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万葉集巻第十八4048-4051番歌(めづらしき君が来まさば)~アルケーを知りたい(1530)

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▼ 田辺史福麻呂が布勢の水海を見物するときの歌。家持は4048番で都を詠い、福麻呂は4049番で現地を褒める歌を詠う。4050番で久米広繩がホトトギス不在を詠い、雰囲気を転じる。そして4051番で家持が締める。この四首で起承転結になっている。 垂姫の浦を漕ぐ舟楫間にも 奈良の我家を忘れて思へや  万4048  右の一首は大伴家持。 *垂姫の浦を舟で遊覧するちょっとの間でも、奈良の我が家を忘れることはありません。 おろかにぞ我れは思ひし乎布の浦の 荒磯の廻り見れど飽かずけり  万4049  右の一首は田辺史福麻呂。 *思いを寄せることもなかったこの乎布の浦。実際に荒磯を廻りますと風景を見て飽きることがありません。 めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし 山ほととぎす何か来鳴かむ  万4050  右の一首は掾久米朝臣広繩。 *珍しく貴方様がいらしているので来て鳴くように言いつけておいた山ホトトギスですが、なぜか来て鳴いてくれません。 多胡の崎末の暗茂にほととぎす 来鳴き響めばはだ恋ひめやも  万4051  右の一首は大伴宿禰家持。  前の件の十五首の歌は、二十五日に作る。 *多胡の崎には木が暗くなるほど茂っているのだから、ホトトギスが来て鳴いてくれたら、こんなに恋しがることもないでしょうに。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々:佐伯 全成 さえき の またなり ? - 757 奈良時代の貴族。橘奈良麻呂から黄文王を皇嗣に立てる旨の謀反を唆されるが拒絶。乱の後、奈良麻呂の謀反を証言し自殺。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=18

万葉集巻第十八4044-4047番歌(浜辺より我が打ち行かば)~アルケーを知りたい(1529)

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▼いよいよ福麻呂、家持の一行が布勢の水海で謳った歌。世話役の女性も同行し、4047番を添えているのが目を引く。  二十五日に、布勢の水海に往くに、道中、馬の上にして口号ぶ二首 浜辺より我が打ち行かば海辺より 迎へも来ぬか海人の釣舟  万4044 *浜辺から私が進んでいくと、海の方から迎えが来てくれないかな、漁師の釣舟が。 沖辺より満ち来る潮のいや増しに 我が思ふ君が御船かもかれ  万4045 *沖のほうから潮がぐいぐいと満ちて来るようです。あれは私が慕う貴方様の乗る舟でしょうか。  水海に至りて遊覧する時に、おのおのも懐を述べて作る歌 神さぶる垂姫の崎漕ぎ廻り 見れども飽かずいかに我れせむ  万4046  右の一首は田辺史福麻呂 *神さびた垂姫崎を舟で遊覧して風景を見ても飽きることがありません、どうすれば良いのでしょうね。 垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は 楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ  万4047  右の一首は遊行女婦土師。 *垂姫の浦を舟で遊覧しながら、今日一日を楽しく遊んで、後あとまで言い伝えましょう。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 大伴 池主  おおとも の いけぬし ? - 757 奈良時代の官人・歌人。738年、奈良麻呂が宴を催した際に詠んだ和歌。 十月しぐれにあへる黄葉の 吹かば散りなむ風のまにまに  万1590 757年、橘奈良麻呂の乱に加わり獄死。大伴家持(718-785)と親交。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=18

万葉集巻第十八4040-4043番歌(藤波の咲きゆく見れば)~アルケーを知りたい(1528)

