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万葉集巻第1_6番歌(山越しの風を時じみ)~アルケーを知りたい(1711)

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▼今回の6番歌は長歌5番歌の反歌。歌の後に「右は、日本書紀に検すに」から始まる長めの解説文がついている。これによると軍王がいまだ詳らかにあらず、とあるので、5番と6番の作者が軍王なのかはっきりしなくなる。解説では山上憶良の本を参照した、とある。憶良は家持の父親、旅人と九州の筑紫で歌を詠んだ仲間。だから父親世代の人が残した本を参照した5番6番のなりたちを研究した、という話だ。それでもよく分からないまま。家持も首を傾げながら、調べた限りのことをメモした、という感じ。こちらも、はあ、そうですかあ、とか思いながらこの万葉歌を眺める。  反歌 山越しの風を時じみ寝る夜おちず 家にある妹を懸けて偲ひつ  万6 *山を越えた風が吹き続けるから、毎夜絶え間なく、家にいる妻を偲んでいます。   右は、日本書紀に検すに、讃岐の国に幸すことなし。 また、 軍王 もいまだ詳らかにあらず。 ただし、山上憶良大夫が類聚歌林に曰はく、 「紀には『天皇の十一年己亥の冬の十二月己巳の朔の壬午に、伊予の温湯の宮に幸す云々』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。 この二つの樹に斑鳩と比米との二つの鳥いたく集く。 時に勅して多に稲穂を掛けてこれを養はしめたまふ。 すなはち作る歌云々』といふ」と。 けだし、ここよりすなはち幸すか。 【似顔絵サロン】義慈王 ぎじおう 599年 - 660年 百済の第31代王(在位:641年 - 660年)。660年、白村江の戦いで百済が滅びる。最後の王。父は第30代の武王。子のひとりが扶余豊璋= 軍王 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_5番歌(海人娘子らが焼く塩の)~アルケーを知りたい(1710)

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▼今回の長歌を作ったのは百済の皇子・軍王。30年間、日本に滞在。日本史に出てくる有名な白村江の戦い~663年、 日本・百済連合軍vs唐・新羅連合軍の戦~のために帰国した人物。大伴家持は718年生まれなので、50年ほど時代差がある。  讃岐の国の安益の郡に幸す時に、 軍王 が山を見て作る歌 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣き居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば ますらをと 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の  海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心  万5 *旅の途中で心細い思いを晴らす方法も分からない。海人が塩を焼くように思いで胸が焼けるようだ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_4番歌(たまきはる宇智の大野に)~アルケーを知りたい(1709)

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▼今回 は前回の万3の反歌。意味は「 宇智の大野に馬を並べ、朝、深い草むらへ踏み出します」。舒明天皇が猟をするために早朝の奈良県五條市宇智の野に臣下と共に馬を並べている姿を描いた歌。「たまきはる」は漢字本文では 玉尅春、霊尅と書いている。意味は、霊魂がきわまる、とか、魂が打ち漲る。この言葉が出るとピーンと張りつめた空気が伝わる。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_3番歌(今立たすらしみ執らしの)~アルケーを知りたい(1708)

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▼今回の3番歌は舒明天皇が奈良五条市の宇智の野で猟をしたとき、娘の中皇命が 間人連老に歌を詠んでもらい天皇に献上した作品。「朝狩に」「夕狩に」のリズムが心地よい。 「音すなり」のフレーズが二度出て 弓の弦の音が聞こえて来そうな臨場感がよい。  天皇、宇智の野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老をして献らしめたまふ歌 やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に   今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり  万3 *わが天皇が、朝に夕にお手にとっておられる梓弓、狩りにお出になる朝に夕に中弭(なかはず)の音が聞こえてきます。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_2番歌(作者の舒明天皇について)~アルケーを知りたい(1707)

