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万葉集巻第二162番歌(味凝りあやにともしき)~アルケーを知りたい(1269)

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▼天武天皇が没した686年から7年後、 693年 に持統天皇が供養の 御斎会を実施。162番歌は、その夜に、持統天皇が夢で見た歌。「 高照らす 日の御子 」が二度繰り返される。 ▼ 持統天皇は、 天武天皇の没3年後の 689年に 飛鳥浄御原令を施行していた。162番歌の翌年694年には、飛鳥浄御原宮から 藤原京へ遷都する。生前の天武天皇が計画していた大事業を実行した。  天皇の崩りましし後の八年九月九日の奉為の御斎会の夜に、夢の裏に習ひたまふ御歌一首  古歌集の中に出づ 明日香の 清御原の宮に  天の下 知らしめしし  やすみしし 我が大君  高照らす 日の御子   いかさまに 思ほしめせか  神風の 伊勢の国は  沖つ藻も 靡みたる波に  潮気のみ 香れる国に  味凝り あやにともしき  高照らす 日の御子  万162 *天武天皇讃歌。 【似顔絵サロン】 三輪 高市麻呂  みわ の たけちまろ 657年 - 706年 飛鳥時代の人物。 天武天皇の没後6年の 692年、農繁期に伊勢に行幸しようとする持統天皇を『農作の前に車駕いまだもちて動すべからず』と自らの官職をかけて諫めた。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二159‐161番歌(燃ゆる火も取りて包みて)~アルケーを知りたい(1268)

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▼今回は、 天武天皇 の崩御後、 持統天皇 が偲んだ歌。天武‐持統夫妻はとても仲が良く、持統天皇が病気になったとき天武天皇は薬師寺を建立して回復を祈った。幸い持統天皇は回復。 ▼ 天武天皇亡きあと、持統天皇は天武天皇が手掛けていた 飛鳥浄御原令の施行 と藤原京遷都を実現する。持統天皇が死去すると天武天皇と同じ天皇陵に合葬される。 ▼ 持統天皇は天武天皇との間に生まれた 草壁皇子 をさぞ大事に思っていたことだろう。  天皇の崩りましし時に、大后の作らす歌一首 やすみしし 我が大君し  夕されば 見したまふらし  明けくれば 問ひたまふらし  神岳の 山の黄葉を  今日もかも 問ひたまはまし  明日もかも 見したまはまし  その山を 振り放け見つつ  夕されば あやに悲しみ  明け来れば うらさび暮らし   荒栲の 衣の袖は  干る時もなし 万159  一書に曰はく、天皇の崩りましし時の太上天皇の御製歌二首 燃ゆる火も取りて包みて袋には 入ると言はずやも智男雲  万160 *燃えている火を取って包んで袋に入れられると言うではないか、智男雲よ。 北山にたなびく雲の青雲の 星離れ行き月を離れて  万161 *北山にたなびく雲の青雲が、星から離れ、月を離れている。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二151‐154番歌(かからむとかねて知りせば)~アルケーを知りたい(1267)

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▼天智天皇の崩御を悲しむ歌。153番の長歌は 大后の歌で前回の147-149番に続く歌。天智天皇に仕えていた額田王、 舎人吉年、 石川夫人の歌の間に収まっている。  天皇の大殯の時の歌二首 かからむとかねて知りせば大御船 泊てし泊りに標結はましを  額田王   万151 *こんなことになるとあらかじめ分かっていたなら、天皇の御船が停泊している場所に邪霊が入らないよう結界を張っていたのに。 やすみしし我が大君の大御船 待ちか恋ふらむ滋賀の唐崎  舎人吉年 万152 *我が天皇の御船がいつ来るのだろうと待ち焦がれているのではないでしょうか。志賀の唐崎では。  大后の御歌一首 鯨魚取り 近江の海を  沖放けて 漕ぎ来る船  辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ  辺つ櫂 いたくな撥ねそ   若草の 夫の  思ふ鳥立つ 万153 *近江の海の沖を漕ぎ進む船よ、近くを漕ぎ進む船よ、つがいの鳥が驚いて飛び立たないよう、櫂を激しく漕がないで。   石川夫人 が歌一首 楽浪の大山守は誰がためか 山に標結ふ君もあらなくに  万154 *御料地の番人は誰のために境界線を張っているのか。天皇はもういらっしゃらないのに。 【似顔絵サロン】蘇我倉山田 石川麻呂  そがのくらやまだ の いしかわまろ ? - 649大化5年5月11日 飛鳥時代の豪族。乙巳の変では中大兄皇子・中臣鎌足の側。 石川夫人 の父親? 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二147‐149番歌(天の原振り放け見れば大君の)~アルケーを知りたい(1266)

