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万葉集巻第7_1070番歌(ますらをの弓末振り起し)~アルケーを知りたい(1889)

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▼今回の歌の「猟高の野辺」はどんな場所なのだろう、と思って調べると 奈良の高円山とその周りの野原のようだ。高円山は標高が432m。ということは、月の光に照らされた野原を小高いところから見た歌だ。明かりのない時代。月夜だから山も歩けたのだろう。 ますらをの弓末 (ゆずゑ) 振り起し猟高 (かりたか) の 野辺 (のへ) さへ清く照る月夜かも  万1070 *今夜は、猟高の草原をきれいに照らし出す月夜だ。 (「益荒男の弓末振り起し」をまるっと省略) 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=7

万葉集巻第7_1069番歌(常はかつて思はぬものを)~アルケーを知りたい(1888)

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▼今回の歌の「常はかつて思はぬものを」という言い方、良いなと思ふ。見慣れているはずなのに、なぜか新鮮に感じられる感覚。自分に何か変化が起きたのだろう。月を詠む歌はこれからしばらく続く。    月を詠む 常はかつて思はぬものをこの月の 過ぎ隠らまく惜しき宵かも  万1069 *今までは思わなかったが、あの月が山に隠れてしまうのが惜しい宵だ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=7

万葉集巻第7_1068番歌(天の海に雲の波立ち)~アルケーを知りたい(1887)

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▼今回から巻7。巻7は巻6の延長、という位置付け。雑歌から始まる。トップバッターが星の林に月の舟が進む、という幻想的な作品。夜空はそんなふうに見立てられるのかと驚く。自分は近視で月くらいしか見えないので。天の海、雲が波、星が林の中を月の舟が漕ぎ進む。時には雲に隠れながら。巻7も作者が分からない歌ばかり。1068番は後書きに、人麻呂歌集に載っていると書いてある。  雑歌  天を読む 天の海に雲の波立ち月の舟 星の林に漕ぎ隠る見ゆ  万1068 *天を海に見立てると雲の波が立っています、そこに月の舟が星の林の間を見え隠れしながら進んでいるのが見えます。   右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=

万葉集巻第6_1066-1967番歌(まそ鏡駿馬の浦は)~アルケーを知りたい(1886)

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▼今回は巻6を締める歌。長歌に続く反歌で、神戸の海岸を褒める歌。740年からの遷都、遷都を反映する落ち着かない歌が続いたが、最後は明るい歌で閉じる。読み手の気持ちも和らぐ。とはいえ、聖武天皇の時代は藤原広嗣の乱が起ったように、いろいろ大変だったようだ。遷都に次ぐ遷都は、天皇の心の状態だったようにも思える。次回から巻7。  反歌二首 まそ鏡駿馬の浦は百舟の 過ぎて行くべき浜ならなくに  万1066 *敏馬の浦は見どころのスポットですから、浜を素通りする舟はありません。 浜清み浦うるはしみ神代より 千舟の泊つる大和太 (おほわだ) の浜  万1067 *浜は清らかで、浦は素晴らしいので、神代の時代から舟という舟がすべて停泊する大和太の浜です。  右の二十一首は、田辺福麻呂が歌集の中に出づ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1065番歌(八千桙の神の御代より)~アルケーを知りたい(1885)

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▼今回の歌は、いままでの遷都を寂しがる調子から離れて、 神戸港の東にある利便性の良い敏馬の浦を褒めた長歌 。肩の力が抜けた風情がよろしき。   敏 馬 (みぬめ) の浦 を過ぐる時に作る歌一首  幷せて短歌 八千桙の 神の御代より 百舟の 泊つる泊りと 八島国 百舟人の 定めてし  敏馬の浦 は 朝風に  浦波騒き 夕波に  玉藻は来寄る 白真砂 清き浜辺は 行き帰り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜 万1065 *神の時代から多くの舟が泊まるところと定めていた敏馬の浦は見ても見ても飽きないところだから語り継がれてきたのだ。これから先もずっと偲ばれる清らかな白浜です。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1063-1964番歌(あり通ふ難波の宮は)~アルケーを知りたい(1884)