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▼前回の続きで、布勢の海を肴にした田辺福麻呂と家持のやりとり。とにかく、 福麻呂は布勢の浦を見たいと、梅や藤の花も見たいと、ホトトギスも聞きたいと、楽しみを持ち出しています。すると家持が、ホトトギスはいなくて花が散るだけかも、と返して一連のやりとりが終了。この二人の歌には、やっぱりちょっと微妙な雰囲気を感じる。 布勢の浦を行きてし見てばももしきの 大宮人に語り継ぎてむ  万4040 *布勢の風景を眺めましたら、都にいる人に語りましょう。 梅の花咲き散る園に我れ行かむ 君が使を片待ちがて ら  万4041 *梅の花が咲き散る園に行きたいです。貴方様のお使いがいらっしゃるのを待ちながら。 藤波の咲きゆく見ればほととぎす 鳴くべき時に近づきにけり  万4042  右の五首は田辺史福麻呂。 *藤の花が咲くのを見ますと、ほととぎすがやって来て鳴く時期が近づいた感じですね。 明日の日の布勢の浦廻の藤波に けだし来鳴かず散らしてむかも   一には頭に「ほととぎす」といふ  万4043  右の一首は、大伴宿禰家持和ふ。 前の件の十首の歌は、二十四日の宴にして作る。 *明日、布勢の浦にほととぎすが来鳴かず、藤の花が散るだけなんてこともありますねえ。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 大伴 駿河麻呂  おおとも の するがまろ ? - 776 奈良時代の公卿。757年、橘奈良麻呂の乱に加わり流罪。 梅の花咲きて散りぬと人は言へどわが標結ひし枝にあらめやも  万400 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=18

万葉集巻第十八4036-4039番歌(音のみに聞きて)~アルケーを知りたい(1527)

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▼今は見られない絶景で有名だったという 布勢水海をめぐる歌。家持おススメの場所。都から来た人にはぜひ見てもらわないと、という気持ち。それに応えて、田辺福麻呂が、それほどのススメでしたら、見なければなりませんな、と詠う。 福麻呂は景色にはそれほど興味がないけど、家持がワイワイ言うからしょうがないなという気配も漂う。もともと家持はアウトドア派やろ、私はインドア派なんだよな、と福麻呂は思っていた、と想定すると味わいが増す。   時に、明日に布勢の水海に遊覧せむことを期ひ、よりて、懐を述べておのもおのも作る歌 いかにある布勢の浦ぞもここだくに 君が見せむと我れを留むる  万4036  右の一首は田辺史福麻呂。 *どんなところなのでしょう、布勢の浦は。貴方様が見せようとしてこれほど私をお引き止めになるのは。 乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに 見とも飽くべき浦にあらなくに   一には「君が問はすも」といふ  万4037   右の一首は守大伴宿禰家持。 *例えば、 乎布の崎から舟で廻りながら一日中見ても見飽きない浦なのですよ。 玉櫛笥いつしか明けむ布勢の海の 浦を行きつつ玉も拾はむ  万4038 *いつになったら夜が明けるのでしょう。待ちきれないから、布勢の海の浦を歩いて小石や貝がらを拾いましょう。 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を 見ずは上らじ年は経ぬとも  万4039 *噂で聞くだけで実際に見たことがない布勢の浦ですから、このさい見ないでは京に上れませんよ。たとえ年が変わっても。 【似顔絵サロン】 橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 大伴 古慈斐  おおとも の こしび 695 - 777 奈良時代の公卿。藤原不比等が人物を見込んで娘を古慈斐の妻とした。757年、橘奈良麻呂の乱に連座し、任国だった土佐国へ流罪。770年、罪を赦されて復位し大和守。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=18

万葉集巻第十八4032-4035番歌(奈呉の海に舟しまし貸せ)~アルケーを知りたい(1526)

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▼今回の三首は、Whenが天平20年=748年、Whereが大伴宿禰家持の越中の館、Whoが 造酒司令史の田辺史福麻呂、が分かっている。面白いのは造酒司という役所があったこと。朝廷が酒造りを大切にしていたのだ。歌の詠み手は百済からの帰化した氏族の人 で、橘諸兄の使者という役を担っていたこと。宴会では古い歌を味わいながら、新しい歌を作った、というから、日ごろから和歌の勉強をしていたのだろう。和歌を詠むとその人物の賢愚が分かったというから、何かと大変だ。  天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司令史 田辺史福麻呂 に、守大伴宿禰家持が館にして饗す。 ここに新しき歌を作り、幷せてすなはち古き詠を誦ひ、おのおのも心緒を述ぶ。 奈呉の海に舟しまし貸せ沖に 出でて波立ち来やと見て帰り来む  万4032 *奈呉の海でどなたか舟を貸してくれないか。沖に出て波が立ち来るのを見て帰りたいから。 波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の 間なき恋にぞ年は経にけ る 万4033 *奈呉の浦で波が立つと現れる貝のように絶えず恋しいと思いながら年が経ちました。 奈呉の海に潮の早干ばあさりしに 出でむと鶴は今ぞ鳴くなる  万4034 *奈呉の海が干潮になったら餌を獲りに行こうと鶴が 今から鳴いています。 ほととぎすいとふ時なしあやめぐさ かづらにせむ日こゆ鳴き渡れ  万4035  右の四首は 田辺史福麻呂 。 *ホトトギスの声が煩わしい時などありませんから、あやめぐさをかずらにする日にはきっとやって来て鳴いて欲しい。 【似顔絵サロン】 田辺 福麻呂  たなべ の さきまろ ? - ? 奈良時代の官人。百済帰化の日系氏族帰国者。万葉歌人。748年、造酒司の令史のとき、橘諸兄の使者として越中守・大伴家持を訪れ歌を詠む。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=18