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▼今回は天智天皇が体調不良のときの皇后の歌。147番で本来のあるべき姿を、148番で再会が叶わない悲しみを、149番で崩御の後の気持ちを、詠っている。  近江の大津の宮に天の下知らしめす天皇の代 天命開別天皇、謚して天智天皇といふ  天皇聖躬不予の時に、 大后 の奉る御歌一首 天の原振り放け見れば大君の 御寿 (みいのち) は長く天足らしたり  万147 *天を見上げると、大君の寿命は長く天に満ちています。  一書に曰はく、近江天皇聖躬不予、御病急かなる時に、大后の奉献る御歌一首 青旗の木幡の上を通ふとは 目には見れども直に逢はぬかも  万148 *天智天皇の霊が木幡山の上を通っておられるのが私の目には見える。けれども、直接お目にかかることはできません。  天皇の崩りましし後の時に、倭大后の作らす歌一首 人はよし思ひ息むとも玉葛 影に見えつつ忘らえぬかも  万149 *ほかの人が天皇の面影を忘れることがあろうとも、私は玉葛の冠を被る天皇のお姿を忘れることはありません。 【似顔絵サロン】 古人大兄皇子  ふるひとのおおえのみこ ? - 645年 飛鳥時代の皇族。147‐149番の歌を詠んだ大后の父親。舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二145‐146番歌(天翔りあり通ひつつ見らめども)~アルケーを知りたい(1265)

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▼謀反を企てたとされ、絞首刑に処された有間皇子 の「結び松」を通して山上憶良と柿本人麻呂が感慨を述べ る歌。本当のことは「 人こそ知らね松は知るらむ 」。  山上臣憶良が (143番歌に対して) 追和の歌一首 天翔りあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るらむ  万145 *有間皇子の御霊は天から通って御覧になっていることでしょう。我われ人間には知る由もありません。でも松は知っているでしょう。  右の件の歌どもは、柩を挽く時に作るところにあらずといへども歌の意を准擬ふ。 この故に挽歌の類に載す。  大宝元年辛丑に、紀伊の国に幸す時に、結び松を見る歌一首  柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出づ 後見むと君が結べる岩代の 小松がうれをまたも見むかも  万146 *後でまた見ようという気持ちで有間皇子が結んだ岩代の小松の梢。再び見ただろうか。 【似顔絵サロン】 孝徳天皇  こうとくてんのう 596年 - 654年 第36代天皇。有間皇子の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二143‐144番歌(岩代の崖の松が枝結びけむ人は)~アルケーを知りたい(1264)

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▼143番歌は「 帰りてまた見めむかも 」と詠っている。けれど、タイトルは「 哀咽しぶる歌 」。だから「 松が枝結びけむ人 」が有間皇子が再び結び目を見られなかったのは分かっている。誰もが分かっていることを前提にしているのに、感慨が起る。 なぜ だろう。144番で「 心も解けずいにしへ思ほゆ 」と言っているので、有間皇子の扱い方に呑み込みにくいものがあったのだろう。   長忌寸意吉麻呂 、結び松を見て哀咽しぶる歌二首 岩代の崖の松が枝結びけむ人は 帰りてまた見めむかも  万143 *岩代の崖の松の枝を結んだ人は、帰ってまた御覧になれたのだろうか。 岩代の野中に立てる結び松 心も解けずいにしへ思ほゆ  いまだ詳らかにあらず  万144 *岩代の野の中に立っている結び松よ。私の心もほぐれないまま昔のことを思っているよ。 【似顔絵サロン】 長忌寸意吉麻呂  ながのいみきおきまろ ? - ? 持統・文武両朝の官人・歌人。渡来系。即興の和歌が上手。 一二の目のみにはあらず五六三四 (ごろくさむし) さへありけり双六の頭 (さえ)  万3827 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二141‐142番歌(岩代の浜松が枝を引き結び)~アルケーを知りたい(1263)

