。 1839年、アメリカの グッドイヤー がゴムの加硫法を発見、工場生産の契機となる。 1888年、スコットランドの ダンロップ が自動車用タイヤの特許を取得。 1898年、アメリカの セイバーリング がグッドイヤーの名前を冠したゴム製造会社を創業。 グッドイヤーのここがすごい:実験で発生するガスを吸い込んで健康を害しても、極貧の生活にあっても、特許の紛争が起こっても、完成したと思ったゴム製品がべとべとして返品を食らったりしても、製品化するまで情熱を燃やし続けた気迫。グッドイヤーの名称でタイヤ会社を興した セイバーリングの思いも伝わってくるようだ。 ▼ グッドイヤー  Charles Goodyear 1800年12月29日 - 1860年7月1日  アメリカの発明家 【人物】父親は象牙のボタン製造業。 【教育】1816-21(16-21) フィラデルフィアで機械学を学ぶ。 【職業】1821(21) 父親のボタン製造業の手伝い。 1826-30(26-30) 農具製造の鍛冶屋。 【業績】1831(31) ゴム製造の研究を開始。実験で健康を害する。 1839(39) ゴムの加硫法を発見 。 1842(42) 義弟の資金でゴム工場を創業。 1844(44) 加硫ゴムの特許を取得。 1855(55) フランス皇帝ナポレオン3世がレジオンドヌール勲章を授与。 【ネットワーク】 コロンブス  Christopher Columbus 1451年 - 1506年5月20日 イタリアの探検家、航海者、奴隷商人。アメリカ航路の発見者。(→498) コンダミーヌ  Charles Marie de La Condamine 1