万葉集巻第十七4029-4031番歌(珠洲の海に朝開きして)~アルケーを知りたい(1525)

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▼今回は第18巻の最後の三首。4029番は早朝の海に月が照っている風景の歌。家持が稲の出来栄えを検分する地域巡行中の歌。現場を回る仕事をしていたのだ、家持は。出挙とは、役所が農民に稲を貸し付け、収穫時に利子をつけて回収する仕組み。万葉時代から稲は経済基盤を担っていた。4030番は鶯の初鳴きを待つ歌で、こうやってみると、当時の人は鶯が鳴いたといって喜び、鳴かないと言って嘆いて、まあ、遊んでいたのだ。何かにつけて遊ぶマインド、今日はマネして実行するぞ。4031番の最後の「汝」が誰を言っているのか分からないのが、余韻、良いんだ。  珠洲の郡より舟を発し、太沼の郡に還る時に、長浜の湾に泊り、月の光を仰ぎ見て作る歌一首 珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり  万4029  右の件の歌詞は、春の出挙によりて、諸郡を巡行し、時に当りて、属目して作る。大伴宿禰家持 *珠洲の海を早朝舟でやって来ると、長浜の浦で月が輝いていました。  鶯の晩く哢くを恨むる歌一首 うぐひすは今は鳴かむと片待てば 霞たなびき月は経につつ  万4030 *ウグイスが今にも鳴くだろう、と待っているうちに霞がたなびいて月も傾いています。  造酒の歌一首 中臣の太祝詞言言ひ祓へ 贖ふ命も誰がために汝れ  万4031  右は、大伴宿禰家持作る。 *中臣氏は太祝詞言を唱え、お祓いをして、長命を祈ります。誰のためかというと、それは貴方様のためです。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 大伴 古麻呂  おおとも の こまろ ? - 757 奈良時代の貴族。橘奈良麻呂の乱に連座。杖で打たれる拷問で刑死。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4025-4028番歌(妹に逢はず久しくなりぬ)~アルケーを知りたい(1524)

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▼4025番の 気太神宮(けたのかむみや )は、 石川県羽咋市にある能登一の宮。4026番の熊来の村( くまきのむら )は、 石川県鹿島郡にある中島町。4028番の 饒石川(にぎしがわ)は、石川県輪島市を通り、日本海に流れる川。いずれの歌も越中にいるときの家持の作。  気太の神宮に赴き参り、海辺を行く時に作る歌一首 志雄道から直越え来れば羽咋の 海朝なぎしたり舟楫もがも  万4025 *志雄道から直接越えて来ると、羽咋の海が朝の凪の状態。舟には楫が必要だ。  能登の郡にして香島の津より舟を発し、熊来の村をさして往く時に作る歌二首 島総立て舟木伐るといふ能登の島山 今日見れば木立茂しも幾代神びぞ  万4026 *島総立てて造船用の木材を伐るという能登の島山。今日見るとたくさんの木が立って茂っている。幾代も経て神々しい。 香島より熊来をさして漕ぐ舟の 楫取る間なく都し思ほゆ  万4027 *香島から熊来に向けて漕ぎ進む舟で楫を取る手が休む間がないのと同じように私は都に思いを馳せています。   鳳至の郡にして饒石の川を渡る時に作る歌一首 妹に逢はず久しくなりぬ饒石川 清き瀬ごとに水占延へてな  万4028 *妻に逢えないまま久しい時が流れた。饒石川の清らかな瀬ごとに水占いをしてみたい。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々:多治比 鷹主 たじい の たかぬし ? - ? 奈良時代の人。757年、橘奈良麻呂事件で捕縛され拷問死。 唐国に行き足らはして帰り来むますら健男に御酒奉る  万4262 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4021-4024番歌(鵜坂川渡る瀬多み)~アルケーを知りたい(1523)