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▼今回は2番歌の作者、舒明天皇について調べてみた。万葉集のエディタである家持(718 - 785)が登場するのは舒明天皇の時代から80年くらいあと。だから舒明天皇の時代の出来事は、家持にとっては一時代前の出来事。 ▼舒明天皇で印象的なのは、①家族の面子がすごいこと、②第一回の遣唐使の送り迎えを行ったこと。そして③「 うまし国ぞ 蜻蛉島  大和の国は」と詠ったこと。 ▼①は、万葉集に収められた歌を詠った人が揃っているので、歌ごと見て行くのが楽しみ。 ②についても、都度、どんな人とどんなご縁があったのか、確認する。 ③は、この歌の滋味が味わえるのが嬉しい、に尽きる。政治の実権は蘇我蝦夷だった、と理解してそれで思考停止していたが、いやいや、そうじゃない。 【似顔絵サロン】 蘇我 蝦夷  そが の えみし 586年 - 645皇極天皇4年7月11日 飛鳥時代の政治家・貴族。父は蘇我馬子。子は入鹿。乙巳の変で自害。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_2番歌(大和には)~アルケーを知りたい(1706)

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▼今回から万葉集巻1に戻ります。歌と歌人、その人に関係する人々を見てゆきます。寄り道が多くなりそうです。最初は2番歌から( 1番歌はその時が来てからやる予定。何しろ”濃い”ので)。2番歌は短めの長歌。 舒明天皇が香具山に登り、風景を眺めて大和がよい国だと褒める歌。「 うまし国ぞ 蜻蛉島 (あきづしま)   大和の国は」。口ずさむと心が落ち着く。   高市の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代 息長足日広額天皇   天皇、香具山に登りて国を望たまふ時の御製歌 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は  煙立ち立つ 海原は  鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は  万2 *よい国だ、大和の国は。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第二十4516番歌(新しき年の初めの)~アルケーを知りたい(1705)

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▼今回は、万葉集4515首を締めくくる歌。雄略天皇の1番歌に始まり舒明天皇の時代の4516番で終わる。上の句は「新しき」「年の初め」「初春の」とパリっとしたおニュー感を打ち出して下の句は「いやしけ吉事」と良いことが次々と続くよう祈って締める。和歌はキレイな世界に咲く花・・・というより、厭離穢土に咲く花、であるかのよう。  三年の春の正月の一日に、因幡の国の庁にして、饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首 新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事  万4516  右の一首は、守大伴宿禰家持作る。 *新年初春の今日、雪が降っています。よいことが重なる吉祥です。 【似顔絵サロン】 淳仁天皇  じゅんにんてんのう 733天平5年 - 765天平神護元年11月10日 第47代天皇。在位:758年9月7日 - 764年11月6日 天武天皇の皇子・舎人親王の七男。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4514-4515番歌(青海原風波靡き)~アルケーを知りたい(1704)

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▼4514番は、 内相・ 藤原仲麻呂内相の邸宅で渤海大使の小野田守を送る家持の歌。航路の安全を祈る内容。後書きの最後にいまだ 誦せずとあるのが気になる。4515番は因幡守として任地に出かける家持の送別会での本人の歌。会を開いた大原今城に向けた作品。寂しさが漂う。   二月の十日に、内相が宅にして渤海大使 小野田守 朝臣等を餞する宴の歌一首 青海原風波靡き行くさ来さ つつむことなく舟は早けむ  万4514   右の一首は右中弁大伴宿禰家持。いまだ誦せず *青海原の風と波が平穏で、往復には何も問題なく舟はすいすいと早く進むことでしょう。    七月の五日に、治部少輔大原今城真人が宅にして、因幡守大伴宿禰家持を餞する宴の歌一首 秋風の末吹き靡く萩の花 ともにかざさず相か別れむ  万4515   右の一首は、大伴宿禰家持作る。 *秋風が吹き抜け萩の花が靡いています。一緒にかざすことなしでお別れするのでしょうか。 【似顔絵サロン】 小野 田守 /淡理 おの の たもり ? - ? 奈良時代の貴族。730年、旅人の梅花の宴に参加。 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも  万846 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4511-4513番歌(池水に影さへ見えて)~アルケーを知りたい(1703)

