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万葉集巻13-15番歌(香具山は畝傍を惜しと)~アルケーを知りたい(1238)

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▼この歌に出てくる香具山と耳成を、現代の国の名前に置き換え、畝傍を 現代の 地域の名前に置き換えると、神代より・古も・うつせみもこの世で起こることは変わらないなあ、と思ふ。  中大兄 <近江の宮に天の下知らしめす天皇> の三山の歌 香具山は 畝傍を惜しと 耳成と 相争ひき 神代より  かくあるらし  古も  しかにあれこそ  うつせみも  妻を争ふらしき 万13 *香具山は畝傍を手放したくないというので耳成と争ったという。 神代からそんな調子であるらしい。昔からそうだったので現代も女性を巡って男どもが争うのだ。  反歌 香具山と耳成山と闘ひし時 立ちて見に来し印南国原  万14 *香具山と耳成山が戦ったとき、立ち見に来たのが印南国原だ。 海神の豊旗雲に入日さし 今夜の月夜さやけくありこそ  万15 *海の向こうに出ている雲に夕陽がさしている。今夜の月夜は清く澄むだろう。 【似顔絵サロン】 天智天皇  てんちてんのう 中大兄皇子 626 - 672 第38代天皇。645年、19歳のとき中臣鎌足と共に皇極天皇の御前で蘇我入鹿を殺す「乙巳の変」を実行。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻10-12番歌(君が代も我が代も)~アルケーを知りたい(1237)

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▼今回の歌を作った 中皇命 (なかつすめらみこと )は、 舒明天皇の娘の間人皇女のこと、歌に出てくる「 君が代の君」は中大兄皇子のこと。後書きの「天皇の御製」の天皇とは、斉明天皇のことだそうだ。 斉明天皇に代わって 中皇命が歌を作った格好。 ▼10番歌の岩代の岡とは和歌山県にある地域。草根を結ぶのは長寿を祈るまじない。岩代の岡の草根が人の命を支配している、という前提。 ▼和歌っぽいリズムと名詞と言い回しが出ている。和歌の泉源と思ふ。  中皇命、紀伊の温泉に往す時の御歌 君が代も我が代も知るや岩代の 岡の草根をいざ結びてな  万10 *私たちを支配している岩代の岡の草根。さあ、草根を結んで幸いを祈りましょう。 我が背子は仮廬作らす草なくは 小松が下の草を刈らさね  万11 *われらの君が仮廬をお造りです。屋根を葺く茅がなかったら、小松の下の草を刈り取ってください。 我が欲りし野島は見せつ底深き 阿胡根の浦の玉ぞ拾はむ   或いは頭に「我が欲りし子島は見しを」といふ  万12 *私が見たかった野島は見せてもらいました。あとは阿胡根の浦の底深いところにある玉を拾えばOKです。  右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、「天皇の御製歌云々」といふ。 【似顔絵サロン】 斉明天皇  さいめいてんのう 594年 - 661年 第37代天皇。舒明天皇の皇后。天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母親。皇極天皇と同一人物。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻8‐9番歌(熟田津に船乗りせむ)~アルケーを知りたい(1236)

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▼ 661年、 天豊財重日足姫天皇= 斉明天皇(= 皇極天皇 )の歌として 額田王が詠んだ作品。後書きに山上憶良の解説の引用がある。その引用に書いてある年代から、この歌は661年に斉明天皇が道後温泉に静養に訪れたときのものと分かる。 熟田津 (にきたつ) は松山の道後温泉に行くときの港。移動には舟を使っていたのだ。  後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇、後に後の岡本の宮に即位したまふ   額田王が歌 熟田津に船乗りせむとて月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな  万8 *熟田津で船に乗るため月を待っていました。潮もいい具合になってきました。さあ今漕ぎ出ましょう。  右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、「飛鳥の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑の、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午に、天皇・大后、伊予の湯の宮に幸す。 後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉の春の正月丁酉の朔の壬寅に、御舟四つかたに征き、始めて海道に就く。 庚戌に、御船伊予の熟田津の石湯の行宮に泊つ。 天皇、昔日のなほし存れる物を御覧して、その時にたちまちに感愛の情を起したまふ。 この故によりて歌詠を製りて哀傷しびたまふ」といふ。 すなはち、この歌は天皇の御製なり。 ただし、額田王が歌は別に四首あり。  紀伊の温泉に幸す時に、額田王が作る歌 莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本  万9 【似顔絵サロン】 蘇我 馬子  そが の うまこ 551年 - 626年 飛鳥時代の政治家、貴族。蘇我蝦夷の父親。崇峻天皇を暗殺、推古天皇を立てた。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻7番歌(秋の野のみ草刈り)~アルケーを知りたい(1235)