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▼今回は有間皇子の歌。謀反の疑いで処刑された、享年18歳の皇子。  挽歌  後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇、譲位の後に、後の岡本の宮に即きたまふ  有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首 岩代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む  万141 *また戻って来れるように祈って岩代の浜の松の枝を結びます。幸運であれば帰るときにまた見よう。 家なれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る  万142 *家にいたら飯は食器に盛ります。でもいまは旅の途中なので、椎の葉に盛るのです。 【似顔絵サロン】 有間皇子  ありまのみこ 640年 - 658年 飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子。斉明天皇(= 皇極天皇 )と中大兄皇子 (=天智 天皇 ) への謀反を企てた、という理由で藤白坂で絞首刑。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二103-104番歌(我が里に大雪降れり)~アルケーを知りたい(1262)

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▼今回は天武天皇が藤原夫人に贈ったいたずらっぽい歌と、藤原夫人 (ぶにん) が天武天皇にやり返した歌のセット。藤原夫人、負けてません。  明日香の清御原の宮に天の下知らしめす天皇の代 天渟名原瀛真人天皇、諱して天武天皇といふ  天皇、 藤原夫人 に賜ふ御歌一首 我が里に大雪降れり 大原の古りにし里に降らまくは後  万103 *私のいる里に大雪が降ったぞ。お前がいる大原の古い里にはもうすこし後になったら降るだろう。  藤原夫人、和へ奉る歌一首 我が岡のおかみに言ひて降らしめし 雪のくだけしそこに散りけむ  万104 *その雪は私が岡の神に言いつけて降らせたものです。その雪の断片がそっちで降ったのですよ。 【似顔絵サロン】 藤原 麻呂  ふじわら の まろ 695年 - 737年 奈良時代の公卿。 藤原夫人 (ぶにん) が母親、藤原不比等の四男。藤原四兄弟の四男。藤原京家の祖。上には聖主有りて、下には賢臣有り僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻第二85番歌(君が行く日長くなりぬ)~アルケーを知りたい(1261)

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▼昨日で万葉集巻1が終わってしまったので、今日から 巻1の 姉妹編、 巻第2の歌をつらつらと見る。最初は、 仁徳天皇 の皇后の歌。仁徳天皇の在位は394年-427年。天武天皇の在位は673年-686年なので、300年近く前に遡っている。  難波の高津の宮に天の下知らしめす天皇の代 大鷦鷯天皇、謚して 仁徳天皇 といふ   磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首 君が行く日長くなりぬ山尋ね 迎へか行かむ待ちにか待たむ  万85 *あなた様がお出かけになってから日が経ちました。山までお迎えに参りましょうか、このまま待ちましょうか。  右の一首の歌は、山上憶良臣が類聚歌林に載す。 【似顔絵サロン】 仁徳天皇  にんとくてんのう ? - 427年 第16代天皇。応神天皇の第四皇子。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=2

万葉集巻81-83番歌(山辺の御井を見がてり)~アルケーを知りたい(1260)

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▼今回の歌は旅で出会った風景や心情のスケッチのような作品。作者の 長田王 は当時の朝廷にいた「風流侍従」のひとり。  和銅五年壬子の夏の四月に、 長田王 を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌 山辺の御井を見がてり神風の 伊勢娘子ども相見つるかも  万81 *山辺の御井を見るついでに伊勢神宮で巫女の皆さんとも出会えました。 うらさぶる心さまねしひさかたの 天のしぐれの流れ合ふ見れば  万82 *うら寂しい気持ちになる。空で時雨の粒が流れては合流するのを見ると。 海の底沖つ白波竜田山 いつか越えなむ妹があたり見む  万83 *海のはるか沖で白波がたつ田山なんだけど、竜田山を越えるのはいつ頃だろう。山を越えて妻がいる方向を眺めたい。  右の二首は、今案ふるに、御井にして作るところに似ず。 けだし、その時に誦む古歌か。 【似顔絵サロン】 長田王  ながたおう ? - 737天平9年7月20日 奈良時代の皇族。聖武朝初期の風流侍従。万葉集の歌人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻78‐80番歌(飛ぶ鳥明日香の里を置きて去なば)~アルケーを知りたい(1259)