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▼ 鵜坂川 (うさかがわ) 、婦負川 (めいがわ) は共に富山県にあった川の旧名。今の 神通川の系統らしい。万葉時代は、 川藻を採ったり、鵜飼もできたようだ。馬に乗ったまま渡れたが、水しぶきで裾が濡れるくらいの川。川、よき。  礪波の郡の雄神の川辺にして作る歌一首 雄神川紅にほふ娘子らし 葦付   水松の類  取ると瀬に立たすらし  万4021 *雄神川の廻りは紅葉している。川藻を刈りに来た娘たちが川瀬に立っている。  婦負の郡にして鵜坂の川辺を渡る時に作る一首 鵜坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻きの 水に衣濡れにけり  万4022 *鵜坂川を越えるとき瀬が多いので私の馬の足が跳ね上げる水で服が濡れました。  鵜を潜くる人を見て作る歌一首 婦負川の早き瀬ごとに篝さし 八十伴の男は鵜川立ちけり  万4023 *婦負川では流れの早い瀬ごとにかがり火を燃やして多くの男たちが鵜飼をしている。  新川の郡にして延槻川を渡る時に作る歌一首 立山の雪し来らしも延槻の 川の渡り瀬鐙漬かすも  万4024 *立山の雪が解けて流れる延槻川。渡る時に鐙が水に漬かるほどだ。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 多治比 犢養  たじひ の こうしかい ? - 757 奈良時代の貴族。橘奈良麻呂の乱に連座。杖で打たれる拷問で刑死。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4016-4020番歌(あゆの風いたく吹くらし)~アルケーを知りたい(1522)

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▼今回の五首は、寒い時期の歌。4017番によると、越中では東風をあゆの風という。あゆの風、、、良い響き。   高市連黒人 が歌一首 年月審らかにあらず 婦負の野のすすき押しなべ降る雪に 宿借る今日し悲しく思ほゆ  万4016  右、この歌を伝誦するは、 三国真人五百国 ぞ。 *婦負野のススキにのしかかるように雪が降っています。そのような日に宿を借りるのは心悲しい気分。 あゆの風  越の谷の語には東風をあゆのかぜといふ  いたく吹くらし 奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ  万4017  *東風の風が強く吹いているらしい。奈呉の海で漁師の小舟が波の間を見え隠れしながら漕ぎ進んでいる。 港風寒く吹くらし奈呉の江に 妻呼び交し鶴多に鳴く   一には「鶴騒くなり」といふ  万4018 *港風が寒く吹き晒しているらしい。奈呉の入江には、たくさんの鶴が妻を呼んでいる。 天離る鄙ともしるくここだくも 繁き恋かもなぐる日もなく  万4019 *都から遠く離れた田舎暮らし。都が恋しくて心が休まる日がない。 越の海の信濃  浜の名なり  の浜を行き暮らし 長き春日も忘れて思へや  万4020  右の四首は、天平二十年の春の正月の二十九日、大伴宿禰家持 * 長い春の一日、 越の海の信濃浜を歩いた。その間も都を忘れたりしないものだ。 【似顔絵サロン】 高市 黒人  たけち の くろひと ? - ? 持統・文武両朝の官人・歌人。『万葉集』に短歌18首あり。 三国 五百国  みくに の いおくに ? - ? 越中の官人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4012-4015番歌(心には緩ふことなく)~アルケーを知りたい(1521)