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▼今回は家持の仲間が 山斎 (しま) という家持邸の庭を眺めて作った歌三首。4511番で三形王が馬酔木の花に着目した歌を詠う。続く4512番では家持が 池と水を加えて 馬酔木続きの歌、そして4512番で 伊香が、池と水に映える馬酔木の花が散るのが惜しい、と締める。  山斎 を属目 (しょくもく) して作る歌三首 鴛鳶 (をし) の棲む君がこの山斎 (しま)  今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも  万4511  右の一首は大監物 三形王 。 *鴛鳶が棲息するという貴方様のお館を今日拝見すると馬酔木の花が咲いています。 池水に影さへ見えて咲きにほふ 馬酔木の花を袖に扱入れな  万4512  右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *池の水に姿を映しながら咲き誇っている馬酔木の花を袖にこき入れましょう。 磯影の見ゆる池水照るまでに 咲ける馬酔木の散らまく惜しも  万4513  右の一首は大蔵大輔甘南備伊香真人。 *磯の影が見える池の水を輝かせるほど咲き誇っている馬酔木の花が散るのは惜しい。 【似顔絵サロン】 三方王 /御方王/三形王 みかたおう ? - ? 奈良時代の皇族。舎人親王の孫。大伴家持と親交。 み雪降る冬は今日のみうぐひすの鳴かむ春へは明日にしあるらし  万4488 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4509-4510番歌(延ぶ葛の絶えず偲はむ)~アルケーを知りたい(1702)

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▼聖武天皇の没後2年。大 中臣清麻呂の家に集まった大原今城、甘南備伊香、家持が聖武天皇を偲ぶ歌を詠んだ 五首のうちの最後の二首。4509番は、聖武天皇がよく眺めていた野辺には、ここだったと分かるように囲いをしたいと家持が詠う。ここを御覧になっていたのだ、と。次の4510番はこれを受けて、伊香が高円の野辺を見ると泣けてきます、と和して締めくくる。▼起承転結モデルでこの五首を見ると、 起承転 承 結になって収まっている。 4506番が起、4507番が承、4508番が転。4509番は前の歌の「 野辺延ふ葛」を借りた承、4510番が結。歌人たちは歌の進行状態を見ながら、自分の番でインプロビゼーションしている。 延ぶ葛の絶えず偲はむ大君の 見しし野辺には標結ふべし  万4509   右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *葛が広がるように絶えず偲びましょう。大君がご覧になっていた野辺には囲いをしておきましょう。 大君の継ぎて見すらし高円の 野辺見るごとに音のみし泣かゆ  万4510   右の一首は大蔵大輔 甘南備伊香 真人。 *大君がいつもご覧になっていた高円の野辺。見るたびに声を上げて泣きたくなります。 【似顔絵サロン】 甘南備 伊香  かんなび の いかご ? - ? 奈良時代の皇族・貴族・歌人。万葉歌人。大伴家持・市原王・大原今城らと親交。757年と758年の歌が万葉集に収録。 うちなびく春を近みかぬばたまの今夜の月夜霞みたるらむ  万4489 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4506-4508番歌(高円の野の上の宮は)~アルケーを知りたい(1701)

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▼今回は家持が仲間の今城ら と興に乗って作ったという五首のうち三首。詠っているのは聖武天皇のこと。聖武天皇の 崩御は756年6月。54歳で没。これらの歌は没後2年経ってからというから、ということは、家持40歳、今城?、清麻呂46歳。この年、天皇は7月終わりまで孝謙天皇、8月から淳仁天皇。  興に依りて、おのもおのも高円の離宮処を思ひて作る歌五首 (うち最初の三首 ) 高円の野の上の宮は荒れにけり 立たしし君の御代還そけば  万4506   右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *高円の野の宮は荒れてしまいました。お立ちなっていた君の時代から時間が経過しましたから。 高円の峰の上の宮は荒れぬとも 立たしし君の御名忘れめや  万4507   右の一首は治部少輔 大原今城 真人。 *高円の野の宮は荒れていますけれど、お立ちになっていた我らが君の御名を忘れることはありません。 高円の野辺延ふ葛の末つひに 千代に忘れむ我が大君かも  万4508   右の一首は主人中臣清麻呂朝臣。 *高円の野辺に広がる葛の末のように、これから先も我らが大君のことを忘れることはありません。 【似顔絵サロン】 聖武天皇  しょうむてんのう 701大宝元年9月18日 - 756天平勝宝8年6月4日 第45代天皇(在位:724年3月3日 - 749年8月19日)。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘・宮子。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4504-4505番歌(うるはしと我が思ふ君は)~アルケーを知りたい(1700)