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▼難波津の宮を詠う反歌二首。海にとても近い場所であることが分かる。遷都先としてはどうなんだろう・・・。結果、1年のうちに平城京に戻る。この10年後の755年、難波津は東国から集まった防人が筑紫に船で移動する拠点になる。家持が防人の歌を収集した場所だ。  反歌二首 あり通ふ難波の宮は海近み 海人娘子らが乗れる舟見ゆ  万1063 *大君がお通いになる難波の宮は海が近いので、海人娘子たちが乗る舟が見えます。 潮干ふれば葦辺に騒く白鶴の 妻呼ぶ声は宮もとどろに  万1064 *干潮になると葦辺に白鶴が飛んで来ます。妻を呼ぶ鳴き声が宮じゅうに響きます。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1062番歌(やすみしし我が大君の)~アルケーを知りたい(1883)

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▼740年の 藤原広嗣の乱の後、5年間、遷都が続いた。まず 740年、平城京から久邇京に遷都するも743年に造営中止、744年に難波京に遷都、745年平城京に遷都。今回の歌は難波の宮で作られた作品。海の近くだけあって、潮の香りがしてきそう。  難波の宮にして作る歌一首  幷せて短歌 やすみしし 我が大君の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝 羽振る 波の音騒ぎ 夕 なぎに 楫の音聞こゆ 暁 の 寝覚に聞けば 海石の 潮干の共 浦洲 には 千鳥妻呼び 葦辺 には 鶴が音響む 見る人 の 語りにすれば 聞く人 の 見まく欲りする 御食向ふ 味経の宮は 見れど飽かぬかも 万1062 *我が大君が通う難波の宮は浜辺が近いので朝夕動きが盛んで賑やかです。その様子を見たり聞いたりしたい人が後を絶ちません。たしかに難波の宮は見ても飽きることがないのです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1060-1061番歌(三香の原久邇の都は)~アルケーを知りたい(1882)

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▼今回の反歌2首の1060番は、状況の説明とその理由になっている。 大宮人が他所に行ってしまうと都は荒れるという、原因と結果を述べた歌だが、1060番型で表現すると上品だ。 1061番は、すなわち不易流行と因果を合わせた歌。花の色は変わらず、都は変わる。なぜなら大宮人がいなくなったから。久邇京が都だったのは4年くらい。大宮人も都もうつろふ時期だった。  反歌二首 三香の原久邇の都は荒れにけり 大宮人のうつろひぬれば  万1060 *三香の原の久邇の都は荒れてしまいました。大宮人がいなくなったので。 咲く花の色は変らずももしきの 大宮人ぞたち変わりける  万1061 *咲いている花の色は変わらないけれど、大宮人がいなくなったので都がすっかり変わった。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1059番歌(百鳥の声なつかしく)~アルケーを知りたい(1881)

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▼今回の歌に出て来る「住よいと人は言うけれど、たたずまいがよいと私も思うけれど」、もうひとつ「国を見ると人が通わないし、里を見ると家々が荒れている」の表現が印象的。強調して伝えたい時に効果的な表現方法だ。使ってみたいぞ。  春の日に、三香の原の荒墟を悲傷しびて作る歌一首  幷せて短歌 三香の原 久邇の都は 山高み 川の瀬清み 住よしと  人は言へども ありよしと  我れは思へど 古りにし 里にしあれば 国見れど  人も通わず 里見れば  家も荒れたり はしけやし かくありけるか みもろつく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 声なつかしく ありが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも  万1059 *山は高く川の瀬は清らか。人は住みよいと言い私もそう思う。しかし古びた里には人は通わず家も荒れている。咲く花の色はあざやかでいろんな鳥の鳴き声もなつかしい。住み慣れた里が荒れるのは残念だ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1057-1058番歌(鹿背の山木立を茂み)~アルケーを知りたい(1880)

