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famous last wordsは「それを先にやれ Make it priority」(ハンス・ハルバンさん):アルケーを知りたい(357)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ハンス・ハルバンさんはオーストリア生まれのユダヤ人物理学者。パリでフレデリック・ジョリオ・キュリーさんの元でコワルスキーさんらと核連鎖反応を研究する。その後、イギリスに渡り原爆開発プロジェクトに参加する。 ▼フリッシュさん、パイエルスさん、二人の本からハルバンさんの個性が伝わってくる。 ハンス・フォン・ハルバン  Hans von Halban , 1908年1月24日ライプツィヒ - 1964年11月28日パリ チューリッヒ大学で博士(指導教員はエドガー・メイヤー先生)。1937年、パリのコレージュ・ド・フランスで フレデリック・ジョリオ・キュリー さんの研究チームに参加。 フランシス・ペラン さん、 ルー・コワルスキー さんらと共に核連鎖反応を研究。1940年、ドイツ軍のパリ進軍を避けて渡英しケンブリッジ大学で研究を継続。MAUD委員会に参加。 フリッシュ 本 :フリッシュさんがケンブリッジでハルバンさんに会う場面は前回のコワルスキーさんの時と同じ。「ケンブリッジでは、パリからやってきた二人のフランス人の科学者が中心となって、違う種類の研究が始まっていた。彼らは、 ドイツによる占領後、フランス出国に成功したまさに最後の船で、世界中の重水を殆ど持って来ていた 。これにより二人はケンブリッジで実験を続けることができ、 ウランと重水の組合せで本当に連鎖反応が生じることを示した (pp.177-178)」 「この二人は、ともに生まれながらのフランス人ではなかった。ハンス・フォン・ハルバンはオーストリア生まれで、 巧みなまとめ役 だった。ハルバンは 英語を話し、世知に長け、自分を印象付ける方法を知っていた ので、たちまち 指導者の役割をつかんだ (p.178)」 パイエルス 本 :パイエルスさんの本でも、ハルバンさんとコワルスキーさんがイギリスに来た背景の紹介がある。「フランスが降伏したとき、パリでジョリオと一緒に働いていたハンス・フォン・ハルバンとレブ・コワルスキーは、世界で唯一 重水 の大量生産ができる ノルウェーの重水工場から入手したその積荷とともに、貨物船でイギリスにやってきた (p.241)」 「ハルバンは強い個性の持ち主で、自分の目的が重要だと思いこむと一心にそれを追求し、障害や遅延に我慢できなかった。ハルバンは精度より

派手さがなく真価が分かりにくいタイプの実力者(レブ・コワルスキーさん):アルケーを知りたい(356)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回は、レブ・コワルスキーさんのエピソードをフリッシュさんの本から紹介する。一見、真価が分かりにくいのが特徴の人。フリッシュさんとは良い友人だ。 レヴ・コワルスキー  Lew Kowarski , 1907年2月10日サンクトペテルブルク – 1979年7月30日ジュネーブ パリ大学で博士(指導教員はフレデリック・ジョリオ・キュリー先生)。WWIIのためパリからイギリスに脱出、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に所属。MAUD委員会に参加。 フリッシュ 本 :リバプール時代のフリッシュさんは、チャドウィックさんの下で働いていた。チャドウィックさんはフリッシュさんを信用していて、英国に逃れてくる物理学者との情報交換の機会を提供していた。その流れで、フランスから逃れてきたハルバンさんとコワルスキーさんとケンブリッジで会う。そのときのコワルスキーさんの印象が次だ。「ハルバンの仲間の レブ・コワルスキーはロシア生まれの熊のような男 で、初めのうち私は、コワルスキーと話すのにフランス語を使わなければならなかった。しかし、その後、コワルスキーは 驚くべきスピードで英語を勉強した ので、まもなく、たいへん 大勢のイギリス人から羨ましがられるほど、細部まで行き届いた英語力を獲得した (p.178)」 「フランスチームのメンバーで、 最初に原子核の連鎖反応の可能性を示した 。 カナダとフランスの両方で最初の原子炉を建設した (p.178、写真のキャプション)」 ▼「ケンブリッジへの出張は(中略)、いつも一晩か二晩はコワルスキー家に泊めてもらった。