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▼4504番は、大中臣清麻呂が大原今城に、いつも会おうよ、と呼びかける歌。4505番はそれに応えて今城が「 オシドリ」と「惜し」を重ねる言葉遊びを入れて 応えた。こういうやりとりができる人間関係、よいなあ。 うるはしと我が思ふ君はいや日異に 来ませ我が背子絶ゆる日なしに  万4504  右の一首は主人 中臣清麻呂 朝臣。 * 私が 素晴らしいと思う貴方様は、毎日でもお越しください、途絶えることなく。 磯の裏に常呼び来棲むをし鳥の 惜しき我が身は君がまにまに  万4505  右の一首は治部少輔大原今城真人。 *磯の裏で鳴きび交わしながら来るオシドリのように、惜しき我が身は貴方様のお気持ち次第です。 【似顔絵サロン】 大中臣 清麻呂  おおなかとみ の きよまろ 676天武天皇5年 - 735天平7年12月2日 奈良時代の公卿・歌人。中臣意美麻呂の七男。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4502-4503番歌(梅の花咲き散る春の)~アルケーを知りたい(1699)

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▼ 大中臣清麻呂の家で宴を開いたときの歌シリーズ最後の二首。 4502番で出た「見れども飽かぬ」を4503番で家持は主人に向けて「 見とも飽かぬ君かも」と詠んで作品を捧げた。対面で会う喜びが伝わる。 梅の花咲き散る春の長き日を 見れども飽かぬ磯にもあるかも  万4502  右の一首は大蔵大輔 甘南備伊香 真人。 *梅の花が咲いては散る春の長い一日。いくら見ても飽きることのない磯です。 君が家の池の白波磯に寄せ しばしば見とも飽かむ君かも  万4503  右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *貴方様の家にある池で白波が磯に寄せるように、何度拝見しても見飽きることのない貴方様です。 【似顔絵サロン】 甘南備 伊香  かんなび の いかご ? - ? 奈良時代の皇族・貴族・歌人。万葉歌人。大伴家持・市原王・大原今城らと親交。757年と758年の歌が万葉集に収録。 磯影の見ゆる池水照るまでに咲けるあしびの散らまく惜しも  万4513 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4500-4501番歌(梅の花香をかぐはしみ)~アルケーを知りたい(1698)

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▼今回も大中臣清麻呂の家で宴を開いたときの歌。梅の花がテーマになって歌が続いている。4500番は市原王が梅の花の香りをネタにして清麻呂に捧げた歌。続く4501番は家持が花のうつろいと松の永続を対比させた前向きな歌。 梅の花香をかぐはしみ遠けれど 心もしのに君をしぞ思ふ  万4500  右の一首は治部大輔 市原王 。 *梅の花が香るように、距離は遠いですが、いつも貴方様のことを思っています。 八千種の花はうつろふときはなる 松のさ枝を我れは結ばな  万4501  右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *花はうつろうものです。しかし私たちは常に変わらない松の枝でご縁を結ぶのです。 【似顔絵サロン】 市原王  いちはらおう 719養老3年 - ? 奈良時代の皇族。志貴皇子または川島皇子の曾孫。安貴王の子。大伴家持と交流。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4498-4499番歌(はしきよし今日の主人は)~アルケーを知りたい(1697)

