投稿

1月, 2026の投稿を表示しています

万葉集巻第1_67番歌(旅にしてもの恋しさに)~アルケーを知りたい(1772)

イメージ
▼天皇の行幸に同行する官人の歌。家が恋しい、鶴の声も聞こえない、と詠う。マイペースだ(笑)。 旅にしてもの恋しさに鶴 (たづ) が音も 聞こえずありせば恋ひて死なまし  万67 *旅に出ていてもの恋しいとき、鶴の声も聞こえないとなると、家が恋しくて死にそうです。  右の一首は 高安大島 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_66番歌(大伴の高石の浜の)~アルケーを知りたい(1771)

イメージ
▼今回は、太上天皇(文武天皇)が難波に行幸したとき同行した宮人の歌。旅先では寝にくい、家が恋しいと詠っている。やはり枕が違うとダメです、という。確かに、松の根ではしっくり来ないのだろう。 太上天皇、難波の宮に幸す時の歌 大伴の高石の浜の松が根を 枕き寝れど家し偲はゆ  万66 *高石の浜の松の根を枕にして寝ています。やはり家が恋しいです。  右の一首は 置始東人 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_65番歌(霰打つ安良礼松原住吉の)~アルケーを知りたい(1770)

イメージ
▼万葉集は全部漢字でひらがながないので、読むのは大変なことだったと思う。今回の65番歌は漢字が多いので、これだけでも読み解く難しさが分かりました。 長皇子の御歌 霰打つ安良礼松原住吉 (あられまつばらすみのえ) の 弟日娘子 (おとひをとめ) と見れど飽かぬかも  万65 *霰が降って打ちつける安良礼松原住吉と弟日娘子は、見ても見ても見飽きることがありません。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_64番歌(葦辺行く鴨の羽交ひに)~アルケーを知りたい(1769)

イメージ
▼寒い日の鴨の歌。多摩地域を流れる野川。寒い日、岸で14羽の鴨が同じ方を向いてうろうろしている様子を見ました。羽交に霜が降りるほどの冷え込みではありませんでした。鴨は存在そのものが歌になってるようです。  慶雲三年丙午に、難波の宮に幸す時、 志貴皇子 の作らす歌 葦辺 (あしへ) 行く鴨の羽交 (はが) ひに霜降りて 寒き夕は大和し思ほゆ  万64 *葦辺を行く鴨を見ると、羽の合わさったところに霜が降りています。こんな寒い夕べは大和を思い出します。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_63番歌(いざ子ども早く日本へ)~アルケーを知りたい(1768)

イメージ
▼そうだったんだ、山上憶良は遣唐使のメンバーで唐で勉強していたことあったんだと改めて認識しました。序に大唐と本郷が並列している。本郷、すげえ(東大本郷キャンパス、すげえと思いました)。   山上臣憶良 、大唐に在る時に、本郷を憶ひて作る歌 いざ子ども早く日本へ大伴の 御津の浜松待ち恋ひぬらむ  万63 *さあ皆さん、早く日本に戻りましょう。難波津の松も私たちを待ち焦がれているでしょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_62番歌(在り嶺よし対馬の渡り)

イメージ
▼700年代に日本から船で唐を往復するのは並大抵じゃなかった。今回の歌はそういう旅事情の時代、遣唐使として船に乗ることになった三重連 (みののむらじ) に春日蔵老が贈った道中安全を祈る歌。 三重連 名は欠けたり 入唐する時に、 春日蔵首老 が作る歌 在り嶺 (ありね) よし対馬の渡り海中 (わたなか) に 幣 (ぬさ) 取り向けて早 (はや) 帰り来ね  万62 *対馬から大陸に向かう海路に航海の安全を祈る幣を捧げて、無事に早く戻って来てください。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_61番歌(ますらをのさつ矢手挟み)~アルケーを知りたい(1766)

イメージ
▼今回の歌は構造が面白い。「ますらをのさつ矢手挟み立ち向ひ射る」までは「円方」の序。本体は「円方は見るにさやけし」。現在の円方は 三重県松阪市の万葉遺跡。伊勢湾に流れ込む川の一帯。娘子に歌にしてもらうと土地のバリューが上がるのだ。 舎人娘子、従駕にして作る歌 ますらをのさつ矢手挟み立ち向ひ 射る円方 (まとかた) は見るにさやけし  万61 *益荒男が幸い多い矢を手に挟み持って立ち向かい射る的。そんな的=円方の地はとても爽やかです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_60番歌(宵に逢ひて朝面なみ)~アルケーを知りたい(1765)