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▼7番は皇極天皇の歌。額田王の代作という。後書きに山上憶良の名前が出てくる。憶良の名前を見るだけでなぜか心落ち着く。皇極天皇は661年に亡くなり、前年の660年に憶良が誕生。 ▼秋の野の草を刈って、それを屋根にして仮の廬にした、というから、当時の人はアウトドア生活の達人だったことが分かる。  明日香の川原の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)   額田王が歌  いまだ詳らかにあらず 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治の宮処の仮廬し思ほゆ  万7 *秋の野で草を刈って屋根を葺いて宿にした宇治の宮の仮廬を思い出します。  右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、「一書には『戊申の年に比良の宮に幸すときの大御歌』」といふ。 ただし、紀には「五年の春の正月己卯の朔の辛巳に、天皇紀伊の温湯より至ります。 三月戊寅の朔に、天皇吉野の宮に幸して肆宴したまふ。 庚辰の日に、天皇近江の比良の浦に幸す」といふ。 【似顔絵サロン】 蘇我 蝦夷  そが の えみし 586年 - 645年 飛鳥時代の政治家・貴族。父親は蘇我馬子。息子が入鹿。乙巳の変で自害。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻5-6番歌(霞立つ長き春日の)~アルケーを知りたい(1234)

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▼今回の長歌は天皇の行幸に同行した軍王が、山を見て詠ったもの。面白いのは、短歌の後の注釈(これは大伴家持の仕事らしい)。「天皇が 讃岐の国に行幸した記録はない」「 軍王が誰かも分からない」という。ただし「山上憶良の『 類聚歌林 』 には天皇が伊予の温湯に出かけた記録がある」という。 ▼ 類聚歌林は 残念ながら 散逸して今はない。 ないことだらけなので、確認できないことが多い。確かなのは、軍王が山を見て作った長歌と短歌が残っていること。5番と6番の歌が出来た661年は、憶良が1歳でほぼ同時代ということ。憶良の名前が出てくるとなぜかほっとする。    讃岐の国の安益の郡に幸す時に、軍王 (こにきしのおほきみ) が山を見て作る歌 霞立つ 長き春日の  暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み  ぬえこ鳥 うら泣き居れば  玉たすき 懸けのよろしく  遠つ神 我が大君の  行幸の 山越す風の  ひとり居る 我が衣手に  朝夕に 返らひぬれば  ますらをと 思へる我れも  草枕 旅にしあれば   思ひ遣る たづきを知らに  網の浦の 海人娘子らが  焼く塩の  思ひぞ焼くる  我が下心  万葉5 *出張先で鳥の悲しげな鳴き声を聞いて里心がわき、自分では一人前の男子と思っているのだけれど、網の浦で海人娘子が塩を焼くように私の心も故郷を思い焦がれる。  反歌 山越しの風を時じみ寝る夜おちず 家にある妹を懸けて偲ひつ  万葉6 *山から吹く風のせいで夜熟睡できず、家で待っている妻のことを考えて過ごす。  右は、日本書紀に検すに、讃岐の国に幸すことなし。 また、軍王もいまだ詳らかにあらず。 ただし、 山上憶良 大夫が類聚歌林に曰はく、「紀には『天皇の十一年己亥の冬の十二月己巳の朔の壬午に、伊予の温湯の宮に幸す云々』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。 この二つの樹に斑鳩と比米との二つの鳥いたく集く。 時に勅して多に稲穂を掛けてこれを養はしめたまふ。 すなはち作る歌云々』といふ」と。 けだし、ここよりすなはち幸すか。 【似顔絵サロン】 山上 憶良  やまのうえの おくら 660 - 733 奈良時代初期の貴族・歌人。726年、筑前守。728年、大宰帥の大伴旅人と筑紫歌壇を形成。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo

万葉集巻3‐4番歌(やすみしし我が大君の)~アルケーを知りたい(1233)

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▼舒明天皇が宇智の野(奈良県五條市)で狩猟をしたとき、中皇命 (なかつすめらみこと) が中臣間人老 (なかとみのはしひと の おゆ) にオーダーして作らせた歌。 ▼歌に出てくる梓弓は、梓の木で作った弓のこと。樹木としては カバノキ科の落葉高木で、 いまは梓と呼ばなくなっており、歴史的な単語だ。弾力性に富み弓の材料として徴用されたらしい。後世で 版木に使われたので、本を出すのを 上梓という。こんなところに梓が残っていた。 ▼中弭が弓のどこを差すのか分からない。 弭という字は、弓と耳なので、文字通り弓の上端と下端のことのようだ。歌には「 音すなり」とあるから、弦の音かと思ったけど、 弭は本体のことなので、弦ではなさそう。  天皇、宇智の野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老をして献らしめたまふ歌 やすみしし 我が大君の  朝には 取り撫でたまひ  夕には い寄り立たしし  み執らしの  梓の弓の  中弭 (なかはず) の 音すなり   朝狩に 今立たすらし  夕狩に 今立たすらし  み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり  万3 *我らが大君は、朝は手に取って撫で、夕には手に取ってお立ちになる、梓弓。 ぶんぶんと弓の音が聞こえます。朝狩りに今お立ちになるのでしょう。 夕狩りに今お立ちになるのでしょう。 手に取っておられる梓弓の音が聞こえます。  反歌 たまきはる宇智の大野に馬並めて 朝踏ますらむその草深野  万4 *宇智の大野に馬を並べ、朝から草深野に踏み出て行かれるのです。 【似顔絵サロン】 皇極天皇  こうぎょくてんのう 594年 - 661年 第35代天皇。舒明天皇の皇后。天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母親。斉明天皇と同じ人物。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻2番歌(大和には群山あれど)~アルケーを知りたい(1232)

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▼万葉集の2番歌は、舒明天皇が奈良県橿原市にある香具山に登って、日本の豊かさを詠った作品。歌に出てくる蜻蛉はトンボのことで、トンボが飛ぶ幸いな国、大和の国。   高市の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代  息長足日広額天皇  天皇、香具山に登りて国を望たまふ時の御製歌 大和には 群山あれど  とりよろふ 天の香具山  登り立ち 国見をすれば  国原は 煙立ち立つ  海原は 鴎立ち立つ  うまし国ぞ 蜻蛉島 (あきづしま)   大和の国は  万2 *大和には山がたくさんある。そのなかの天の香具山に登り立って風景を眺めると、村の家々からは煙が 立ちのぼり、海には鴎たちが飛んでいる。まことによい国であることよ、豊かな大和の国は。 【似顔絵サロン】 息長足日広額天皇  おきながたらしひひろぬかのすめらみこと /  舒明天皇  じょめいてんのう 593年 - 641年 第34代天皇。皇后は皇極天皇。息子は中大兄皇子=天智天皇。 630(37) 遣唐使を開始。 政治は蘇我蝦夷が進めた。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 万葉百科 奈良県立万葉文化館 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻1番歌(籠もよみ籠持ち)~アルケーを知りたい(1231)