あるとき、私が行くと、レブが自慢げに『 昨夜、爆弾が落ちたんだぞ 』と言った。私は大いに感動し、レブは 落ちた場所を見せてあげよう と言った(pp.178-179)」 ・・・こういうフリッシュさんの書き方が好きだ。 ▼WWII終戦後、フリッシュさんはカナダのチョークリバーで数週間を過ごす。そのときにコワルスキーさんと再開する。「そこで重水炉の建設に取り組んでいる友人のコワルスキーに再会できたのはたいへん興奮に満ちた出会いだった。その後、コワルスキーは、カナダでの経験を活かしてフランスで最初の(そしてヨーロッパで最初の)原子炉を作り上げている(p.240)」 〔参考〕https://en.wikip

課題だったウラン同位体の分離を成功させた人物(フランシス・サイモンさん):アルケーを知りたい(355)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼サイモンさんは、イギリスでウラン同位体の分離を成功させた立役者。今回は、フリッシュさんとパイエルスさんの本でサイモンさんに触れている面白い箇所を抜き出した。 フランツ・サイモン / フランシス・サイモン  Franz Simon / Francis Simon , 1893年7月2日ベルリン-1956年10月31日オックスフォード  ▼サイモンさんの年表は、アルケーを知りたい(335) MAUD委員会(7) https://gakuryokuup.blogspot.com/2022/02/maud7.html フリッシュ 本 :フリッシュさんは、リバプール大学でチャドウィックさんの下で助手のジョン・ホルトさんとクルジウスの分離管で実験した結果、六フッ化ウランはクルジウスの方法が効かない気体であることを確認する。「幸いなことに パイエルスはその可能性を考慮に入れていて、フランツ・サイモンと共に、多孔膜中の拡散を利用する別の方法を考え出していた (p.172)」 フリッシュさんはオックスフォード大学クラレンドン研究所のサイモンさんの下で数か月働いた。 「フランツ・サイモンは著名な物理化学者で、ヒトラーの反セム主義の体制から、古い仲間の リンデマン教授(後にチャーウェル卿になった)によって救出 されていた。サイモンは 乾いたユーモアのセンスを物理と化学の両方の深い理解に結びつけ、パイエルスとともに、多孔質の金属膜中の拡散によるウランの同位体分離法を開発し た。その方法は初期の原爆製造に実際に用いられ、また、戦後に建設された多くの原子力発電所の燃料となる濃縮ウラン製造に今でも用いられている(p.179)」 パイエルス 本 :「同位体分離の実験研究を組織する人間が必要だった。(中略)私にはこの仕事に適切な人物の心当たりがあった。オックスフォードのフランツ(後にサー・フランシス)・サイモンである。 サイモンはドイツ人の難民で熱力学と低温物理の専門家 だった(p.239)」 「サイモンはベルリン育ちで、 ベルリン子の典型である辛辣なユーモアの持ち主 であり、第一次世界大戦ではドイツ軍に従軍した経験があった(pp.244-245) 物理学の深く詳しい知識を、健全で常識的な道具の作り方に結びつけるのがうまく、 彼の仕事は不必要な複雑さに迷い込む

大学間競争のなか、自学の発展に力を尽くした長老(ジョージ・B・ペグラムさん):アルケーを知りたい(354)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ジョージ・ぺグラムさんはコロンビア大学でサイクロトロン建設やユーリーさんとは酸素同位体の分離を研究した経験を持つ専門家。ユーリーさんと英国の原爆開発の状況を調査。帰国後、マンハッタン計画の拠点整備に伴い、アーサー・コンプトンさん率いるシカゴ大学への資源集中が進む。ユーリーさんやエンリコ・フェルミさんらがコロンビア大からシカゴ大へ移動。ぺグラムさんはコロンビア大から動かず、マンハッタン計画から離脱、別の方法で戦時研究に貢献した。 ジョージ・B・ペグラム  George Braxton Pegram , 1876年10月24日ノースカロライナ州-1958年8月12日ペンシルベニア州スワースモアで死去(82) 1903(27)コロンビア大学で博士。 1907(31)フンボルト大学でマックス・プランクさんとヴァルターネルンストさんの講義を受ける。 1909(33)コロンビア大学で助教授。 1918(42)コロンビア大学で正教授。