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▼ 久邇京を褒める長歌に続く反歌五首。後半の3首。ウグイスとホトトギスが出て来る。1057番ではウグイスで声が聞こえる。1058番はホトトギスなんだけど、ここまで来てくれない。やっぱりどこかに物足らなさ、寂しさの空気が漂う印象。 鹿背の山木立を茂み朝さらず 来鳴き響もすうぐひすの声  万1057 *鹿背山の木立が深いのでウグイスが毎朝やってきて鳴き声を響かせています。 狛山に鳴くほととぎす泉川 渡りを遠みここに通はず   一には「 渡り遠みか通はずあるらむ 」といふ *狛山で鳴くホトトギスは、泉川の渡りが遠いので、こちらまでは通って来ないのです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1054-1056番歌(泉川行く瀬の水の)~アルケーを知りたい(1879)

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▼久邇京を褒める長歌に続く反歌五首。うち三首。新しい都を褒めるほど寂しさを感じてしまうのは、数年後に久邇京は都でなくなるからと分かっているから。そう思うのだけれども、万葉集編集の段階でも分かっていたわけだ。その点で同じ。誉め言葉と無常観というか寂しさが重ね合わさってる歌って気がするがどうでしょう。  反歌五首 泉川行く瀬の水の絶えばこそ 大宮ところうつろひゆかめ  万1054 *泉川の瀬の水が絶えることがあれば、その時は大宮所も寂れるでしょう。 布当山山なみ見れば百代にも 変るましじき大宮ところ  万1055 *布当山の山なみを見ればこれから百代も変わることのない大宮所と分かります。 娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山 時しゆければ都となりぬ  万1056 *娘子らが紡いだ麻を掛けるという鹿背山も、時が移って今や都になっています。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1053番歌(八千年に生ま付かしつつ)~アルケーを知りたい(1878)

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▼今回の長歌も久邇京を誉める作品。四季の自然の変化ごとの美しさが伝わってくる。清らかさを大事にしていたのだ。 我が大君 神の命の 高知らす 布当 (ふたぎ) の宮は 百木もり 山は木高し 落ちたぎつ 瀬の音も清し うぐひすの 来鳴く春へは 巌には 山下光り 錦なす 花咲きををり さお鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧 (あまぎ) らふ しぐれをいたみ さ丹つらふ 黄葉散りつつ 八千年に 生ま付かしつつ 天の下 知らしめさむと 百代にも 変るましじき 大宮ところ  万1053 *我が大君が建設中の布当の宮はロケーションが抜群でこれから八千の年も大君が現れ天下をお治めになる、百代を経ても変わることのない大宮どころです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1051-1052番歌(山高く川の瀬清し)~アルケーを知りたい(1877)

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▼前回の勢いのある長歌の後に続く反歌二首が今回の歌。1051番は久邇が大宮であることを納得しようとしている感あり。1052番は、なんか無理に詠ってませんか、という気持ちになってしまった。長歌の勢いがあったので分からなかったけれど、田辺福麻呂には、やっぱり都は奈良でしょと思っていたのではないか?と想像した。遷都に対する思いが感じられて面白い。  反歌二首 三香の原布当の野辺を清みこそ 大宮ところ  一には「ここと標刺し」といふ  定めけらしも  万1051 *三香の原にある布当の野辺は清らかだからこそ、大宮をここに定められたのです。 山高く川の瀬清し百代まで 神しみゆかむ大宮ところ  万1052 *山は高く川の瀬は清らかなので、百代先まで神々しいのがここ大宮です。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1050番歌(うべしこそ我が大君は)~アルケーを知りたい(1876)

