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万葉集巻第1_64番歌(葦辺行く鴨の羽交ひに)~アルケーを知りたい(1769)

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▼寒い日の鴨の歌。多摩地域を流れる野川。寒い日、岸で14羽の鴨が同じ方を向いてうろうろしている様子を見ました。羽交に霜が降りるほどの冷え込みではありませんでした。鴨は存在そのものが歌になってるようです。  慶雲三年丙午に、難波の宮に幸す時、 志貴皇子 の作らす歌 葦辺 (あしへ) 行く鴨の羽交 (はが) ひに霜降りて 寒き夕は大和し思ほゆ  万64 *葦辺を行く鴨を見ると、羽の合わさったところに霜が降りています。こんな寒い夕べは大和を思い出します。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_63番歌(いざ子ども早く日本へ)~アルケーを知りたい(1768)

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▼そうだったんだ、山上憶良は遣唐使のメンバーで唐で勉強していたことあったんだと改めて認識しました。序に大唐と本郷が並列している。本郷、すげえ(東大本郷キャンパス、すげえと思いました)。   山上臣憶良 、大唐に在る時に、本郷を憶ひて作る歌 いざ子ども早く日本へ大伴の 御津の浜松待ち恋ひぬらむ  万63 *さあ皆さん、早く日本に戻りましょう。難波津の松も私たちを待ち焦がれているでしょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_62番歌(在り嶺よし対馬の渡り)

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▼700年代に日本から船で唐を往復するのは並大抵じゃなかった。今回の歌はそういう旅事情の時代、遣唐使として船に乗ることになった三重連 (みののむらじ) に春日蔵老が贈った道中安全を祈る歌。 三重連 名は欠けたり 入唐する時に、 春日蔵首老 が作る歌 在り嶺 (ありね) よし対馬の渡り海中 (わたなか) に 幣 (ぬさ) 取り向けて早 (はや) 帰り来ね  万62 *対馬から大陸に向かう海路に航海の安全を祈る幣を捧げて、無事に早く戻って来てください。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_61番歌(ますらをのさつ矢手挟み)~アルケーを知りたい(1766)

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▼今回の歌は構造が面白い。「ますらをのさつ矢手挟み立ち向ひ射る」までは「円方」の序。本体は「円方は見るにさやけし」。現在の円方は 三重県松阪市の万葉遺跡。伊勢湾に流れ込む川の一帯。娘子に歌にしてもらうと土地のバリューが上がるのだ。 舎人娘子、従駕にして作る歌 ますらをのさつ矢手挟み立ち向ひ 射る円方 (まとかた) は見るにさやけし  万61 *益荒男が幸い多い矢を手に挟み持って立ち向かい射る的。そんな的=円方の地はとても爽やかです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_60番歌(宵に逢ひて朝面なみ)~アルケーを知りたい(1765)

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▼今回は序が長いタイプの歌。「夜どおし一緒にいて朝顔を合わせるのが憚られるという名張」という名張にかかる序。その名張で作者の彼女は 何日も忌籠りを続けている。作者は一人で寂しいのだろう(笑)。 長皇子の御歌 宵に逢ひて朝面 (あしたおも) なみ名張 (なばり) にか 日 (け) 長く妹が廬 (いほ) りせりけむ  万60 *名張で何日もあの子は忌籠りしているのでしょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_59番歌(流らふるつま吹く風の)~アルケーを知りたい(1764)

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▼今回の59番歌は、持統上皇が三河の国に行幸して都に戻って開かれた宴での歌。夫が随行している間、家を守っていた妻の気持ちを詠った作品、と解釈することにした(笑)。上皇を囲む会だったのか、上皇がいないところで行幸関係者が集まった会だったのか。はてさて。 誉謝女王が作る歌 流らふるつま吹く風の寒き夜に 我が背の君はひとりか寝らむ  万59 *絶え間なく家の妻側に吹きつける風が寒い夜。私の夫はひとりで寝ておられるのでしょう・・・。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_58番歌(いづくにか舟泊てすらむ)~アルケーを知りたい(1763)

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▼今回の歌、小舟が水の上を動いている風景を詠った作品。水墨画になりそうな風景。安礼の崎をふわふわと漕ぎ廻る小舟を眺めながら、この舟、どこに行くつもりなのかと思う高市黒人。画にするとしたら、舟と舟を眺める高市黒人を遠景から描くのが良さそう。 いづくにか舟泊 (は) てすらむ安礼 (あれ) の崎 漕ぎ廻 (た) み行きし棚なし小舟  万58 *どこに舟を泊めたのでしょうか、安礼の崎を漕ぎ廻って行った棚なし小舟は。  右の一首は 高市連黒人 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_57番歌(引馬野ににほふ榛原)~アルケーを知りたい(1762)

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▼今回は、紅葉の野原に入って服を染めましょうやと呼びかける歌。上手い!マネしたい!!    二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌  引馬野 (ひくまの) ににほふ榛原 (はりはら) 入り乱れ 衣にほほせ旅のしるしに  万57 *引馬野に咲き誇っている榛原にみんなで入って、衣に色を染め付け旅の印にしましょう。  右の一首は 長忌寸意吉麻呂 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_56番歌(川の上のつらつら椿)~アルケーを知りたい(1761)