イメージ
▼今回は序が長いタイプの歌。「夜どおし一緒にいて朝顔を合わせるのが憚られるという名張」という名張にかかる序。その名張で作者の彼女は 何日も忌籠りを続けている。作者は一人で寂しいのだろう(笑)。 長皇子の御歌 宵に逢ひて朝面 (あしたおも) なみ名張 (なばり) にか 日 (け) 長く妹が廬 (いほ) りせりけむ  万60 *名張で何日もあの子は忌籠りしているのでしょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_59番歌(流らふるつま吹く風の)~アルケーを知りたい(1764)

イメージ
▼今回の59番歌は、持統上皇が三河の国に行幸して都に戻って開かれた宴での歌。夫が随行している間、家を守っていた妻の気持ちを詠った作品、と解釈することにした(笑)。上皇を囲む会だったのか、上皇がいないところで行幸関係者が集まった会だったのか。はてさて。 誉謝女王が作る歌 流らふるつま吹く風の寒き夜に 我が背の君はひとりか寝らむ  万59 *絶え間なく家の妻側に吹きつける風が寒い夜。私の夫はひとりで寝ておられるのでしょう・・・。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_58番歌(いづくにか舟泊てすらむ)~アルケーを知りたい(1763)

イメージ
▼今回の歌、小舟が水の上を動いている風景を詠った作品。水墨画になりそうな風景。安礼の崎をふわふわと漕ぎ廻る小舟を眺めながら、この舟、どこに行くつもりなのかと思う高市黒人。画にするとしたら、舟と舟を眺める高市黒人を遠景から描くのが良さそう。 いづくにか舟泊 (は) てすらむ安礼 (あれ) の崎 漕ぎ廻 (た) み行きし棚なし小舟  万58 *どこに舟を泊めたのでしょうか、安礼の崎を漕ぎ廻って行った棚なし小舟は。  右の一首は 高市連黒人 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_57番歌(引馬野ににほふ榛原)~アルケーを知りたい(1762)

イメージ
▼今回は、紅葉の野原に入って服を染めましょうやと呼びかける歌。上手い!マネしたい!!    二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌  引馬野 (ひくまの) ににほふ榛原 (はりはら) 入り乱れ 衣にほほせ旅のしるしに  万57 *引馬野に咲き誇っている榛原にみんなで入って、衣に色を染め付け旅の印にしましょう。  右の一首は 長忌寸意吉麻呂 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_56番歌(川の上のつらつら椿)~アルケーを知りたい(1761)

イメージ
▼今回は前の54番で見た坂門人足の「つらつら椿つらつらに」のフレーズが出て来る歌。伊藤先生の脚注によると、56番のこの歌が54番の原歌かも知れないとのこと。54番では巨勢が二度出て来るが56番は一度きり。老のこの歌を見ていると、巨勢の春野を眺めている気がしてくる。どちらにしても、つらつら気分になるのは精神に良さそう。 或る本の歌 川の上のつらつら椿つらつらに 見れども飽かず巨勢の春野は  万56  右の一首は 春日蔵首老 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_55番歌(あさもよし紀伊人)~アルケーを知りたい(1760)

イメージ
▼今回の歌の冒頭の「あさもよし」は紀伊の枕詞で、特産の麻裳が良い、という意味。紀伊は「朝も良し」と思ってたら、違ってました。で、この歌の本意は何だろうか。紀伊の人はどこかに 行くときもどこからか来る時も 真 土山を 眺められるから羨ましい、といって真 土山と紀伊の人を誉めることにありそう。調淡海にそこまでいわれると見たくなる。 あさもよし紀伊人羨しも真土山 行き來と見らむ紀伊人羨しも  万55 *紀伊の人がうらやましいです。行くときも来るときも真土山を眺められるのですから、紀伊の人がうらやましいです。   右の一首は調音淡海。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_54番歌(巨勢山のつらつら椿)~アルケーを知りたい(1759)

イメージ
▼今回は「つらつら」の響きが楽しい春の歌。持統上皇が紀伊の国に行幸した。この歌の作者、坂門人足は同行してこの歌を詠ったのか、都で留守番をして巨勢の春野に思いを馳せたのか、どっちだろう。  大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊の国に幸す時の歌 巨勢山 (こせやま) のつらつら椿つらつらに 見つつ偲はな巨勢の春野を  万54 *巨勢山のつらつら椿をゆるりと眺めながら巨勢の春の野原に思いを馳せましょう。  右の一首は坂門人足。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_1番歌(籠もよみ籠持ち)~アルケーを知りたい(1758)