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▼旧都を惜しんでばかりではなかった。今回は久邇の新しい都の讃歌。国はしと里はし、山なみと川なみ、川近みと山近み、秋さればと春されば、など対になるフレーズが次々に出て来る。勢いがある。こんな素晴らしい所だから大君はここを大宮に定められたのだ、と鮮やかに結ぶ。Wikipediaによると田辺福麻呂は「 百済帰化の日系氏族帰国者」とあり、日本人とは?とか日本精神とは?の問に対する答えを複雑にしてくれる。  久邇の新京を讃むる歌二首  幷せて短歌 現つ神 我が大君の 天の下 八島の内に 国はしも  さはにあれども 里はしも  さはにあれども 山なみの  よろしき国と 川なみの  たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み  瀬の音ぞ清き 山近み  鳥が音響む 秋されば  山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば  岡辺も繁に 巌には 花咲きををり あなあはれ 布当の原 いと貴 大宮ところ うべしこそ 我が大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも  万1050 *山がよろしく、川もよろしく、秋も春もよい、布当の原はたいへん貴い。だからこそ我が大君は大宮ここに定められたのだ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1048-1049番歌(たち変り古き都と)~アルケーを知りたい(1874)

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▼遷都後の都の道に雑草が伸びている、荒れている、と嘆く歌。田辺福麻呂の旧都への愛着が伝わる。福麻呂さん、ご安心を、また都は奈良に戻って来ますから。  反歌二首 たち変り古き都となりぬれば 道の芝草長く生ひにけり  万1048 *時間が経って古い都になってしまい、道の雑草も長く伸びてきた。 なつきにし奈良の都の荒れゆけば 出で立つごとに嘆きし増さる  万1049 *慣れ親しんでいた奈良の都が荒れるので、道に出るたびに嘆きが増す。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1047番歌(通ひし道は馬も行かず)~アルケーを知りたい(1874)

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▼遷都によって旧都になった都を詠う。フレーズの対が気持ち良い。それが三つある。「山見れば・里見れば」「 思へりし・ 頼めりし」「 春花の・ 群鳥の 」。奈良の都への愛着が伝わる。  寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首  幷せて短歌 やすみしし 我が大君の 高敷かす 大和の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生 (あ) れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし  大宮すらを 頼めりし  奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花の  うつろひ変り 群鳥の  朝立ち行けば さす竹の  大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも  万1047 * 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1044-1046番歌(世間を常なきものと今ぞ知る)~アルケーを知りたい(1873)

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▼今回は、 740年に奈良から久邇京への 遷都があった後、奈良が寂れる様子を悲しむ歌三首。後の時代の人間から見ると、5年経ったらまた都になるので、そんなに寂しがらなくても良いのにと思ったりする。でもそんなこと分かるわけない。同じように今のいろいろな嘆きも5年も経てば別の嘆きに取って代わられるかも知れないし。嘆きの遷都。  寧楽の京の荒墟を傷惜みて作る歌三首  作者審らかにあらず 紅に深く染みにし心かも 奈良の都に年の経ぬべき  万1044 *紅が深く染みるように私の心も奈良の都に馴染んで年を重ねたい。 世間を常なきものと今ぞ知る 奈良の都のうつろふ見れば  万1045 *世間は常に変化するとあらためて知る。奈良の都のうつろいを見ると。 岩つなのまたをちかへりあをによし 奈良の都をまたも見むかも  万1045  *岩に這う蔦のようにまた若返って奈良の都をまた見たいものだ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1043番歌(たまきはる命は知らず)~アルケーを知りたい(1872)

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▼今回は前回の続き。 二首セットの後の一首。家持と市原王が小高い丘に登り、そこにある松の枝を結んで健康長寿を祈る歌。共感できます。 たまきはる命は知らず松が枝を 結ぶ心は長くとぞ思ふ  万1043 *人の寿命は分からないので、松の枝を結んで祈る時、長くあって欲しいと思ふ。  右の一首は大伴宿禰家持が作。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1042番歌(一つ松幾代か経ぬる)~アルケーを知りたい(1871)