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▼猟が大好きな家持がそれは大事にしていた鷹を鷹使が勝手に持ち出した揚げ句逃がしてしまう、それに驚き、怒り、探し続けても見つからない、しょんぼりした気持ちになっているとある晩、夢でお告げがある。長歌で状況を説明した後、今回の4首で見失った後の日々の気持ちを詠っている。後書きにも背景の説明がある。お告げの通りに見つかったら幸いだが、それは書かれていない。 矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に 猟らぬ日まねく月ぞ経にける  万4012 *矢形尾の鷹を連れて三島野で猟をしない日が続くうちに月も変わった。 二上のをてもこのもに網さして 我が待つ鷹を夢に告げつも  万4013 *二上のあちこちに網を張って待っていた鷹が見つかるが夢でお告げがあった。 松反しひにてあれかもさ山田の 翁がその日に求めあはずけむ  万4014 *老いぼれたのか山田の爺が私の大切な鷹を無断で持ち出したあげく見失ってしまった。 心には緩ふことなく須賀の山 すかなくのみや恋ひわたりなむ  万4015  右は、射水の郡の古江の村にして蒼鷹を取獲る。 形容美麗しくして、雉を鷙ること群に秀れたり。 時に、養吏山田史君麻呂、調試節を失ひ、野猟候に乖く。 博風の翅、高く翔りて雲に匿る。 腐鼠の餌、呼び留むるに験靡し。 ここに羅網を張り設けて、非常を窺ひ、神祇に奉幣して、不虞を恃む。 ここに夢の裏に娘子あり。 喩へて曰はく、「使君、苦しき念を作して空しく精神を費やすこと、勿。 放逸れたるその鷹は、獲り得むこと、幾時もあらじ」といふ。 須臾にして覚き寤め、懐に悦びあり。 よりて、恨みを却く歌を作り、もちて感信を旌す。 守大伴宿禰家持 九月の二十六日に作る *めったにない優れた鷹を失って、しょげかえるばかり。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 多治比 国人  たじひ の くにひと ? - ? 奈良時代の官吏。757年の乱の時期は遠江守。乱の後、尋問を受けた結果、伊豆国へ流罪。 八十国は難波に集ひ船飾り我がせむ日ろを見も人もがも  万4329 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4011番歌(狂れたる醜つ翁の)~アルケーを知りたい(1520)

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▼家持は鷹狩りが好きで、「 これをおきて またはありがたし 」と惚れ込んだ自慢の鷹を飼っていた。 ところが鷹の担当者が家持に無断で野に持ち出して放った揚げ句、見失ってしまう。報告を聞いた家持は、言葉を失い「 心には 火さへ燃えつつ 」探しに探すがどこにいるか分からない。神頼みまでしたが見つからない。すると夢に出て来た娘が「見つかります」と言った。そんな内容の歌。鷹を失った人間を「 狂れたる 醜つ翁 」と罵っている 家持 がよき。 この歌、傑作。  放逸れたる鷹を思ひて夢見、感悦びて作る歌一首  幷せて短歌 大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に負へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養がともは 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥すだけりと ますらをの 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に   大黒といふは蒼鷹の名なり 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さ慣らへる 鷹はなけむと 心には 思ひほこりて 笑まひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 我れには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥猟すと 名のみを告りて 三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと 帰り来て しはぶれ告ぐれ 招くよしの そこになければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り 守部を据ゑて ちはやぶる 神の杜に 照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ禱みて 我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つ鷹は 麻都太江の 浜行き暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多祜の島 飛びた廻り 葦鴨の すだく古江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば  七日のをちは 過ぎめやも 来なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとぞ いまに告げつる 万4011 *家持が特別大切にしていた鷹を間抜けなろくでなしの爺が逃がしてしまう。手を尽くして探すが何の手がかりも得られず途方に暮れていた。しかし夢に娘子が現れ「きっと帰って来る...

万葉集巻第十七4008-4010番歌(なでしこが花の盛りに)~アルケーを知りたい(1519)

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▼今回は、都に報告に行った家持宛に、越中にいる池主からの和歌。  たちまちに京に入らむとして懐を述ぶる作を見るに、生別は悲しぐ、断腸万廻にして、怨緒禁めかたし。いささかに所心を奉る一首  幷せて二絶 あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見わたせば 卯の花山の ほととぎす 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 礪波山 手向の神に 幣奉り 我が祈ひ禱まく はしけやし 君が直香を ま幸くも ありた廻り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ  万4008 *礪波山の手向の神に幣を奉って、なでしこの花の盛りの時には貴方様とお目にかかれますようにと祈りました。 玉桙の道の神たち賄はせむ 我が思ふ君をなつかしみせよ  万4009 *道の神に祈りを捧げますので、私が大切に思っている方をお守りください。 うら恋し我が背の君はなでしこが 花にもがもな朝な朝な見む  万4010  右は、大伴宿禰池主が報へ贈りて和ふる歌。五月の二日 *恋しく思う貴方様が撫子の花であれば毎朝見れますのに。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 多治比 広足  たじひ の ひろたり 681 - 760 奈良時代の公卿。757年、橘奈良麻呂の乱に与したとして、中納言を解任。一族からは多治比犢養・礼万呂・鷹主らの処罰者を出したことを咎められた。以降は邸宅に籠もった。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4006-4007番歌(我が背子は玉にもがもな)~アルケーを知りたい(1518)