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▼今回は大中臣清麻呂の長寿を祈る家持の歌とそれに応えた歌。 4498番の 「はしきよし」 は、いとおしい・なつかしいという意味。でもこの歌では、いとおしいでも、なつかしいでもしっくり来ない。やはり、はしきよしでなければならん。4498番は、我が友のそのような言葉を聞けば自分も長生きしたいと思います、と応じる。清麻呂と家持の年齢差は16歳。清麻呂が年上。 はしきよし今日の主人は磯松の 常にいまさね今も見るごと  万4498  右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *今日の宴会のご主人様は、磯の松のようにいつまでも今のまま変わらないでいてください。 我が背子しかくし聞こさば天地の 神を祈ひ禱み長くとぞ思ふ  万4499  右の一首は主人 中臣清麻呂 朝臣。 *貴方様がそう仰ってくださるのでしたら、神に祈って長らえたいと思います。 【似顔絵サロン】 大中臣 清麻呂  おおなかとみ の きよまろ 702大宝2年 - 788延暦7年 奈良時代の公卿・歌人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4496-4497番歌(恨めしく君はもあるか)~アルケーを知りたい(1696)

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▼今回は、大原今城と 大中臣清麻呂 が梅の花をネタに遊ぶ二首。4496番は咲き終わった梅の花で攻め、4497番はそれを切り返している。頭の回転の速い人たち。  二月に式部 大輔中臣清麻呂 朝臣が宅にして宴する歌十首 恨めしく君はもあるかやどの梅の 散り過ぐまで見しめずありける  万4496  右の一首は治部少輔大原今城真人。 *貴方様が恨めしい。庭の梅が散るまで見せてくださらないとは。 見むと言はばいなと言はめや梅の花 散り過ぐるまで君が来まさぬ  万4497  右の一首は主人中臣清麻呂朝臣。 *見たいと仰れば嫌と言うものですか、梅の花が散り終わるまで貴方様がいらっしゃらなかっただけでしょうに。 【似顔絵サロン】 大中臣 清麻呂  おおなかとみ の きよまろ 702大宝2年 - 788延暦7年9月6日 奈良時代の公卿・歌人。子が宿奈麻呂、子老、継麻呂、諸魚、老人、今麻呂。国家の昔のことをよく知っている老臣、朝廷の儀式について多くを諳んじかつ熟練していた。高位の官職にあって政務を見るにあたって、年老いても精勤で怠ることがなかった 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4494-4495番歌(水鳥の鴨の羽色の青馬を)~アルケーを知りたい(1695)

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▼今回の二首は家持が晴れやかな宴会のためにあらかじめ作っておいた歌だけど、事情で発表しなかった作品。七日は青馬の節会の日なので4484番で馬を詠ったが、会が前日に変更になったため、お蔵入りとなった。4495番は宴会の時にウグイスを詠った作品。けど、これは奏上していない。で、馬とウグイスの歌がここに来ることになった。   水鳥の鴨の羽色の青馬を 今日見る人は限りなしといふ  万4494   右の一首は、七月の侍宴のために、右中弁大伴宿禰家持、預めこの歌を作る。 ただし、仁王会の事によりて、かへりて六日をもちて内裏に諸王卿等を召して酒を賜ひ、肆宴して禄を給ふ。これによりて奏せず。 *水鳥の鴨の羽の色をした青馬を今日見る人は限りなく寿命が延びると言います。   六日に、内庭にかりに樹木を植ゑて以ちて林帷と作して、肆宴を為したまふ歌一首 うち靡く春ともしるくうぐひすは 植木の木間を鳴きわたらなむ  万4495   右の一首は右中弁 大伴宿禰家持 。不奏。 *草木が靡く春になった印にウグイスよ、幕に見立てた木々の間を鳴きながら渡っておくれ。 【似顔絵サロン】 大伴 家持  おおともの やかもち 718養老2年 - 785延暦4年10月5日 公卿・歌人。百人一首6: かささぎの 渡せる橋に置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける   〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4493番歌(初春の初子の今日の)~アルケーを知りたい(1694)