イメージ
▼今回の1番歌から前回の53番歌までが万葉集全20巻の元になった最初の歌集という。私には1番歌はとても難しいから、参考書の著者・伊藤先生仰るところの「原万葉」52首に目を通してからにした次第。 ▼余計なことだけど、万葉集に入りにくいとしたら、「1番歌の壁」問題があると思う。昔バイオリンのレッスンを受けたとき、教本の1番を飛ばして次の練習曲から始めたことがあって、恩師が「そういう習慣なんですよ」と説明してくれたことがあった。そのデンで、万葉集も2番から入ると良いかも。 ▼1番歌の壁問題とは、漢字の読みが難しい・男が可愛い子に声をかける歌じゃん(という戸惑い)・歌の後半「我」が3回出てきて押しが強すぎ・この歌を詠った雄略天皇がメチャ怖い人物・続く2番歌を消し飛ばしてしまうインパクトがある等など 。  泊瀬 (はつせ) の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇 (すめらみこと) の代  大泊瀬稚武天皇 天皇 (おほ はつせ わかたけの すめらみこと) の御製歌 籠 (こ) もよ み籠持ち  掘串 (ふくし) もよ み掘串 (ぶくし) 持ち  この岡に 菜摘 (なつ) ます子 家告 (の) らさね そらみつ 大和の国は  おしなべて 我れこそ居 (を) れ  しきなべて 我れこそ居れ  我れこそば 告らめ 家をも名をも 万1 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_53番歌(藤原の大宮仕へ)~アルケーを知りたい(1757)

イメージ
▼今回の53番が万葉集の元になった歌集の締めの歌。最初は53首で始まった歌集だったのだ。藤原の宮と娘子を誉める明るい歌。下の句で「をとめ」「ともは」「ともしき」と「と」音が重なっているのが印象的。  短歌 藤原の大宮仕へ生 (あ) れ付くや 娘子 (をとめ) がともは羨 (とも) しきろかも *藤原の大宮に仕える廻り合わせ。そんな生まれ付きの娘子たちは羨ましい限り。  右の歌は、作者未詳。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_52番歌(とこしへにあらめ)~アルケーを知りたい(1756)

イメージ
▼今回は藤原宮の素晴らしさをほめたたえる歌。香具山、畝傍山、耳成山、吉野山が出て来る。そして豊かな清水が湧く井戸。山々のよき、井戸のよき。  藤原の宮の御井 (みゐ) の歌 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は  日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば  とこしへにあらめ 御井の清水  万52 *吉野の立派な宮殿の井戸で湧き出る清らかな水よ、永遠なれ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_51番歌(采女の袖吹きかへす)~アルケーを知りたい(1755)

イメージ
▼694年、持統天皇は都を明日香の宮から 距離にして3kmくらい離れた 藤原宮に遷した。志貴皇子が 飛鳥宮が寂しくなった気持ちを風に託して詠んだ歌。藤原宮は最新のコンセプトで作られた都だったので、暮らし馴れた明日香の宮にいると、そこはかとない置いてきぼり感があったのだろうと思ふ。  明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、 志貴皇子 の作らす歌 采女 (うねめ) の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く  万51 *女官の袖を揺らす明日香の風。都が遠のいたいま、空しく吹いています。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_50番歌(いそはく見れば)~アルケーを知りたい(1754)

イメージ
▼前書きにある「藤原の宮」とは、天武天皇が計画し、持統天皇が実現した藤原京(奈良県橿原市)のこと。縦横が5.3Kmの規模。でかい。条坊制を採用した日本で初めての本格的な都。694年に飛鳥浄御原宮から藤原の宮に遷都した。50番はその記念となる長歌。参考書の伊藤博先生によると、 作者は役民とあるが、実 は高級官人らしいとのこと。役人が労役に汗を流す民の立場に立って詠った歌だ。いそはく見ればの「いそはく」は頑張っている状態のこと。では今日も、いそはくやるとしますか。  藤原の宮の役民の作る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤原が上に 食 (を) す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地 (あめつち) も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山 (たなかみやま) の 真木 (まき) さく 檜 (ひ) のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道 (こせぢ) より 我が国は 常世にならむ 図負 (あやお) へる くすしき亀も 新代 (あらたよ) と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝 (のぼ) すらむ  いそはく見れば 神からにあらし  万50 *藤原の宮の造営に民が力を尽くしているのを見ると、これは神意であるかららしい。  右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八日に、藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春の正月に、藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に、藤原の宮に遷る」といふ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_46-49番歌(安騎の野に宿る旅人)~アルケーを知りたい(1753)