潜水艦の位置を特定するた石英圧電音検出器を製作。WWI終戦。 1933(57)中性子の研究(1936年まで)。 1935(59) サイクロトロンを建設。酸素同位体の分離をハロルド・ユーリーさんと共同研究。 1939(63)イタリアから逃れてきた エンリコ・フェルミさんをコロンビア大学の教授として迎える (フェルミさんは1941年に大きな実験装置のあるシカゴ大学に移る) 1940(64)国防研究委員会(NDRC)傘下のS-1ウラン委員会に入る。 1941(65)8月 マーク・オリファントさんが訪米し原子爆弾の実現可能性を警告。 ユーリーさんらと訪英、チューブ・アロイズの会議に参加 。 1942(66)8月 S-1ウラン委員会がS-1実行委員会として再編、 シカゴ大学がマンハッタン計画の拠点になる。この時点でマンハッタン計画から離脱 。コロンビア大学で戦争研究委員会の議長等、大学の発展に尽くす。 パイエルス 本 :ジョージ・B・ペグラムさんは、ハロルド・ユーリーさんと共にチューブ・アロイズの技術委員会の最初の会合に参加した。「 原子核物理学の長老 であ るG・P (ママ) ・ベグラム である。二人ともコロンビア大学から来ていた(p.251)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Ge

米国のノーベル賞学者がチューブ・アロイズの会議に臨んだ!(ハロルド・ユーリーさん):アルケーを知りたい(353)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ハロルド・ユーリーさんはアメリカの国防研究委員会(NDRC)傘下のウラン委員会のメンバー。1941年、米英の連携で原子爆弾開発の可能性を模索するため、コロンビア大学で同僚の化学者ジョージ. B. ペグラムさんと渡英。チューブアロイズ技術委員会に参加し、状況を米国に報告した。重水素を発見し、その功績でノーベル賞を受賞した本人がイギリスの原爆計画を確かめた。何が行われているか、誰よりも良く見通したことだろう 。 ▼米国から見学者が訪れた後、今度はパイエルスさんらが米国を訪問する。「1941年の暮までは、アメリカとの情報交換はかなり自由だった。しかし、もちろん全部の報告書を見たわけではないので、アメリカ人の考えの全貌を明確に把握することはできなかった。そこで、エイカース、ハルバン、サイモンそして私よりなる調査団がアメリカに覇権されることに決まった(p.256)」 「私はコロンビア大学で、 ユーリー と、その同僚で同位体分離工場の設計を研究している理論家のカール・コーエンと長時間の打合せを持った(p.258)」英国でMAUD委員会の初期段階で課題になっていたウラン同位体の分離方法のメドが立ち工場の設計段階に入っていた。この訪問で米国でも工場の設計段階になっていたことが分かる。 ハロルド・ユーリー  Harold Urey, 1893インディアナ州 - 1981カリフォルニア州 1923(30)カリフォルニア大学バークレー校で博士(指導教員は ギルバート・ルイス 先生)。コペンハーゲンの ニールス・ボーア 研究所で原子の構造を研究。 ハイゼンベルク さん、 ヘヴェシー さん、 パウリ さんらと会う。ドイツで アインシュタイン さんや ジェイムス・フランク さんに会う。 1929(36)コロンビア大学で准教授。 1931(38)重水素を発見。 1934(41)ノーベル化学賞受賞(重水素の発見)。コロンビア大学で教授。 1941(48)英国と原子爆弾の開発に関する協力を確立するためジョージ.B.ペグラムさんと渡英。 1942(49)マンハッタン計画に参加。ウランからウラン235同位体を得るガス拡散法を開発。 1945(52)Worn out by the effort(仕事に疲れ果てて)マンハッタン計画から離脱。研究生活に戻る。 パイエルス