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▼710年、元明天皇が藤原から奈良へ宮を遷したときの歌。78番歌からは、 元明天皇の 藤原の宮への心残りの気持ちが伝わる。これに対し79番と80番で、我われスタッフが 新しい都でも お支えします、と天皇の心細さの払拭に努めている。  和銅三年庚戌の春の二月に、藤原の宮より寧楽の宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望て作らす歌 <一書には「太上天皇の御製」といふ> 飛ぶ鳥明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ <一には「君があたりを見すてかもあらむ」といふ>  万78 *鳥が明日香の里から飛び立ち去ると、君のいらっしゃるあたりは見えなくなるのでしょう。  或る本、藤原の京より寧楽の宮に遷る時の歌 大君の 命畏み  親びにし 家を置き  こもりくの 泊瀬の川に  舟浮けて 我が行く川の  川隈の 八十隈おちず  万たび かへり見しつつ  玉桙の 道行き暮らし  あをによし 奈良の都の  佐保川に い行き至りて  我が寝たる 衣の上ゆ  朝月夜 さやかに見れば  栲のほに 夜の霜降り  岩床と 川の氷凝り  寒き夜を 休むことなく  通ひつつ 作れる家に  千代までに いませ大君よ  我も通はむ  万79 *これから先もずっと末永く(奈良の都に) お住みください、大君よ。私どもも通います。  反歌 あをによし奈良の家には万代に 我も通はむ忘ると思ふな  万80  右の歌は、作主未詳。 *奈良のお屋敷にはこれから先ずっと我われは通います。我われが忘れるとは思いませんように。   【似顔絵サロン】 元明天皇  げんめいてんのう 661年 - 721年 第43代天皇。天智天皇の第四皇女子。草壁皇子の妃。文武天皇の母親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻76‐77番歌(ますらをの鞆の音すなり)~アルケーを知りたい(1258)

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▼76番は元明天皇の歌。77番は元明天皇の姉の歌。不穏な気配が感じられるので調べてみたら、良き解説がありました。 chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.manyo.jp/ancient/column/79d3c32d716160e371a3f473df8f7883b602e599.pdf ▼76番歌の 物部の大臣とは、石上麻呂のこと。  和銅元年戊申  天皇の御製 ますらをの鞆の音すなり物部の 大臣楯立つらしも  万76 *ますらをの鞆の音がする。物部の大臣が楯を立てているようです。  御名部皇女の和へ奉る御歌 我が大君ものな思ほし統め神の 継ぎて賜へる我がなけなくに  万77 *わが大君よ、心配はございません。先祖の神々が私を大君の側に遣わしてくださったのですから。 【似顔絵サロン】 石上 麻呂  いそのかみ の まろ 640年 - 717年 76番歌の「物部の大臣」のこと。万葉集で「日本」を詠んだ最初の歌人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻64‐65番歌(葦辺行く鴨の羽交ひに)~アルケーを知りたい(1257)

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▼64番は、 志貴皇子が作った 歌。 慶雲三年=西暦 706年の作 。65番は 長皇子の歌。共に、今いる場所で違う場所を思った歌。65番に出てくる 弟日娘子とは 松浦佐用姫のこと。  慶雲三年丙午に、難波の宮に幸す時、志貴皇子の作らす歌 葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて 寒き夕は大和し思ほゆ  万64 *葦辺を行く鴨の羽に霜が降りるような寒い夜は、大和が思い出されることよ。  長皇子の御歌 霰打つ安良礼松原住吉の 弟日娘子と見れど飽かぬかも  万65 *霰が地面を打つ安良礼松原は、住吉の弟日娘子と同じで、いくら見ても見飽きない。 【似顔絵サロン】 長皇子  ながのみこ ? - 715和銅8年7月9日 天武天皇の皇子。歌人。万葉集に5首。文室浄三の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻62‐63番歌(在り嶺よし対馬の渡り)~アルケーを知りたい(1256)

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▼今回の二つの歌は遣唐使の歌。702年に出発し704年に無事帰国。62番が行きの歌、63番が帰りの歌。  三野連 <名は欠けたり> 入唐する時に、 春日蔵首老 が作る歌 在り嶺よし対馬の渡り海中に 幣取り向けて早帰り来ね  万62 *対馬の海路に幣を捧げて早くお帰りください。  山上臣憶良、大唐に在る時に、本郷を憶ひて作る歌 いざ子ども早く日本へ大伴の 御津の浜松待ち恋ひぬらむ  万63 *さあみなさん、早く日本に帰りましょう。難波津の浜松も我われを待ち焦がれているでしょう。 【似顔絵サロン】 春日倉 老  かすがのくら の おゆ 650年 - 720年 飛鳥時代~奈良時代の僧・貴族・歌人。万56、62 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻57‐58、61番歌(引馬野ににほふ榛原)~アルケーを知りたい(1255)