イメージ
▼46番から49番の四首は起承転結になっているというので、並べてみた。 「転」に相当する48番が良き。東にはかげろう、反対を向くと月が傾いているという視線の動かし方の良き。「結」に出て来る「馬並めて」、これも良き良き。  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 日並皇子 (ひなみし みこ) の馬並めて み狩立たしし時は來向ふ  万49 *安騎の野で野宿する旅人は、ゆっくり寝てなどいられません。昔のことを思うにつけて。 *ここは荒野だけれども、昔の君を思い出すために参りました。 *東の野に陽炎が見えます。反対を見ると月が傾いています。 *日並皇子が 馬 を並べて狩りに向かう時がやって来ました。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_45番歌(小竹を押しなべ草枕)~アルケーを知りたい(1752)

イメージ
▼万葉集の歌は、誰が誰を詠っているのか分からなくなることが時々ある。今回の45番の前書きから、軽皇子がキャンプしたとき、人麻呂が作った歌、ということは分かる。でも長歌の冒頭の 「わが大君」とは誰のことを言っているのだろう。軽皇子だろう。ということは「いにしへ思ひて」は軽皇子が、亡き父・草壁皇子を思って、ということになりそう。だから45番歌は、人麻呂が軽皇子の行動と思いを歌にした作品、ということか。▼フィールドでどんな野宿をしていたのか気になる。「小竹(しの)を押しなべ草枕」という句の小竹を平らかにするのはいかにもリアルで、草を枕にするのはいかにも喩え。リアルと喩えが入り混じっている。昔読んだヘミングウェイの小説に出て来る若者ニックがキャンプするときの描写を思い出す。ニックも小竹を押しなべてその上に毛布を敷いて寝る準備をしていた。   軽皇子 、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき  小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて  万45 *雪が降る安騎の大野のススキや小竹を押し広げて一夜を過ごします。昔のことを思いながら。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_44番歌(我妹子をいざ見の山を)~アルケーを知りたい(1751)

イメージ
▼今回の44番歌は夫の立場から妻を詠った作品。前回の43番と対になる格好だ。歌に直接関係がなさそうに見える後書きにたいへん興味深いことが書いてある。吉野に行こうとする持統天皇に、今のタイミングではありませんぬ、と中止を求める高市皇子。そんなことを聞かないで吉野に行く持統天皇。高市皇子の忠誠と持統天皇の強さを感じる。   石上大臣 、従駕にして作る歌 我妹子をいざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも  万44 *わが妻をさあ見よう、といういざ見の山は高いです。でも大和の国は見えません。遠いからでしょう。  右は、日本紀には「朱鳥の六年壬辰の春の三月丙寅の朔の戊辰に、浄広肆 広瀬王 等をもちて留守官となす。 ここに中納言三輪朝臣 高市麻呂 、その冠位を脱きて朝に捧げ、重ねて諫めまつりて曰さく、「農作の前に車駕いまだもちて動すべからず」とまをす。 辛未に、 天皇 諫めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸す。 五月乙丑の朔の庚午に、阿胡の行宮に御す」といふ。 ▼ 44番の後書きをビジュアルにした。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_43番歌(我が背子はいづく行くらむ)~アルケーを知りたい(1750)

イメージ
▼今回は出張に出た夫を偲ぶ歌。「沖つ藻」は「名張の山」の枕詞。舟旅ではなく徒歩の旅。この43番歌は、511番でももう一度出て来る。同じ歌が二度出て来るのは珍しい。   当麻真人麻呂が妻 の作る歌 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ  万43 *私の夫はどこを行っているのでしょう。今日あたり名張の山を越えるとか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_42番歌(潮騒に伊良虞の島辺)~アルケーを知りたい(1749)

イメージ
▼40番からの人麻呂の三首セットを並べてみると、40番では乙女らが海辺に出て裾を濡らし、41番では藻を刈り取る。ここまでは陸地。今回の42番では舟に乗って島めぐりをしているので、海上。若々しくイキイキした絵のような歌。 潮騒 (しほさゐ) に伊良虞の島辺漕ぐ舟に 妹乗るらむか荒き島みを  万42 *波立つ伊良虞の島のあたりを漕ぎ進める舟に彼女が乗っているのでしょうか。荒々しい島廻りで。 ▼三首セットを並べてみました。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_41番歌(釧着く答志の崎に)~アルケーを知りたい(1748)