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▼今回は4493番。758年の歌。長めの前書きの最初の文に主語がない。次の文の主語は内相藤原朝臣。だから、こういうことではないか:あえて名前を記さない高貴な方(この年に天皇になる 淳仁天皇 )が身近なスタッフを集めて小宴を催した。このとき藤原仲麻呂が、歌を作り詩を賦せ、という 「勅」を伝える。そこでみなさんが勅に応えた、という話。 奇妙なのは、そのときに奏上された歌はひとつも載ってなくて、4493番は「このときには仕事に追われて奏上できなかった」という断りつきの家持の歌。丁寧な前書き、ほかの人の歌はない、載っているのは奏上しなかった家持の歌・・・。   二年の春の正月の三日に、侍従、竪子、王臣等を召し、内裏の東の屋の垣下に侍はしめ、すなはち玉箒を賜ひて肆宴したまふ。 時に内相 藤原朝臣 、勅を奉じ宣りたまはく、「諸王卿等、堪のまにま意のまにまに歌を作り、幷せて詩を賦せ」とのりたまふ。 よりて、詔旨に応へ、おのもおのも心緒を陳べ、歌を作り詩を賦す。  いまだ諸人の賦したる詩、幷せて作れる歌を得ず 初春の初子の今日の玉箒 (たまばはき)   手に取るからに揺らく玉の緒  万4493   右の一首は、右中弁大伴宿禰家持作る。 ただし、大蔵の政によりて、奏し勘へず。 *初春、初子の今日の玉のようなありがたい箒、手に取るだけで玉の緒からゆらゆらと音が聞こえます。 【似顔絵サロン】 藤原 仲麻呂  ふじわら の なかまろ 恵美押勝 706慶雲3年 - 764天平宝字年10月17日 奈良時代の公卿。757年の橘奈良麻呂の乱に勝って力を得、764年の 藤原仲麻呂の乱で負けて斬首。 天雲の去き還りなむもの故に思ひそ我がする別れ悲しみ  万4242 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4492番歌(月数めばいまだ冬なり)~アルケーを知りたい(1693)

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▼4492番は、暦上の季節と実際の風景のギャップを詠った作品。暦の上では冬。 「しかすがに」 霞がたなびくから春。両者のギャップを「しかすがに」という言葉で表す。時計を見ればいまだ午前しかすがに 腹が鳴るから午後の訪れ、とか。  二十三日に、治部少輔 大原今城真人 が宅にして宴する歌 月数 (す) めばいまだ冬なりしかすがに 霞たなびく春立ちぬとか  万4492   右の一首は、右中弁大伴宿禰家持作る。 *暦の上ではまだ冬です。けれども、霞がたなびいていますから春が来てます。 【似顔絵サロン】 大原 今城  おおはら の いまき 705年 - ? 奈良時代の皇族・貴族・万葉歌人。764年、藤原仲麻呂の乱に連座。771年、赦免。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4491番歌(大き海の水底深く)~アルケーを知りたい(1692)

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▼今回の歌は夫に離縁された妻が悲しみ嘆く歌。夫の 藤原宿奈麻呂の 歌はない。藤原宿奈麻呂は家持の仲間。 大き海の水底深く思ひつつ 裳引き平しし菅原の里  万4491   右の一首は、 藤原宿奈麻呂 朝臣が妻 石川女郎 、愛を薄くし離別せらえ、悲しび恨みて作る歌。年月未詳 *大きな海の水底を深く思いながら、裳を引いて行き来した菅原の里です。 【似顔絵サロン】 石川 女郎  いしかわ の いらつめ ? - ? 大和・奈良時代の女流歌人。 藤原  宿奈麻呂 / 良継 ふじわら の  すくなまろ/ よしつぐ 716霊亀2年 - 777宝亀8年10月23日 奈良時代の公卿。藤原宇合の次男。 763年、 藤原仲麻呂暗殺計画を 大伴家持らと 立てるも、事前に漏れ、解官 。家持は 薩摩守に左遷。764年、藤原仲麻呂が乱を起こすと詔勅を受けて討ち取った。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4488-4490番歌(み雪降る冬は今日のみ)~アルケーを知りたい(1691)