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▼今回から万葉集の中の万葉集と言われる1番から53番の歌を順に見て行く。最初は大泊瀬稚武天皇=雄略天皇。どんな人物だったのかは下記URLを御覧ください。 ▼1番歌の核となるフレーズは「 大和の国は、 おしなべて我れこそ居れ。 しきなべて我れこそ居れ 」だと思ふ。   雑歌  泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇の代  大泊瀬稚武天皇   天皇の御製歌 籠 (こ) もよ み籠持ち  掘串 (ふくし) もよ み掘串持ち  この岡に 菜摘ます子  家告らせ 名告らさね  そらみつ  大和の国は  おしなべて 我れこそ居れ  しきなべて 我れこそ居れ   我れこそば 告らめ  家をも名をも 万1 *立派な籠を持ち、立派な掘串 (シャベル) を持ち、この岡で菜を積んでいる娘よ。どこの家の子で名は何というのか。ここ大和の国は隅々まで私が支配している。私から名乗ろうか、家も名も。 【似顔絵サロン】 大泊瀬稚武天皇  おほはつせわかたけのすめらみこと /  雄略天皇  ゆうりゃくてんのう 418年 - 479年 第21代天皇。考古学的に実在が確定している古墳時代の天皇。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

大伴家持の万葉集4514-4516番歌~アルケーを知りたい(1230)

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▼今回は万葉集の最後の3首を見る。いずれも家持の歌。 ラストを飾る4516番は759年の作。この年、家持41歳。 ▼幸いを祈る 「 いやしけ吉事 」で締め括る姿勢が学び所と思ふ。  二月の十日に、内相が宅にして渤海大使小野田守朝臣等を餞する宴の歌一首 青海原風波靡き行くさ来さ つつむことなく舟は早けむ  万4514  右の一首は右中弁大伴宿禰家持。<いまだ誦せず> *青海原は風も波も靡いています。往来には何の問題もなく舟はすいすいと進むことでしょう。  七月の五日に、治部少輔大原今城真人が宅にして、因幡守大伴宿禰家持を餞する宴の歌一首 秋風の末吹き靡く萩の花 ともにかざさず相別れむ  万4515  右の一首は、大伴宿禰家持作る。 *秋風が萩に吹いて花が靡いています。共に萩の花を共にかざさすこともできずお別れすることになるんですね。  三年の春の正月の一日に、因幡の国の庁にして、饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首 新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事  万4516  右の一首は、守大伴宿禰家持作る。 *新しい年の初め。初春の今日降っている雪のようにめでたいことが降り積もりますように。 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。14歳年上。 菩提僊那  ぼだいせんな 704 - 760 奈良時代の渡来僧。南インド出身。ボーディセーナ。752年、東大寺大仏殿の開眼供養法会導師。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=174 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

大伴家持の万葉集3991-3992番歌~アルケーを知りたい(1229)

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▼今回も 富山県高岡市の自然を褒める家持の歌。仲間と馬を並べて風景を楽しみ、さらに舟を浮かべて水上からも風景を味わう。この人たちは、気球があれば、空からの風景を眺めて歌にしたに違いない。射水の郡の 布勢の水海が万葉スポットだと知れる歌だ。  布勢の水海に遊覧する賦一首 幷せて短歌 <この海は射水の郡の古江の村に有り> もののふの 八十伴の男の  思ふどち  心遣らむと  馬並めて うちくちぶりの  白波の 荒磯に寄する  渋谿の 崎た廻り  麻都太江の 長浜過ぎて  宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き  見つれども そこも飽かにと  布施の海に 舟浮け据ゑて  沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば  渚には あぢ群騒き  島廻には 木末花咲き  ここばくも 見のさやけきか  玉櫛笥 二上山に  延ふ蔦の 行きは別れず  あり通ひ いや年のはに  思ふどち  かくし遊ばむ  今も見るごと 万3991 布勢の海の沖つ白波あり通ひ いや年のはに見つつ偲はむ  万3992 *布勢の海の沖に立つ白波のように毎年ここに通って思いをはせよう。  右は守大伴宿禰家持作る。四月の二十四日 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。9歳年上。 張 巡  ちょう じゅん 709 - 757 唐代の武将。中国史上有名な忠義義士のひとり。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=174 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