イメージ
 ▼40番から42番までは人麻呂3首セットの歌。今回はその二首目。たまもが続けて出て来るのが面白い。しかも40番では玉裳、41番では玉藻になっているのが面白い。40番では乙女が主人公、41番では男たちが主人公、、、、なのかな。 釧 (くしろ) 着く答志 (たふし) の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ  万41 *答志の崎で今日も大宮人が玉藻を刈っていることでしょう。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_40番歌(嗚呼見の浦に)~アルケーを知りたい(1747)

イメージ
▼40番から42番までは人麻呂3首セットの歌。一度に全部見てしまうのは惜しいので今回は40番を見る。持統天皇が伊勢の国に行幸したとき、人麻呂は京に残り、この歌を詠んだ。をとめギャルらがわざと裳を濡らして 裾が 足にくっつくのを喜んでいる様子が浮かぶ。  伊勢の国に幸す時に、京に留まれる 柿本朝臣人麻呂 が作る歌 嗚呼見 (あみ) の浦に舟乗りすらむをとめらが 玉裳の裾に潮満つらむか  万40 *嗚呼見の浦で舟に乗っている娘子たち。美しい裳の裾まで潮が満ちているでしょうか。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_39番歌(山川も依りて仕ふる)~アルケーを知りたい(1746)

イメージ
▼今回の反歌で、36番に始まる2首セットの2群構成が完結。後書きに持統天皇の吉野行幸がリストになっている。持統天皇は繰返し吉野に行ってエネルギーをチャージしていたのだ。天武天皇が手掛けた事業を完成させるため全精力を使っていたので、吉野行きは持統天皇にとって必須だったと思ふ。  反歌 山川も依りて仕ふる神ながら たぎつ河内に舟出せすかも  万39 *山や川が仕える神として、波が激しい河内に舟をお出しになろうとしています。  右は、二本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。 八月に、吉野の宮に幸す。 四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。 四月に、吉野の宮に幸す」といふ。 いまだ詳らかにいづれの月の従駕にして作る歌なるかを知らず。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_38番歌(やすみしし我が大君)~アルケーを知りたい(1745)

イメージ
▼今回の38番歌は後に反歌を率いる2首構成。前回の36-37番も長歌と反歌の2首構成。で 参考書の伊藤博氏の脚注によると 、その二首構成の群れが二つ集まって、吉野讃歌としてのまとまりを持つのだそうだ。 やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち  国見をせせば たたなはる 青垣山 山神 (やまつみ) の 奉 (まつ) る御調 (まつき) と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり  一には「黄葉かざし」といふ 行き沿ふ 川の神も 大御食 (おほみけ) に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下す瀬に 小網 (さで) さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも 万38 *山も川もそろって仕える神の時代です。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_37番歌(見れど飽かぬ)~アルケーを知りたい(1744)

イメージ
▼今回は36番の長歌のエッセンスを凝縮した反歌。吉野の川は見ても見ても飽きない。川の流れと同じように絶えることなく見に来ると詠う。持統天皇にとっての吉野は天武天皇との時間を感じる場所なのだ、と感じる。  反歌 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまたかへり見む  万37 *いくら見ても見飽きることがない吉野の川の滑らかな流れを絶えることなくまた見に参りましょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_36番歌(水激く滝の宮処は)~アルケーを知りたい(1743)

イメージ
▼ 今回の35番は持統天皇が吉野に行幸したときの歌。 柿本人麻呂は天武天皇の時代から朝廷に務めていた人らしい。天武天皇は大海人皇子だった時期、吉野で暮らしていた時期があった。天武天皇の妻、持統天皇は吉野に思い入れがあり、天武天皇が崩御した後も足しげく通っていた。それを良く知る人麻呂が吉野を誉める歌を詠い、持統天皇の気持ちを表したのだ(ろうと思ふ)。  吉野の宮に幸す時に、 柿本朝臣人麻呂 が作る歌 やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも  万36 *吉野の宮はいくら見ても見飽きません。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_35番歌(これやこの大和にしては)~アルケーを知りたい(1742)

イメージ
▼今回の35番は冒頭の「これやこの」のフレーズが印象的な歌。そして「背の山」で締めてるんだけど、前に「 名に負う」が付く 。この名に負うという言葉も良き良き。インスパイアされてマネしてみた:これやこの武蔵にしては我が恋ふる 豊後にあるといふ名に負ふ由布の山。  背の山を越ゆる時に、阿閉皇女の作らす歌 これやこの大和にしては我が恋ふる 紀伊道にありといふ名に負ふ背の山  万35 *これが大和にいて私が見たくてしかたなかった紀伊道にあると言うあの有名な背の山なのですね。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1