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▼税帳使として越中から都に報告に行く道中、池主に贈る家持の歌。道中の風景、雲、風、鳥を詠みこんでいる。いつもお互いに顔を見てなんだかんだ話をする 気の合う仲間が大事なのだと感じさせる歌。  京に入ることやくやくに近づき、非常撥ひかたくして懐を述ぶる一首  幷せて一絶 かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝さらず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨しみ 偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇の 食す国なれば 御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども 玉桙の 道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく 日の長けむぞ そこ思へば 心し痛し ほととぎす 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し  万4006 *貴方様がいる土地を離れこれから京に入ろうとするいま、会えないのが辛い。貴方様が玉であれば緒に通して手に巻いて朝も夕も顔を見ながら行けるのに。 我が背子は玉にもがもなほととぎす 声にあへ貫き手に巻きて行かむ  万4007  右は大伴宿禰家持、掾大伴宿禰池主に贈る。 四月の三十日 *貴方様が玉であればホトトギスの声と一緒に糸で通して手に巻いて行けるのに。 【似顔絵サロン】 757年の 橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 藤原 乙縄 /弟縄 ふじわら の おとただ ? - 781天応元年7月1日 奈良時代の公卿。藤原豊成の三男。橘奈良麻呂の乱で、普段から橘奈良麻呂と親しかったことを理由に、乱に与したとして左遷。7年後に復帰。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4003-4005番歌(万代に言ひ継ぎゆかむ)~アルケーを知りたい(1517)

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▼前回の家持の立山讃歌を受けて池主が和した長歌と短歌。太陽が昇る方向に立山を見て詠っている。  敬みて立山の賦に和ふる一首  幷せて二絶 朝日さし そがひに見ゆる 神ながら み名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白 に 雪は降り置きて いにしへゆ 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは  万4003 立山に降り置ける雪の常夏に 消ずてわたるは神ながらとぞ  万4004 *立山の雪は降り積もったまま夏の間も消えないのは山の神のお心のままなのです。 落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと 今見る人もやまず通はむ  万4005  右は、掾大伴宿禰池主和ふ。四月の二十八日 *片貝川の激しい流れが絶えないように、これからも見る人が絶えないことでしょう。 【似顔絵サロン】757年の橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 藤原 豊成  ふじわら の とよなり 704 - 766 奈良時代の貴族。藤原仲麻呂の実兄。橘奈良麻呂の乱では事件の究明に努めなかったとして右大臣を罷免、大宰員外帥に左遷。8年後に罪を赦され右大臣として政権復帰。 大伴 池主 おおとも の いけぬし ? - 757 奈良時代の官人・歌人。738年、橘奈良麻呂が宴を催した際に詠んだ和歌。 十月しぐれにあへる黄葉の 吹かば散りなむ風のまにまに  万1590 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4000-4002番歌(いまだ見ぬ人にも告げむ)~アルケーを知りたい(1516)

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▼家持が越中にいたとき作った長歌と短歌。立山は富山県にある3千メートル級の山。 日本三名山、日本三霊山(三大霊場、三大霊地)、日本四名山、日本百名山、新日本百名山、花の百名山といくつも冠を持つ。  立山の賦一首  幷せて短歌 この山は新川の郡に有り 天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統神の うしはきいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね  万4000 *山の様子も川の様子も素晴らしい立山。まだ見ぬ人が羨ましがるようにこれからもずっと語り継ぎましょう。 立山に降り置ける雪を常夏に 見れど飽かず神からならし  万4001 *立山に降り積もった雪を夏の間ずっと見て飽きないのは、この山の神様が貴いためらしい。 片貝の川の瀬清く行く水の 絶ゆることなくあり通ひ見む  万4002  四月の二十七日に、大伴宿禰家持作る。 *片貝川の瀬を清らかに流れる水が絶えることないのと同じように私もここに通い続けて見ましょう。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 道祖王  ふなどおう ? - 757 天武天皇の孫。孝謙天皇の皇太子となるも素行不良で廃位。橘奈良麻呂の乱に連座、麻度比(まどひ=惑い者の意)と改名させられ拷問で獄死。 新しき年の初めに思ふどちい群れて居れば嬉しくもあるか  万4284 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3995-3999番歌(我が背子が国へましなば)~アルケーを知りたい(1515)