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▼702年に57歳の持統上皇が三河の国( 愛知県 )に行幸したとき歌。57番の 引馬野 (ひくまの) は 愛知県豊川市 にある昔の地名。58番の安礼の崎 (あれのさき) 、61番の円方 (まとかた) も土地の名前。  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌 引馬野ににほふ榛原入り乱れ 衣にほはせ旅のしるしに  万57  右の一首は 長忌寸意吉麻呂 。 *引馬野で色づいている榛 (はり。染料が採れる植物) の原に入って 衣を 草の色に染めましょう、 旅の記念に 。 いづくにか舟泊てすらむ安礼の崎 漕ぎ廻み行きし棚なし小舟  万58  右の一首は高市黒人。 *安礼の崎のどのあたりで舟を泊めるのでしょうか。漕ぎ進んで行った棚なしの小舟は。  舎人娘子、従駕にして作る歌 ますらをのさつ矢手挟み立ち向ひ 射る円方は見るにさやけし  万61 *男衆が矢を持って的に向かう円方 (まとかた) の浜は 、見るからにすがすがしい。 【似顔絵サロン】 長忌寸意吉麻呂  ながのいみきおきまろ ? - ? 持統・文武両朝の官人・歌人。渡来系。万葉集に14作品あり。中に 宴席のとき即興で作ったオモシロ歌もある。 一二 (ひとふた) の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六 (すぐろく) のさえ  万3827 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻54‐56番歌(巨勢山のつらつら椿)~アルケーを知りたい(1254)

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▼701年に持統上皇が 紀伊国( 和歌山県)に行幸したとき、同行した貴族たちの歌。54番の 巨勢山(こせやま)は奈良県御所市にある山。椿がたくさんあるのだろう。9月は花の季節ではないので、春になって椿の花がつらつらと咲いているところをつらつらと見る場面を想像しましょうと詠っている。つらつらという言葉が印象的な歌。 55番の 真土山 (まつちやま) は 大和国と紀伊国の境にある山。  大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊の国に幸す時の歌 巨勢山のつらつら椿つらつらに 見つつ偲はな巨勢の春野を  万54 *巨勢山の椿が連なって咲いています。つらつらと見ながら巨勢の春の野を偲びましょう。  右の一首は坂門人足。 あさもよし紀伊人羨しも真土山 行き来と見らむ紀伊人羨しも  万55 *紀伊の人が羨ましいことです。なぜなら、紀伊の人はこの土地を往ったり来たりするときいつも真土山を眺められるからです。  右の一首は 調首淡海 。  或本の歌 川の上つらつら椿つらつらに 見れども飽かず巨勢の春野は  万56 *川の上に連なって咲いている椿たちを、つらつら見てるんだけど飽かないなあ。巨勢の春野は。  右の一首は春日蔵首老。 【似顔絵サロン】 調 淡海  つき の おうみ 650年 - 730年 飛鳥時代~奈良時代の貴族。672年の 壬申の乱で 大海人皇子に従った舎人の一人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻52‐53番歌(御井の清水)~アルケーを知りたい(1253)