大伴家持の万葉集3985-3987番歌~アルケーを知りたい(1228)

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▼今回の歌に出る二上山と 渋谿は 富山県高岡市にある山と海。 射水川は現在の名は小矢部川。見れば素晴らしい山、川、海である、昔からもこれからも見る人は賛美するだろう、と詠う。  二上山の賦一首 <この山は射水の郡に有り> 射水川 い行き廻れる  玉櫛笥 二上山は  春花の 咲ける盛りに  秋の葉の にほへる時に  出で立ちて 振り放け見れば  神からや そこば貴き  山からや 見が欲しからむ  統め神の 裾廻の山の  渋谿の 崎の荒磯に  朝なぎに 寄する白波  夕なぎに 満ち来る潮の  いや増しに 絶ゆることなく   いにしへゆ 今のをつつに  かくしこそ 見る人ごとに  懸けて偲はめ 万3985 渋谿の崎の荒磯に寄する波 いやしくしくにいにしへ思ほゆ  万3986 *渋谷崎の荒磯に打ち寄せる波を眺めているうちに、つぎつぎ昔のことが思い出される。 玉櫛笥二上山に鳴く鳥の 声の恋しき時は来にけり  万3987 *二上山で鳴く鳥の声が恋しくなる時期がやってきた。  右は、三月の三十日に、興に依りて作る。大伴宿禰家持 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。12歳年上。 藤原 仲麻呂  ふじわら の なかまろ 恵美押勝 706 - 764 奈良時代の公卿。藤原武智麻呂の次男。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=174 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

大伴家持の万葉集3983-3984、3988番歌~アルケーを知りたい(1227)

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▼ホトトギスは立夏の日に来て鳴くのが必定なり、とのこと。知らんかった。昔と今は暦が違うけど、今年の立夏は5月5日。  立夏四月、すでに累日を経ぬるに、なほし霍公鳥の鳴くを聞かず。よりて作る恨みの歌二首 あしひきの山も近きをほととぎす 月立つまでに何か来鳴かぬ  万3983 *山に近い場所というのに、ホトトギスよ、立夏 (三月二十一日) を過ぎたのになぜ来て鳴かないの? 玉に貫く花橘をともしみし この我が里に来鳴かずあるらし  万3984 *橘の木が少ないから、私の庭に来て鳴かないのだろう。  霍公鳥は、立夏の日に、来鳴くこと必定なり。 また、越中の風土は、橙橘のあること希なり。 これによりて、大伴宿禰家持、懐に感発して、いささかにこの歌を裁る。三月の二十九日。  四月の十六日の夜の裏に、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、懐を述ぶる歌一首 ぬばたまの月に向ひてほととぎす 鳴く音遥けし里遠みかも  万3988  右は、大伴宿禰家持作る。 *暗い夜、月に向かってホトトギスが鳴く声がかすかに聞こえる。里から遠いところにいるのだろう。 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。11歳年上。 儲 光羲  ちょ こうぎ 707 - 763 唐の詩人 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=174 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

大伴家持の万葉集3965-3966番歌~アルケーを知りたい(1226)