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▼今回の歌は三首構成のストーリーとしても楽しめる。まず4488番で、冬は今日でおしまい明日からは春だぞ、と今を節目にしようや、という気分を打ち出す。続く4489番はその気分を受けて、そうですよ春が近いっすよ、今夜の月が霞んでいますから、と和する。そして4490番で家持が春になりましたら、ウグイスには最初にこの 三形王の 家で鳴いてもらいたいものですな、と心地よく締める。仲良し三人組の良い歌。  十二月の十八日に、大監物 三形王 が宅にして宴する歌三首 み雪降る冬は今日のみうぐひすの 鳴かむ春へは明日にしあるらし  万4488   右の一首は主人三形王。 *雪が降る冬は今日だけです。ウグイスが鳴く春は明日からです。 うち靡く春を近みかぬばたまの 今夜の月夜霞みたるらむ  万4489   右の一首は大蔵大輔 甘南備伊香 真人。 *若葉がなびく春が近づきました。今夜の月が霞んでいます。 あらたまの年行き返り春立たば まづ我がやどにうぐひすは鳴け  万4490   右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 *年が替り春になったならば、まずこの家でウグイスに鳴いてもらいたい。 【似顔絵サロン】 甘南備 伊香  かんなび の いかご ? - ? 奈良時代の皇族・貴族・歌人。万葉歌人。大伴家持・市原王・大原今城らと親交。757年と758年の歌が万葉集に収録。 三方王 /御方王/三形王 みかたおう ? - ? 奈良時代の皇族。舎人親王の孫。大伴家持と親交。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4487番歌(いざ子どもたはわざなせそ)~アルケーを知りたい(1690)

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▼前回の4486番と今回の4487番が詠まれたのは757年11月。その数カ月前に橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を打倒する計画に勝っている。4487番は、内裏で行った宴会に集った貴族や官僚たちを 引き締める メッセージ和歌。負ければ「たはわざ」 。ところが7年後、仲麻呂自身が乱を起こし負けてしまう。 いざ子どもたはわざなせそ天地の 堅めし国ぞ大和島根は  万4487   右の一首は、内相 藤原朝臣 奏す。 *さあ皆さん、たわけた振る舞いはなされませんように。天地の神々が堅く国なのですから、ここ大和島根は。 【似顔絵サロン】 藤原 仲麻呂  ふじわら の なかまろ 恵美押勝 706慶雲3年 - 764天平宝字年10月17日 奈良時代の公卿。藤原武智麻呂の次男。天雲の去き還りなむもの故に思ひそ我がする別れ悲しみ 万4242 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4486番歌(天地を照らす日月の)~アルケーを知りたい(1689)

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▼4486番は 後に淳仁天皇になる 大炊 (おおい) 皇子の歌。後見人は藤原仲麻呂。この歌は757年の作で、一年後に 孝謙天皇から譲位される。「あるべきものを何をか思はむ」と詠っているので、このときから「思はむ」ことがあった のだろうか、と思ってしまう。  天平宝字元年の十一月の十八日に、内裏にして肆宴したまふ歌二首 天地を照らす日月のきはみなく あるべきものを何をか思はむ  万4486   右の一首は、皇太子の御歌。 *天地を照らす太陽と月と同じく天皇の御代は極みがありません、思い煩うことなどありません。 【似顔絵サロン】 淳仁天皇  じゅんにんてんのう 733天平5年 - 765天平神護元年11月10日 第47代天皇。在位:758年9月7日 - 764年11月6日 天武天皇の皇子・舎人親王の七男。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4483-4485番歌(移り行く時見るごとに)~アルケーを知りたい(1688)