核兵器の削減と核廃絶に尽力(ジョセフ・ロートブラットさん):アルケーを知りたい(352)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ジョセフ・ロートブラットさんは物理学者としてドイツの原爆開発を阻止するためマンハッタン計画に参加。途中でドイツにその能力がないと分かるとマンハッタン計画から降りる。それ以後も核兵器の問題に関心を持ち、1957(49)から1973(65)までパグウォッシュ会議の事務局長を務めた。 ジョセフ・ロートブラット  Joseph Rotblat , 1908年11月4日ワルシャワ - 2005年8月31日ロンドン ポーランド系ユダヤ人。1938(30)ワルシャワ大学で博士(物理学)。1939(31)渡英しチャドウィックさんの下でサイクロトロンの研究。ナチスドイツがポーランド侵攻、帰国できなくなる。病気のため脱出が遅れた奥さんは強制収容所で死去。チャドウィックさんらと共にドイツの脅威に対抗するためマンハッタン計画に参加。1945(37)ドイツに原爆製造能力がないことを知るとマンハッタン計画から離脱。リバプール大学で原子核物理学の講師。1946(38)イギリス国籍を取得。ポーランドとの二重国籍。1950(42)リバプール大学で博士(指導教員はチャドウィックさん)。1995(87)ノーベル平和賞受賞(国際政治における当面の核兵器の削減と、長期的な核廃絶のための努力に対して)。 フリッシュ 本 :「 ロトブラット は親切で、前向きで、常に他人の面倒を見て、人々を助けようとしていた。ロトブラットは後にパグウォッシュ会議の事務局長になり、今まで私が会った誰よりも、平和のために貢献している(p.173)」 パイエルス 本 :パグウォッシュ会議の話題でロトブラットさんが登場する。「ノーベル賞受賞の物理学者、セシル・パウエルが最初の議長となり、 ジョセフ・ロトブラット が事務局長となった。ロトブラットは1945年にロスアラモスを去って以来、核兵器に大きな関心を抱いていた。(中略)今ではパグウォッシュ会議が彼の第一の関心事になった。彼は1973年に事務局を引退するまでその任に就き、引退後もパグウォッシュに時間と勢力を注いでいる(p.421)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Rotblat オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert

プロジェクトの進行を支える優秀なOS役(マイケル・ペリンさん):アルケーを知りたい(351)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ マイケル・ペリン さんは英国の化学会社I.C.I.の化学者。WWIIの時期、MAUD委員会やチューブ・アロイズに協力、後には軍事諜報機関で、さらに原子力発電事業で英国に尽くした人物 。 マイケル・ペリン  Michael Willcox Perrin , 1905年9月13日カナダのビクトリア– 1988年8月18日 トロント大学で化学を学ぶ。インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(I.C.I.)に入社。1935年、 ポリエチレンの製造に必要な特許を取得。 ウォレス・エイカース さん (→アルケーを知りたい_349) を支援するため昇進。1940-1941年、MAUD委員会に参加。チューブ・アロイズの主要委員会を運営。約60人のチューブアロイズの科学者がマンハッタン計画に参加するため渡米。この時の世話役。ペリンさん自身は英国政府のコーディネータとして英国に残る。軍事諜報機関とそのスパイネットワークを通じてドイツの原子爆弾開発状況を調査。 クラウス・フックス さんによるスパイ行為で生じた被害の後処理を担当。 フリッシュ 本 :ペリンさんが登場する状況は次だ。1950年、フリッシュさんはケンブリッジにいた。BBCから水素爆弾について短い話をして欲しいというリクエストが来た。高度な秘密兵器の話なので、許可が必要。そこで、まず パイエルス さんに連絡。忙しくてダメ。次に フックス さんに連絡した。しかし「都合が悪い」とのことでダメ。そこで「所轄担当の マイケル・ペラン も許可を出せると知っていたので、ペランに接触してみた(p.249)」という流れでペリンさんが登場する。Perrinは訳によってペランだったりペリンだったりする。「ペランは、もし私が、録音の直前に事務所に来ることができれば、原稿を読み、何か削除すべきところがあれば指摘すると約束してくれた。(中略)ペランと話ができるまで、しばらく待たされたが、やがて現れたペランは、私の原稿をたいへん素早く読み、一、二か所の小さい変更を指示した後、私をBBCに活かせてくれた(p.249)」 パイエルス 本 :「 エイカース の補佐は同じくI.C.I.から来た マイケル・ペラン でポリエチレンの開発に寄与した化学者だった。ペリンは行政的な仕事を効率良く、落ち度なく実行した(p.250)」