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▼万葉時代の地方官は、担当地域の会計報告のため都に長期出張していた。家持はその役割を担うため越中から奈良へ出かける。越中勤務の家持は出かける前に仲間に送別会を開いてもらい歌のやり取りをする。 場所は池主の家、メンバーは 内蔵縄麻呂や石川水通。 寂しい気持ちを歌にするとこうなる。 それが今回の五首。  四月の二十六日に、掾大伴宿禰池主が館にして、税帳使、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌 幷せて古歌四首 玉桙の道に出で立ち別れなば 見ぬ日さまねみ恋しけむかも   一には「見ぬ日久しみ恋しけむかも」といふ  万3995  右の一首は、大伴宿禰家持作る。 *都に行く道に出てお別れすると、お目にかかれない日が続くので恋しくなるでしょう。 我が背子が国へましなばほととぎす 鳴かむ五月は寂しけむかも  万3996  右の一首は、介 内蔵忌寸縄麻呂 作る。 *貴方様が都にお戻りになると、ホトトギスが鳴く五月は寂しいことになるでしょう。 我れなしとなわび我が背子ほととぎす 鳴かむ五月は玉を貫かさね  万3997  右の一首は、守大伴宿禰家持和ふ。 *私がいないからといって寂しがらないでください。ホトトギスが鳴く五月は薬玉を作って祝ってください。   石川朝臣水通 が橘の歌一首 我がやどの花橘を花ごめに 玉にぞ我が貫く待たば苦しみ  万3998  右の一首は、伝誦して主人大伴宿禰池主しか伝ふ。 *我が家の花橘がまだ花咲いている途中でも薬玉にします。お待ちするだけでは辛いですから。  守大伴宿禰家が館にして飲宴する歌一首 四月の二十六日 都辺に立つ日近づく飽くまでに 相見て行かな恋ふる日多けむ  万3999 *都に戻る日になるまでみなさんと顔を合わせておきましょう。恋しく思う日が増えるでしょうから。 【似顔絵サロン】 内蔵 縄麻呂  くら の つなまろ ? - ? 奈良時代後期の官人。3996番の作者。 石川 水通  いしかわ の みみち ? - ? 奈良時代の歌人。3998番の作者。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3993-3994番歌(白波の寄せ来る玉藻)~アルケーを知りたい(1514)

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▼前回は、布勢水海を「思ふどち」と一緒に遊覧した家持の歌で、今回は池主の歌。長歌と短歌のセットになっているのは同じ。違いは家持が「併せて短歌」、池主が「併せて一絶」。池主が五言絶句の絶を使って漢詩風味を出している。  敬みて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる一首  幷せて一絶 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 港の洲鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 妻呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 縵に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人舟に ま楫掻い貫き 白栲の 袖振り返し 率ひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒ぎ さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも  君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや  万3993 *春も秋も、立っても座っていても見飽きない布勢の風景。貴方様と一緒に眺めて楽しむ日が絶えることなどあるはずがありません。 白波の寄せ来る玉藻 世の間も継ぎて見に来む清き浜びを  万3994  右は、掾大伴宿禰池主作る。四月の二十六日に追ひて和ふ *白波が寄せて持ってくる玉藻。この世にいる間、絶えることなく見に来ましょう、この清らかな浜辺の玉藻を。 【似顔絵サロン】757年、橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 黄文王  きぶみおう ? - 757 長屋王の子。橘奈良麻呂の乱に連座。久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)と改名させられた後、杖で打たれる拷問で刑死。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3991-3992番歌(思ふどちかくし遊ばむ)~アルケーを知りたい(1513)