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▼今回の家持の三首は、 757年の橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼそうとして失敗した事件の後に作った歌という。4483番の「昔の人」は聖武天皇(756年崩御)や橘諸兄(757年逝去)をはじめ奈良麻呂の乱に加わった友人知人のこと。4484番の「花」はこれらの人びと、「山菅の根」は人の思いを言ってると思ふ。4485番は前の二首からふっと顔を上げて気持ちを持ち直す気配がある。  勝宝九歳の六月の二十三日に、大監物 三形王 が宅にして宴する歌一首 移り行く時見るごとに心痛く 昔の人し思ほゆるかも  万4483   右は、兵部大輔大伴宿禰家持作る。 *時が移り行くのを見るたびに心が痛みます。そして、昔の人のことを思い出します。 咲く花はうつろふ時ありあしひきの 山菅の根し長くはありけり  万4484   右の一首は、大伴宿禰家持、物色の変化 ふことを悲しび怜(あはれ)びて作る 。 *咲く花は移ろうもの。でも、山の土中の木草の根は長く続きます。 時の花いやめづらしもかくしこそ 見し明らめめ秋立つごとに  万4485   右は、大伴宿禰家持作る。 * 季節の花には心惹かれます。ご覧になってお心を晴らしたことでしょう。秋になるたびに。 【似顔絵サロン】 三方王 /御方王/三形王 みかたおう ? - ? 奈良時代の皇族。舎人親王の孫。大伴家持と親交。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4481-4482番歌(堀江越え遠き里まで)~アルケーを知りたい(1687)

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▼4481番は「見とも飽かめや」が眺めている椿と植えた相手と両方にかけた歌。4482番 は任地に赴く相手に途中まで同行する見送りに感謝の気持ちを表す歌。  三月の四日に、兵部大丞大原真人今城が宅にして宴する歌一首 あしひきの八つ峰椿つらつらに 見とも飽かめや植ゑてける君  万4481   右は兵部少輔大伴家持、植ゑたる椿に属けて作る。 *八つ峰の椿とこれを植えた貴方様は見ても見ても見飽きることはありません。 堀江越え遠き里まで送り来る 君が心は忘らゆましじ  万4482  右の一首は、播磨介 藤原朝臣執弓 、任に赴きて別れを悲しぶ。 主人大原今城伝へ読みてしか云ふ。 *堀江を過ぎた遠い里まで私を見送ってくださった貴方様の気持ちは決して忘れません。 【似顔絵サロン】 藤原 執弓 /真先/真光 ふじわら の とりゆみ/まさき ? - 764天平宝字8年 奈良時代の公卿。藤原仲麻呂の次男。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20

万葉集巻第二十4478-4480番歌(佐保川に凍りわたれる)~アルケーを知りたい(1686)

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▼前回と今回の3首は 大伴池主宅で小宴を催したとき大原今城が披露した古歌。宴会というのになぜか悲しい歌ばかり。どんな背景だったのか・・・・それでも仲間が顔を合わせ酒を酌み交わすのが良き。   大原桜井 真人、佐保の山の川辺に行きし時に作る歌一首 佐保川に凍りわたれる薄 (うす) ら氷 (び) の 薄き心を我が思はなくに  万4478 *佐保川を凍らせている薄い氷のような薄い心で私が思っているとでも、、、   藤原夫人 が歌一首  浄御原の宮に天の下しらしめす天皇の夫人なり。字は氷上大刀自といふ 朝夕に音のみし鳴けば焼き大刀の 利心 (とごころ) も我れは思ひかねつも  万4479 *明けても暮れても声を上げて泣いているので、刀のようにしっかりした強い心になるなど思いもよりません。 畏 (かしこ) きや天の御門を懸けつれば 音のみし泣かゆ朝夕 (あさよひ) にして  作者不詳  万 4480   右の件の四首、伝へ読むは兵部大丞大原今城。 *畏れ多い天の御門が心にかかっておりますので、明けても暮れても泣くしかありません。 【似顔絵サロン】 大原 桜井  おおはら の さくらい 桜井王 ? - ? 奈良時代の皇族・貴族・歌人。父は河内王。兄が高安王、弟が門部王。 藤原夫人  ? - ? 飛鳥時代の女性。藤原鎌足の子。とも呼ばれる。藤原不比等・氷上娘の妹。天武天皇の夫人。 わが丘の龗に言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ  万104 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=20