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▼体調不良から立ち直ったもののまだ本調子ではない家持が、友人の池主に贈った歌。長めの前書きのおかげで家持がどういう状況なのかが伝わる。 ▼梅の花が咲いている枝を手折って頭につけるのは、植物の生命エネルギーに預かりたいことから、という。手折る力がない、取り戻したい、と詠う家持。  守大伴宿禰家持、掾大伴宿禰池主に贈る悲歌二首 たちまちに枉疾に沈み、累旬痛み苦しむ。 百神を禱ひ恃み、かつ消損すること得たり。 しかれども、なほし身体疼羸、筋力怯軟なり。 いまだ展謝に堪へず、係恋いよいよ深し。 今し、春朝の春花、馥ひを春苑に流し、春暮の春鶯、声を春林に囀る。 この節候に対ひ、琴罇翫ぶべし。 興に乗る感ありといへども、杖を策く労に耐へず。 独り帷幄の裏に臥して、いささかに寸分の歌を作る。 軽しく机下に奉り、玉頤を解かむことを犯す。 その詞に曰はく、 春の花今は盛りににほふらむ 折りてかざさむ手力もがも  万3965 *春の花が今は盛りと匂っています。手折ってかんざしにできる力が残っていればなあ・・・と思います。 うぐひすの鳴き散らすらむ春の花 いつしか君と手折りかざさむ  万3966 *ウグイスが鳴いては花を散らす春の季節、いつかあなた様と枝を手折りかんざしにしたいものです。  二月の二十九日、大伴宿禰家持。 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。10歳年上。 李 光弼  り こうひつ 708年 - 764年8月15日 唐代の部将。安禄山の乱の鎮圧に貢献。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=174 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

大伴家持の万葉集3960-3961番歌~アルケーを知りたい(1225)

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▼家持が友達の 大伴池主との再会を喜ぶ歌。庭に雪が降りはじめどんどん積もる。宿からは海が見えて、漁夫の舟が浮かんでいる様子が眺められる。お酒、詩作、琴の用意も整っている。詩酒の宴、弾糸飲楽。最高のシチュエーション。 ▼11年後の757年、藤原仲麻呂の打倒を目指す 橘奈良麻呂の乱が起る。このとき打倒側に加わった池主は捉えられ獄死。  相歓ぶる歌二首 越中守大伴宿禰家持作る 庭に降る雪は千重敷くしかのみに 思ひて君を我が待たなくに  万3960 *庭に降る雪が千重にも積もっています。それ以上に私はあなた様をお待ちしていました。 白波の寄する磯廻を漕ぐ舟の 楫取る間なく思ほえし君  万3961 *白波が立つ磯のあたりを漕ぎ進む舟の楫取りと同じくあなた様をしょっちゅう思い出しておりました。  右は、天平十八年の八月をもちて掾大伴宿禰 池主 、大帳使に付きて、京師に赴き向ふ。 しかして同じ年の十一月に、本任に還り至りぬ。 よりて、詩酒の宴を設け、弾糸飲楽す。 この日、白雪たちまちに降り、地に積むこと尺余。 この時に、また漁夫の舟、海に入り、瀾に浮けり。 ここに、守大伴宿禰家持、情を二眺に寄せ、いささかに所心を裁る。 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。9歳年上。 光仁天皇  こうにんてんのう 709 - 782 第49代天皇。天智天皇の孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=174 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

大伴家持の万葉集3957-3959番歌~アルケーを知りたい(1224)

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▼家持が弟の書持の逝去を悲しむ歌。遠方に出かける自分を見送ってくれた元気な弟。その弟の 使者が来たので、どんなニュースが届いたのかなと喜んでいると、内容は出まかせの嘘か 「 およづれの たはこと 」 と思わせるもの 。一転して悲しみに。その心情を詠う。短歌では、弟は今は雲になってたなびいているのか、とか、弟に荒磯の波を見せてやりたかったと詠う。  長逝せる弟を哀傷しぶる歌一首  幷せて短歌 天離る 鄙治めにと  大君の 任けのまにまに  出でて来し 我れを送ると  あをによし 奈良山過ぎて  泉川 清き河原に  馬留め 別れし時に  ま幸くて 我れ帰り来む  平らけく 斎ひて待てと  語らひて 来し日の極み  玉桙の 道をた遠み  山川の へなりてあれば  恋しけく 日長きものを  見まく欲り 思ふ間に  玉梓の 使の来れば  嬉しみと 我が待ち問ふに  およづれの たはこととかも   はしきよし 汝弟の命  なにしかも 時しはあらむを  はだすすき 穂に出づる秋の  萩の花 にほへるやどを <言ふこころは、この人ひととなり、花草花樹を好愛(め)でて多(さは)に寝院の庭に植ゑたり。ゆゑに「花にほへる庭(やど)」といふ> 朝庭に 出て立ち平し  夕庭に 踏み平げず  佐保の内の 里を行き過ぎ  あしひきの 山の木末に  白雲に 立ちたなびくと  我れにつげつる <佐保山に火葬す。ゆゑに「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ>  万3957 ま幸くと言ひしものを白雲に 立ちたなびくと聞けば悲しも  万3958 *無事に過ごしなさいよと言っていたのに、白雲になってたなびいていると聞く。何と悲しいことか。 かからむとかねて知りせば越の海の 荒磯の波も見せましものを  万3959 *こんなことになると分かっていたら、越中の海の荒磯の波を見せてやったのに。  右は、天平十八年の秋の九月の二十五日に、越中守大伴宿禰家持、遥かに弟の喪を聞き、感傷しびて作る。 【似顔絵サロン】大伴家持(718-785)の同時代人。9歳年上。 顔 真卿  がん しんけい 709 - 785 唐代の政治家・書家。中国史で屈指の忠臣。唐代随一の学者・芸術家。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?c