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▼ 1番歌、雄略天皇の「籠もよ み籠持ち」から 今回の53番歌「 藤原の大宮仕生れ付くや 」までを初期バージョンの万葉集=原万葉集という。 伊藤博訳注『新版 万葉集一』にはそのように解説がある。万葉集は4516番歌まである。それだけ数があると全体像を捉えにくいけど53首だと全体の雰囲気はつかめる気がする。 ▼印象的なフレーズと歌をピックアップするのも53首だとすぐだ。 2番 うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は 5番 ますらをと 思へる我れも 8番 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 14番 香具山は耳成山と闘ひし時 16番 そこし恨めし 秋山我れは 25番 隈もいちず 思ひつつぞ来し その山道を 27番 淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見 28番 春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山 31番 楽浪の志賀の大わだ淀むとも 34番 白波の浜松が枝の手向けくさ 35番 これやこの大和にしては我が恋ふる 48番 東の野にはかぎろひ立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 49番 馬並めて  藤原の宮の御井の歌 やすみしし 我ご大君  高照らす 日の御子  荒栲の 藤井が原に  大御門 始めたまひて  埴安の 堤の上に  あり立たし 見したまへば  大和の 青香具山は  日の経の 大き御門に  春山と 茂みさび立てり  畝傍の この瑞山は  日の緯の 大き御門に  瑞山と 山さびいます  耳成の 青菅山は  背面の 大き御門に  よろしなへ 神さび立てり  名ぐはし 吉野の山は  影面の 大き御門ゆ  雲居にぞ 遠くありける  高知るや 天の御蔭  天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ  御井の清水  万52 *春山は茂みさび、瑞山は山さび、青菅山は神さびている地に大宮を作られた大君。その井戸で湧く清水はとこしへにあらめ。  短歌 藤原の大宮仕生れ付くや 娘子がともは羨しきろかも  万53 *藤原の都の大宮で仕えるように生まれついた娘子たち。うらやましいなあ。  右の歌は、作者未詳。 【似顔絵サロン】 持統天皇  じとうてんのう 645年 - 703年 第41代天皇。中大兄皇子(天智天皇)の娘。大海人皇子(天武天皇)の皇后。草壁皇子の母。軽皇子(文武天皇)の祖母。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://many

万葉集巻51番歌(采女の袖吹きかへす)~アルケーを知りたい(1252)

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▼明日香の宮の場所は、いまの 奈良県高市郡明日香村。 藤原の宮は 奈良県 橿原市。Googleマップで見ると、その間は5kmくらい。それくらいの距離、とはいっても、宮が移ると心理的な作用が働くのだろう。この歌では 志貴皇子は、 旧都の風を「いたづらに吹く」と表した。  明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌 采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く  万51 *明日香の風が吹いて采女の袖を翻している。藤原に遷都したので空しく吹いている。 【似顔絵サロン】 志貴皇子  しきのみこ 668年 - 716年 天智天皇の第7皇子。吉野の盟約に参加。光仁天皇の父親。皇位と無縁の文化人。歌人。今日の皇室は、志貴皇子の男系子孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻50番歌(いそはく見れば神からにあらし)~アルケーを知りたい(1251)

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▼今回は 宮が 遷ったときの歌。690年、持統天皇のミッションを受けた高市皇子が候補地の奈良県橿原市を下見。OKを出したので、そこに藤原宮を造営。694年に持統天皇が 奈良県明日香村から 遷った。この歌は造営工事の関係者の作品。  藤原の宮の役民の作る歌 やすみしし 我が大君  高照らす 日の御子  荒栲の 藤原が上に  食す国を 見したまはむと  みあらかは 高知らさむと  神ながら 思ほすなへに  天地も 寄りてあれこそ  石走る 近江の国の  衣手の 田上山の  真木さく 檜のつまでを  もののふの 八十宇治川に  玉藻なす 浮かべ流せれ  そを取ると 騒ぐ御民も  家忘れ 身もたな知らず  鴨じもの 水に浮き居て  我が作る 日の御門に  知らぬ国 寄し巨勢道より  我が国は 常世にならむ  図負へる くすしき亀も  新代と 泉の川に  持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り  泝すらむ  いそはく見れば 神からにあらし  万50 *大君が藤原に都を造営する歌。木材は田上山の檜、運送は筏にして八十宇治川を遡る。民は家も自分のことも忘れて仕事に精を出す。まさに神の仕事です。  右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八月に、藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春の正月に、藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に、藤原の宮に遷る」といふ。 【似顔絵サロン】 高市皇子  たけちのみこ 654年 - 696年 天武天皇の皇子(長男)。壬申の乱では近江大津京を脱出して父に合流し、美濃国不破で軍事の全権を委ねられ活躍。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻47‐49番歌(やすみしし我が大君)~アルケーを知りたい(1250)