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▼今回は前の54番で見た坂門人足の「つらつら椿つらつらに」のフレーズが出て来る歌。伊藤先生の脚注によると、56番のこの歌が54番の原歌かも知れないとのこと。54番では巨勢が二度出て来るが56番は一度きり。老のこの歌を見ていると、巨勢の春野を眺めている気がしてくる。どちらにしても、つらつら気分になるのは精神に良さそう。 或る本の歌 川の上のつらつら椿つらつらに 見れども飽かず巨勢の春野は  万56  右の一首は 春日蔵首老 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_55番歌(あさもよし紀伊人)~アルケーを知りたい(1760)

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▼今回の歌の冒頭の「あさもよし」は紀伊の枕詞で、特産の麻裳が良い、という意味。紀伊は「朝も良し」と思ってたら、違ってました。で、この歌の本意は何だろうか。紀伊の人はどこかに 行くときもどこからか来る時も 真 土山を 眺められるから羨ましい、といって真 土山と紀伊の人を誉めることにありそう。調淡海にそこまでいわれると見たくなる。 あさもよし紀伊人羨しも真土山 行き來と見らむ紀伊人羨しも  万55 *紀伊の人がうらやましいです。行くときも来るときも真土山を眺められるのですから、紀伊の人がうらやましいです。   右の一首は調音淡海。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_54番歌(巨勢山のつらつら椿)~アルケーを知りたい(1759)

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▼今回は「つらつら」の響きが楽しい春の歌。持統上皇が紀伊の国に行幸した。この歌の作者、坂門人足は同行してこの歌を詠ったのか、都で留守番をして巨勢の春野に思いを馳せたのか、どっちだろう。  大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊の国に幸す時の歌 巨勢山 (こせやま) のつらつら椿つらつらに 見つつ偲はな巨勢の春野を  万54 *巨勢山のつらつら椿をゆるりと眺めながら巨勢の春の野原に思いを馳せましょう。  右の一首は坂門人足。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_1番歌(籠もよみ籠持ち)~アルケーを知りたい(1758)

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▼今回の1番歌から前回の53番歌までが万葉集全20巻の元になった最初の歌集という。私には1番歌はとても難しいから、参考書の著者・伊藤先生仰るところの「原万葉」52首に目を通してからにした次第。 ▼余計なことだけど、万葉集に入りにくいとしたら、「1番歌の壁」問題があると思う。昔バイオリンのレッスンを受けたとき、教本の1番を飛ばして次の練習曲から始めたことがあって、恩師が「そういう習慣なんですよ」と説明してくれたことがあった。そのデンで、万葉集も2番から入ると良いかも。 ▼1番歌の壁問題とは、漢字の読みが難しい・男が可愛い子に声をかける歌じゃん(という戸惑い)・歌の後半「我」が3回出てきて押しが強すぎ・この歌を詠った雄略天皇がメチャ怖い人物・続く2番歌を消し飛ばしてしまうインパクトがある等など 。  泊瀬 (はつせ) の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇 (すめらみこと) の代  大泊瀬稚武天皇 天皇 (おほ はつせ わかたけの すめらみこと) の御製歌 籠 (こ) もよ み籠持ち  掘串 (ふくし) もよ み掘串 (ぶくし) 持ち  この岡に 菜摘 (なつ) ます子 家告 (の) らさね そらみつ 大和の国は  おしなべて 我れこそ居 (を) れ  しきなべて 我れこそ居れ  我れこそば 告らめ 家をも名をも 万1 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_53番歌(藤原の大宮仕へ)~アルケーを知りたい(1757)

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▼今回の53番が万葉集の元になった歌集の締めの歌。最初は53首で始まった歌集だったのだ。藤原の宮と娘子を誉める明るい歌。下の句で「をとめ」「ともは」「ともしき」と「と」音が重なっているのが印象的。  短歌 藤原の大宮仕へ生 (あ) れ付くや 娘子 (をとめ) がともは羨 (とも) しきろかも *藤原の大宮に仕える廻り合わせ。そんな生まれ付きの娘子たちは羨ましい限り。  右の歌は、作者未詳。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_52番歌(とこしへにあらめ)~アルケーを知りたい(1756)

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▼今回は藤原宮の素晴らしさをほめたたえる歌。香具山、畝傍山、耳成山、吉野山が出て来る。そして豊かな清水が湧く井戸。山々のよき、井戸のよき。  藤原の宮の御井 (みゐ) の歌 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は  日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば  とこしへにあらめ 御井の清水  万52 *吉野の立派な宮殿の井戸で湧き出る清らかな水よ、永遠なれ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_51番歌(采女の袖吹きかへす)~アルケーを知りたい(1755)

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▼694年、持統天皇は都を明日香の宮から 距離にして3kmくらい離れた 藤原宮に遷した。志貴皇子が 飛鳥宮が寂しくなった気持ちを風に託して詠んだ歌。藤原宮は最新のコンセプトで作られた都だったので、暮らし馴れた明日香の宮にいると、そこはかとない置いてきぼり感があったのだろうと思ふ。  明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、 志貴皇子 の作らす歌 采女 (うねめ) の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く  万51 *女官の袖を揺らす明日香の風。都が遠のいたいま、空しく吹いています。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_50番歌(いそはく見れば)~アルケーを知りたい(1754)