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▼今回は、 布勢の水海を詠った長歌と短歌。Wikipediaによると「 布勢水海(ふせのみずうみ)は、かつて 富山県氷見市南西部に存在した潟湖」で「湖岸には至るところに小さな湾や岬があって、風光絶佳であった 」という。家持一行は、馬を並べて陸から風景を楽しんだ後、舟を出した。そして「 沖辺を漕ぎながら岸辺を見ると 渚ではあぢ鴨の群が騒いでおり、 島の周りには木々が花を咲かせている。 ここの眺めはまことに目に賑やか」と喜び、この仲間同士でまた見に来ような、と約束する。風景も人も全部よき。  布勢の水海に遊覧する賦一首 幷せて短歌  この海は射水の郡の古江の村に有り もののふの 八十伴の男の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の 崎た廻り 麻都太江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥 二上山に 延ふ蔦の 行きは別れず あり通ひ  いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと  万3991 *気の合った仲間で二上山を廻るのは楽しい。それに飽き足らず舟で海に出ると、こんなにも眺めが素晴らしいのかと驚く。これからも毎年、気の合う仲間でこうやって遊びましょう。 布勢の海の沖つ白波あり通ひ いや年のはに見つつ偲はむ  万3992  右は、守大伴宿禰家持作る。四月の二十四日 *布勢の海の沖の白波のように毎年重ねて眺めましょう。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々:安宿王 あすかべおう ? - ? 奈良時代の皇族。長屋王の五男。757年の乱の後、佐渡に流罪。 印南野の赤ら柏は時はあれど 君を我が思ふ時はさねなし  万4301 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3989-3990番歌(奈呉の海の沖つ白波)~アルケーを知りたい(1512)

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▼家持が朝廷(聖武天皇)に越中の財務報告をするために都に行くとき 秦忌寸八千島 の館で壮行会が行われたときの歌二首。このとき家持39歳。お役人としての仕事をしていたのだ。  大目秦忌寸八千島が館にして、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌二首 奈呉の海の沖つ白波しくしくに 思ほえむかも立ち別れなば  万3989 *奈呉の海の沖の白波のように、繰り返して思い出すことでしょう、お別れした後は。 我が背子は玉にもがもな手に巻きて 見つつ行かむを置きて行かば惜し  万3990  右は、守大伴宿禰家持、正税帳をもちて、京師に入らむとす。 よりて、この歌を作り、いささかに相別るる嘆きを陳ぶ。四月の二十日 *貴方様が玉であれば手に巻いていつも見ながら行けるものを。お別れせねばならないのが残念です。 【似顔絵サロン】 757年の 橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 藤原 仲麻呂  ふじわら の なかまろ 706 - 764 奈良時代の公卿。 橘奈良麻呂の 乱を抑え政敵を一掃、翌年、淳仁天皇から恵美押勝の名を与えられた。   天雲の去き還りなむもの故に 思ひそ我がする別れ悲しみ  万4242  秦忌寸八千嶋  はだ の いみき やちしま ? - ? 奈良時代の役人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3985-3987番歌(渋谿の崎の荒磯に)~アルケーを知りたい(1511)

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▼ 二上山は、富山県高岡市と氷見市にまたがる山。 西の城山と併せて二神山と呼ばれていたという。射水川、渋谿は今もある。家持像も建っている。万葉集の歌が1300年継承されている。よき。  二上山の賦一首 この山は射水の郡に有り 射水川 い行き廻れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 統め神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ  万3985 *射水川や二上山は貴いので、絶えることなく昔から今まで見る人が心にかけて思いを寄せるのでしょう。 渋谿の崎の荒磯に寄する波 いやしくしくにいにしへ思ほゆ  万3986 *渋谿の崎の荒磯に寄せる波のように、くりかえし昔のことを思います。 玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の 恋しき時は来にけり  万3987 *二上山で鳴く鳥の声が恋しくなる時が来ました。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 橘 奈良麻呂  たちばな の ならまろ 721 - 757 奈良時代の公卿。藤原仲麻呂への謀反計画が漏れ、逮捕、尋問、獄死。36歳。 奥山の真木の葉しのぎ降る雪のふりはますとも地に落ちめやも  万1010 大伴家持(718 - 785)は関与なし、39歳。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17