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▼今回の歌は二首セットの初めの一首。家持と市原王が久邇京近くの岡を散策したときの歌。前書きに「松の下に集ひて飲む」とある。詠むじゃなくて飲む?ここで小宴を持ったのだろうか、と思った。 1042番は、松を吹き抜ける風の音の清らかさを詠っている。相当に強い風が吹いてないと枝を抜ける風音が聞こえないんじゃないか?と思うと気になって仕方がない。  同じき月の十一日に、活道の岡に登り、一株 (ひともと) の松の下に集ひて飲む歌二首 一つ松幾代か経ぬる吹く風の 声の清きは年深みかも  万1042 *この一本の松は年を重ねた古木なのだろう。吹き抜ける風の音が清く聞こえる。  右の一首は市原王が作。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1041番歌(我がやどの君松の木に)~アルケーを知りたい(1870)

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▼君を待つ→君松の木、雪→行き、とダブルでシャレてみた和歌。天平16年の歌。西暦では744年。この頃から今に至るまでシャレを言わずにはおれないのだ。この歌の作者は不明だが、集まったのは阿倍虫麻呂の家。阿倍虫麻呂といえば、4年前の740年には藤原広嗣が起こした乱を勅使として鎮圧に向かった人。ダブルのダジャレに、あははと笑って喜んだのかな。  十六年甲申の春の正月の五日に、諸卿大夫、 安倍虫麻呂 朝臣が家に集ひて宴する一首 作者審らかにあらず 我がやどの君松の木に降る雪の 行きには行かじ待ちにし待たむ  万1041 *私の家にある「君待つ木」に雪が降っています。迎えに行くのは行かず、待つだけ待つことにします。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1040番歌(ひさかたの雨は降りしけ)~アルケーを知りたい(1869)

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▼今回は、 安積親王 (あさかしんのう) が藤原八束の家で宴会を開き、同席していた家持が詠んだ 743年の 歌。 安積親王は聖武天皇の息子で、この年、15歳。八束が28歳。家持は25歳。みなさんお若い。雨の夜、仲の良い仲間が集まったのだから、飲み明かしましょう、と詠う家持。   安積親 王 、左少弁 藤原八束 朝臣が家にして宴する日に、内舎人 大伴宿禰家持 が作る歌一首 ひさかたの雨は降りしけ思ふ子が やどに今夜は明して行かむ  万1040 *ひさしぶりの雨が降りしきるので気の合うお方の家で今夜はずっと飲みましょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1038-1939番歌(故郷は遠くもあず)~アルケーを知りたい(1868)

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▼今回の歌の作者、 高丘河内は663年に百済から日本に帰化した沙門詠(しゃもんえい)の子 。 沙門詠は、 戦乱を避けて楽浪郡に移住した 秦の王族の子孫 。河内は橘佐為・山上憶良と共に 子ども時代の 聖武天皇が教育係を務めた。   高丘河内 連が歌二首 故郷は遠くもあず一重山 越ゆるがからに思ひぞ我がせし  万1038 *故郷は遠くない。でも山ひとつ隔てられているから、苦しい思いがするだ。 我が背子とふたりし居らば山高み 里には月は照らずともよし  万1039 *妻と二人でいれば、いくら山が高かろうが、里に月が出なかろうが、構わない。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1037番歌(今造る久邇の都は)~アルケーを知りたい(1867)

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▼ 久邇(くに)の京は聖武天皇が740(天平12)年から744(天平16)年の4年間、都にした場所。740年は藤原広嗣の乱とその後処理があり、落ち着かない時期。1037番歌は、開発途中の新都を 山や川がすがすがしいと 褒める作品。  十五年癸未の秋の八月の十六日に、内舎人 大伴宿禰家持 、久邇の京を讃めて作る歌一首 今造る久邇の都は山川の さやけき見ればうべ知らすらし  万1037 *今建設中の久邇の都は山や川が清らかな場所なので、ここに都にするのはもっともなことです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1035-1036番歌(田跡川の滝を清みか)~アルケーを知りたい(1866)