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▼前書きにある「藤原の宮」とは、天武天皇が計画し、持統天皇が実現した藤原京(奈良県橿原市)のこと。縦横が5.3Kmの規模。でかい。条坊制を採用した日本で初めての本格的な都。694年に飛鳥浄御原宮から藤原の宮に遷都した。50番はその記念となる長歌。参考書の伊藤博先生によると、 作者は役民とあるが、実 は高級官人らしいとのこと。役人が労役に汗を流す民の立場に立って詠った歌だ。いそはく見ればの「いそはく」は頑張っている状態のこと。では今日も、いそはくやるとしますか。  藤原の宮の役民の作る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤原が上に 食 (を) す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地 (あめつち) も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山 (たなかみやま) の 真木 (まき) さく 檜 (ひ) のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道 (こせぢ) より 我が国は 常世にならむ 図負 (あやお) へる くすしき亀も 新代 (あらたよ) と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝 (のぼ) すらむ  いそはく見れば 神からにあらし  万50 *藤原の宮の造営に民が力を尽くしているのを見ると、これは神意であるかららしい。  右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八日に、藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春の正月に、藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に、藤原の宮に遷る」といふ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_46-49番歌(安騎の野に宿る旅人)~アルケーを知りたい(1753)

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▼46番から49番の四首は起承転結になっているというので、並べてみた。 「転」に相当する48番が良き。東にはかげろう、反対を向くと月が傾いているという視線の動かし方の良き。「結」に出て来る「馬並めて」、これも良き良き。  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 日並皇子 (ひなみし みこ) の馬並めて み狩立たしし時は來向ふ  万49 *安騎の野で野宿する旅人は、ゆっくり寝てなどいられません。昔のことを思うにつけて。 *ここは荒野だけれども、昔の君を思い出すために参りました。 *東の野に陽炎が見えます。反対を見ると月が傾いています。 *日並皇子が 馬 を並べて狩りに向かう時がやって来ました。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_45番歌(小竹を押しなべ草枕)~アルケーを知りたい(1752)

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▼万葉集の歌は、誰が誰を詠っているのか分からなくなることが時々ある。今回の45番の前書きから、軽皇子がキャンプしたとき、人麻呂が作った歌、ということは分かる。でも長歌の冒頭の 「わが大君」とは誰のことを言っているのだろう。軽皇子だろう。ということは「いにしへ思ひて」は軽皇子が、亡き父・草壁皇子を思って、ということになりそう。だから45番歌は、人麻呂が軽皇子の行動と思いを歌にした作品、ということか。▼フィールドでどんな野宿をしていたのか気になる。「小竹(しの)を押しなべ草枕」という句の小竹を平らかにするのはいかにもリアルで、草を枕にするのはいかにも喩え。リアルと喩えが入り混じっている。昔読んだヘミングウェイの小説に出て来る若者ニックがキャンプするときの描写を思い出す。ニックも小竹を押しなべてその上に毛布を敷いて寝る準備をしていた。   軽皇子 、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき  小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて  万45 *雪が降る安騎の大野のススキや小竹を押し広げて一夜を過ごします。昔のことを思いながら。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_44番歌(我妹子をいざ見の山を)~アルケーを知りたい(1751)

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▼今回の44番歌は夫の立場から妻を詠った作品。前回の43番と対になる格好だ。歌に直接関係がなさそうに見える後書きにたいへん興味深いことが書いてある。吉野に行こうとする持統天皇に、今のタイミングではありませんぬ、と中止を求める高市皇子。そんなことを聞かないで吉野に行く持統天皇。高市皇子の忠誠と持統天皇の強さを感じる。   石上大臣 、従駕にして作る歌 我妹子をいざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも  万44 *わが妻をさあ見よう、といういざ見の山は高いです。でも大和の国は見えません。遠いからでしょう。  右は、日本紀には「朱鳥の六年壬辰の春の三月丙寅の朔の戊辰に、浄広肆 広瀬王 等をもちて留守官となす。 ここに中納言三輪朝臣 高市麻呂 、その冠位を脱きて朝に捧げ、重ねて諫めまつりて曰さく、「農作の前に車駕いまだもちて動すべからず」とまをす。 辛未に、 天皇 諫めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸す。 五月乙丑の朔の庚午に、阿胡の行宮に御す」といふ。 ▼ 44番の後書きをビジュアルにした。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_43番歌(我が背子はいづく行くらむ)~アルケーを知りたい(1750)

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▼今回は出張に出た夫を偲ぶ歌。「沖つ藻」は「名張の山」の枕詞。舟旅ではなく徒歩の旅。この43番歌は、511番でももう一度出て来る。同じ歌が二度出て来るのは珍しい。   当麻真人麻呂が妻 の作る歌 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ  万43 *私の夫はどこを行っているのでしょう。今日あたり名張の山を越えるとか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1