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▼ 軽皇子 は草壁皇子の息子。 軽皇子は のちの文武天皇。 草壁皇子は 27歳で、 文武天皇は24歳で 没している。歌にもどこか儚く悲しい雰囲気が感じられる。  軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて 万45  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 *安騎の野で野宿する旅人はくつろいで寝られるだろうか、いや寝られはしない。昔のことを思うにつけ。 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 *草を刈る荒野なのだけれど、黄葉のように過ぎた草壁皇子の形見の場所としてやってきました。 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 *東の野には曙の光が見えます。振り返ると月が傾いています。 日並皇子の命の馬並めて み狩立たしし時は来向ふ  万49 *日並皇子(草壁皇子)が馬を並べて狩りを始めた、その時間になりました。 【似顔絵サロン】 文武天皇  もんむてんのう 683年 - 707年  軽皇子。 第42代天皇。父は草壁皇子。祖母が持統天皇。 草壁皇子  くさかべのみこ / 日並皇子 ひなみしのみこ 662年 - 689年 大海人皇子の第二皇子、母は持統天皇。 軽皇子の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻34‐35番歌(白波の浜松が枝の手向けくさ)~アルケーを知りたい(1249)

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▼34番は690年に持統天皇が紀伊の国に行幸したとき、 川島皇子 が詠んだ歌。35番は天智天皇の娘、草壁皇子の妃、のちの 元明天皇 である 阿閉皇女 (あへのひめみこ) が詠んだ歌。  紀伊の国に幸す時に、 川島皇子 の作らす歌 或いは「山上臣憶良作る」といふ 白波の浜松が枝の手向けくさ 幾代までにか年の経ぬらむ   一には「年は経にけむ」といふ  万34 *白波が寄せる浜松の枝の手向けはどれくらい年が経たものだろうか。  日本紀には「朱鳥の四年庚寅の秋の九月に、天皇紀伊の国に幸す」といふ。  背の山を超ゆる時に、阿閉皇女の作らす歌 これやこの大和にしては我が恋ふる 紀伊道ありといふ名に負ふ背の山  万35 *これが大和にあって私が見たいと願っていた紀伊の道にあるという、その名を背負う背の山なのですね。 【似顔絵サロン】 川島皇子  かわしまのみこ 657年 - 691年 天智天皇の第二皇子。天皇の詔に一同が結束して随いますと誓う「吉野の盟約」に参加したひとり。草壁皇子→大津皇子→高市皇子に次ぐ序列。温厚でゆったりとした人物。 元明天皇  げんめいてんのう 661年 - 721年  天智天皇の第四皇女。 第43代天皇。 草壁皇子の妻、 文武天皇の母親。藤原不比等を重用。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻32‐33番歌(荒れたる都見れば悲しも)~アルケーを知りたい(1248)

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▼ここで謳われている近江の旧き都とは、天智天皇時代の近江大津のこと。現在の滋賀県大津市。天武天皇は飛鳥浄御原宮、現在の奈良県明日香村に宮を置いたので、近江大津は旧き都になった。偉大な天智天皇も逝去した後は時代が変わる。宮も移転し、過去のものとなった。それを高市黒人は「うらさびて荒れたる都見れば悲しも」と詠った。  高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或書には「高市黒人」といふ 古の人に我れあれや楽浪の 古き都を見れば悲しき  万32 *私はまるで昔の人になった気分だ。楽浪の古い都を見ると悲しくなるから。 楽浪の国つ御神のうらさびて 荒れたる都見れば悲しも  万33 *楽浪の国の神々がうら寂びて荒れた都を見ると悲しくなる。 【似顔絵サロン】 高市 黒人  たけち の くろひと ? - ? 持統・文武両朝の官人・歌人。『万葉集』に短歌18首あり。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻29‐31番歌(玉たすき畝傍の山の)~アルケーを知りたい(1247)

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▼タイトルの「近江の荒れたる都」とは、天智天皇時代の近江大津の宮のこと。栄枯盛衰、 盛者必衰の情を詠ったものか。光が強いと影も濃いというのか。人麻呂は「見れば悲しも」と詠っているから、やはり時の流れによる変化を 悲しいものとして捉えているようだ。  近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 玉たすき 畝傍の山の  ・・・  ※以下は前に1157回で取り上げたので略。  反歌 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど 大宮人の舟待ちかねつ  万30 *楽浪の志賀の唐崎(大津市)は昔と変わらない。でもいくら待っても大宮人が乗った舟は来ない。 楽浪の志賀の <一には「比良の」といふ> 大わだ淀むとも 昔の人にまたも遭はめやも <一には「遭はむと思へや」といふ>  万31 *楽浪の志賀の大わだは淀んでいるけれども、昔の人に遭うことはできないのだ。 【似顔絵サロン】 柿本 人麻呂  かきのもと ひとまろ 645年 - 724年 飛鳥時代の歌人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1