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▼1035番は出張先の滝の水の清らかさを詠う歌。1036番は出張先から家に帰りたい気持ちが伝わる歌。本音はそうなんだ、と思わせる歌。   大伴宿禰家持 が作る歌一首 田跡川の滝を清みかいにしへゆ 宮仕へけむ多芸の野の上に  万1035 *田跡川の滝が清らかなので昔から多芸の野で宮仕えしてきたのでしょう。  不破の行宮にして、大伴宿禰家持が作る歌一首 関なくは帰りにだにも打ち行きて 妹が手枕まきて寝ましを  万1036 *不破の関がなければ馬で妻が待つ家に戻ってゆっくり寝られるのに。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1034番歌(いにしへゆ人の言ひ来る)~アルケーを知りたい(1865)

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▼今回は養老の滝の歌。ここの滝は老人が若返る水で名高い。万葉の歌人が「昔からそういう言い伝え」と言ってるくらいだから確かだ。現代の地名は 岐阜県養老郡養老町。  美濃の国の多芸の行宮にして、 大伴宿禰東人 が作る歌一首 いにしへゆ人の言ひ来る老人 (おいひと) の をつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬  万1034 *昔から人が言い伝えて来た老人が若返るという水です。養老という名の滝の水です。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1032-1033番歌(大君の行幸のまにま)~アルケーを知りたい(1864)

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▼家持の歌は私のような素人にはとても分からない含みがある。いろんな面があるので予断禁物。1032番歌は、行幸に随行しているオレちゃんだぞーというプライドみたいなのと、妻のもとから離れて長いんだが、というボヤキに見せた気どりと、それだけ長期の行幸に随行してんだぞオレは、という自負みたいなのが入り混じて、この歌が苦いのか甘いのか分からん。1033番は熊野製の小舟といってメーカーの蘊蓄があるのが面白くて共感できる。今回の二首から、やっぱり家持は一筋縄ではいかない人、と思ふ。  狭浅 (ささ) の行宮 (かりみや) にして、 大伴宿禰家持 が作る歌二首 大君の行幸のまにま我妹子が 手枕まかず月ぞ経にける  万1032 *大君の行幸に随行しているので妻と一緒に過ごせないまま月が経ちます。 御食つ国志摩の海人ならし ま熊野の小舟に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ  万1033 *志摩の漁師に違いない。熊野の小舟に乗って沖を漕いで行くのが見えます。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1031番歌(後れにし人を思はく)~アルケーを知りたい(1863)

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▼「後れにし人を思はく」という印象的なフレーズで始まる今回の1031番歌。「しで」を重ねたダジャレが入っている。後書きは「この歌は今回の行幸から生まれた作品ではない」とある。読者はどうすれば良いのだろう? 1029番の前書きにある藤原広嗣の乱から話が転がっているのだが。もう広嗣の乱の件はどうでも良くなったのかな。   丹比屋主真人 が歌一首 後れにし人を思はく思泥 ( しで ) の崎 木綿取り垂 ( し ) でて幸 (さき ) くとぞ思ふ  万1031 *後に残っている人のことを思うと、幸いであって欲しいと思ふ。   右は、案ふるに、この歌はこの行の作にあらじか。 しか言う故は、大夫に勅して河口の行宮より今日に還し、従駕せしむることなし。 いかにしてか思泥の崎にして作る歌を詠むことあらむ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1030番歌(妹に恋ひ吾の松原)~アルケーを知りたい(1862)