大伴家持の万葉集3922-3926番歌~アルケーを知りたい(1223)

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▼今回は746年の正月、雪が降る日に橘諸兄ら朝廷の重鎮が 太上天皇 ( 元正天皇 ) の邸宅に雪を掃きに集合する。そのとき、酒が供され、一同で宴会を開き、参加者が次々に歌を詠んだ。トップバッターが橘諸兄、8番が家持。 ▼二次会もあって、そのときの歌は記録がないけれど、トップバッターは藤原豊成。  天平十八年の正月に、白雪多に零り、地に積むこと数寸なり。 時に、左大臣 橘 (諸兄) 卿、大納言 藤原豊成 朝臣また諸王諸臣たちを率て、太上天皇の御在所 <中宮の西院> に参入り、仕へまつりて雪を掃く。 ここに詔を降し、大臣参議幷せて諸王は、大殿の上に侍はしめ、諸卿大夫は、南の細殿に侍はしめて、すなはち酒を賜ひ肆宴 (とよのあかり) したまふ。 勅して曰はく、「 汝ら諸王卿たち、いささかにこの雪を賦して、おのおのもその歌を奏せ 」とのりたまふ。  左大臣 橘 宿禰、詔に応ふる歌一首 降る雪の白髪までに大君に 仕へまつれば貴くもあるか  万3922 *ここ降る雪のような白髪になるまで大君に使えることができれば貴いことであります。  紀朝臣清人、詔に応ふる歌一首 天の下すでに覆ひて降る雪の 光りを見れば貴くもあるか  万3923 *天の下を覆いつくして降る雪の輝きを見ることができるのは貴いことであります。  紀朝臣男梶、詔に応ふる歌一首 山の峡そことも見えず一昨日も 昨日も今日も雪の降れれば  万3924 *一昨日も昨日も今日も雪が降っていますので、山峡が見えないほどです。  葛井連諸会詔に応ふる歌一首 新しき年の初めに豊の年 しるすとならし雪の降れるは  万3925 *新しい年の初めに雪が降るのは、今年が豊年の印となるでしょう。  大伴宿禰家持、詔に応ふる歌一首 大宮の内にも外にも光るまで 降らす白雪見れど飽かぬかも  万3926 *大宮の内も外も輝くばかりに明るく照らす白雪はいくら見ても飽きません。   藤原豊成 朝臣、巨勢奈弖麻呂朝臣、大伴牛養宿禰、藤原仲麻呂朝臣、三原王、智奴王、船王、邑知王、小田王、林王、穂積朝臣老、小田朝臣諸人、小野朝臣綱手、高橋朝臣国足、太朝臣徳太理、高丘連 河内、秦忌寸朝元、楢原造東人  右の件の王卿等、詔に応へて歌を作り、次によりて奏す。 その時に記さずして、その歌漏り失せたり。 ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔れて云はく、「歌を賦するに堪へ