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▼前回は聖武天皇の歌で、藤原広嗣の乱の制圧に調停軍を送ったときのもの。今回も続いて聖武天皇の歌。内容は、妻を思いながら干潟を見ると鶴の鳴き声が聞こえた、というもの。後書きに、歌の場所について、前回の歌の河口の宮から、今回の吾の松原は距離的に離れているから何かの誤りではないかという指摘がある。5W1Hから、つじつまが合うかどうかの視点で編集している。  天皇の御製歌一首 妹に恋ひ吾の松原見わたせば 潮干の潟に鶴鳴き渡る  万1030 *妻を思いながら吾の松原を見わたしていると、干潟から鶴の鳴き声が聞こえて来る。   右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重の郡にあり。 河口の行宮を相去ること遠し。 けだし朝明の行宮に御在す時に製らす御歌なるを、伝ふる者誤れるか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1029番歌(河口の野辺に廬りて)~アルケーを知りたい(1861)

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▼今回は家持が藤原博嗣を詠った歌。前書きに背景の説明がある。740年に九州で起きた 藤原広嗣の乱の当事者。広嗣は吉備真備と玄昉が朝廷を乱しているから罰すると主張。乱の鎮圧に来た勅使に、ではなぜ軍を起こしたのか、と問われる。しかしこの問いに答えられなかったので味方だった兵が散り、敗けた。1029番は制圧軍を発した聖武天皇が伊勢の国に行幸するとき同行した家持の歌。  十二年庚辰の冬の十月に、大宰少弐 藤原朝臣広嗣 、謀反 (みかどかたぶ) けむとして軍を発すによりて、伊勢の国に幸す時に、河口の行宮にして、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首 河口の野辺に廬りて夜の経れば 妹が手本し思ほゆるかも  万1029 *河口の野原に野宿して夜が遅くなるにつれ、妻が恋しいと思ったかも知れません。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1028番歌(ますらをの高円山に)~アルケーを知りたい(1860)

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▼今回はムササビの歌。今回は1028番のムササビだが、これに先立つ267番で登場している。同じムササビかどうかは分からないけど。 むささびは木末求むとあしひきの 山のさつ男にあひにけるかも 万267 *ムササビは木の末をめざしたら、山のさつ男と出くわしてしまった。 ▼山のさつ男やますらをは、毛皮にするためムササビを捕っていた。暖かいらしい。1028番のムササビは歌になったあと、間違いなく毛皮にされている。   十一年己卯に、天皇、高円の野に遊猟したまふ時に、小さき獣都里の中に泄走す。 ここにたまさかに勇士に逢ひ、生きながらにして獲らえぬ。 すなはち、この歌をもちて御在所に献上るに副ふる歌一首 獣の名は、俗には「むざさび」といふ ますらをの高円山に迫めたれば 里に下り來るむざさびぞこれ  万1028 *益荒男が高円山に上ったので、里に逃げて下りて来たムササビです、これは。   右の一首は、 大伴坂上郎女 作る。 ただし、いまだ奏を経ずして小さき獣死斃ぬ。 これによりて歌を献ること停む。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1026-1027番歌(ももしきの大宮人は)~アルケーを知りたい(1859)

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▼橘諸兄の家で宴会のときの歌の続き。前回に続く後半の二首。前の二首との関連はなさそう。宴会ではどういう流れでこの二首が出たのだろう。1026番は忙しくて自分の領地に行く暇がない大宮人を詠った作。これ、不在地主を揶揄しているのだろうか、と思ふ。1027番はそんな見方に対して、物思いしていることは人には分からんだろう、と返す。これも諸兄宅の宴会の一コマ。 ももしきの大宮人は今日もかも 暇をなみと里に行かずあらむ  万1026 *大宮人は今日も忙しいからといって領地に帰らないのだろうか。   右の一首は、右大臣伝へて「故 豊島采女 が歌」といふ。 橘の本に道踏む八衢に 物をぞ思ふ人に知らえず  万1027 *あれやこれやと物思いしているのだが、人には分かってもらえない。   右の一首は、右大弁 高橋安麻呂 卿語りて「故豊島采女が作なり」といふ。 ただし、或本には「 三方沙弥 、妻園臣に恋ひて作る歌なり」といふ。 しからばすなはち、豊島采女は当時当所にしてこの歌を口吟へるか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6